第三話「ちいさな食卓」
目が覚めたのは、まだ太陽が昇って間もない時間だった。
布団の中で身体を伸ばした私は、机の上に置いた問題集に向かった。頭をほぐすためのものだから、簡単な問題だけをたくさん解いていく。
三ページ分だけ数学を解き終えると、私は自室から出てキッチンに向かった。
まだ温まっていない木の廊下を歩いていると、努くんがいる部屋の方から物音が聞こえてくる。一体なんだろうと思って、できるだけ音を出さないように近づいた。それでも板がメリメリとしなるものだから、私はおっかなびっくりしながら歩かされるハメになった。
なにか書いてる?
緊張に震えている右手の甲をドア代わりのふすまに向けて、小さな音でノックした。
「どうぞ……って、里美だよね」
答えずに、私はふすまをそっと開ける。
和室の窓から差し込む陽光に照らされて、埃がキラキラと舞う。手前の方にいた努くんは部屋着のまま、机へもたれかかるようにして座っていた。机上の紙を真剣に見つめている彼の右手には、短い鉛筆が握られている。
彼は少しだけ私の方に顔を向けると、柔らい表情で話し掛けた。
「おはよう」
「お、オハヨウゴザイマス」
「そんなに固くならなくたっていいじゃないか」
笑った彼は紙束をまとめる。
「スマホの充電器、東京に忘れてきたみたいだ」
「そんな文明の利器、この家にはありませんよ?」
残念ながらガラケーのみだ。私がそう言うと、彼はあごへ左手を当てて考え始めた。うーんと唸って、彼はなにか決心したかのように立ち上がる。そして私の方を向くと、爽やかに宣言した。
「そうだね、今日は使わないでおこう」
一度きりしかない今日が、始まる。
ほかほかしたご飯にシジミ入りの味噌汁、そしてふんわりな玉子焼き……お母さんの作った朝ごはんを見るだけで、私はとっても幸せな気分になる。
「おはようございます」
努くんが挨拶すると、配膳をしている母さんがおかしそうに笑った。
「これじゃあまるで、五十嵐くんが下宿しているみたいね」
感慨に満たされたような彼女の声はさておき。
その手に持たれている皿を見て、私は大声を出してしまった。
「おおおっ!」
「里美、念のため言うと彼はお客さまよ」
そう注意されて激しく後悔したけれど、それは仕方のないことだった。今日の特別な朝食は、なんとメバルの煮付けだったからだ。
「美味しそうですね」
「あら、喜んでもらって良かったわ。昨日、たまたま赤メバルをいただいてね」
母さんは努くんにお礼を言うと、煮付けの皿を置いて配膳を終わらせた。私はすぐさま席に着いて、彼を急かす。こんな時の私は、少しも女の子っぽくない気がする。
「ご飯が冷めちゃいますよ。早く早く!」
そして二人が座ると、音頭を取るように手を合わせた。パチン!
「いただきます!」
さっそく煮付けに箸を入れると、メバルの身がほろほろと割けた。タレが染み込むようにご飯の上にのせて、そのまま一緒に食べると――
「んーっ」
「どう?
母さんの質問に、私はどう答えれば良いか迷った。とっっっっっても美味しいことを伝えるには、どんな言葉がふさわしいのだろうか。
ああ、悔しい!
薄くて柔らかい味なのにご飯が進む、この味を表現しきれない自分が悔しい!
結局、長い言葉で伝えることを諦めて、私は代わりに満面の笑顔で応えた。言葉が感情を越えることはない、なんて名言は聞いたことあるけど、こんな味を幸福の味と呼ぶんだ、私は本気でそう思えた。
ビックリマークが付きっぱなしの朝食は、瞬く間に消えてしまった。ではなく、私が平らげてしまった。好きな男子の倍くらいのスピードで食べる女子は、いかがなものか……いいわけないだろ! と一人で突っ込んでいるうちに食べ終わってしまったのだから、もうどうしようもない。
松江市内を一日で回る方法は、三つある。そう言いたいところだが、交通手段が少ないので一つしかない。文句あるか。
その一つというのは、松江の観光スポットを回る循環バスだ。
「だから今日は、まず市街地へ行きます」
「うん」
まだ朝食を食べ終わっていない努くんが、少し眠たそうに相槌を打つ。朝は弱いのかなと考えると、彼のことがかわいく見えてしまう。
だけど、そんなことはおくびにも出さない。
「で、一日乗車券を買います」
「うんうん」
「今日はそれを使って、観光地を一周したいと思います」
「なるほどね」
そう言いながら、努くんは最後の一口を食べる。
「ごちそうさまでした」
丁寧に手を合わせ、お盆を持って行こうとする姿があまりに自然すぎたから、母さんも止めるのを忘れかけた。
「……ああ! 五十嵐くんは里美の話を聞いてやってくださいっ」
「ちょっと母さん、慌てすぎ」
なんて言っている私も、まるで忘れている。
「……そうですか」
不思議そうに努くんが答えると、お盆を母さんに預けて食卓に戻ってきた。即座に、私が話を再開する。彼を放置しておけば、たぶん家の掃除までしかねない。
「じゃあ、お昼はどこがいいですか?」
「里美の行きたい所がいい」
天然タラシは、そんなことを真顔で言い放った。その声は容易く私の胸をぶち抜く。行きたい所“で”いい、ではなく、行きたい所“が”いい、と言うあたりが特に。
「……じゃ、じゃあ……その、い、出雲そばの店なんかどうでしょう?」
ダメージを回復するのに数秒掛かった私は、耳を真っ赤にしながら言った。今の自分、もしかしたら体温が二度くらい上がっているのかもしれない。
「おーはよぉ」
「ちょっと父さん!」
遅れて起きてきた父さんのおかげで、なんとかその場は乗りきった。