第二話「しずかなよるに」
赤面回
私のお父さんは、ごくごく普通のサラリーマンだ。田舎といったら農業くらいしかないようにも思えるが、意外と、探せばあるものだ(なんだかんだ県庁所在地だし)。正直に言うと、どこも人手不足なのだ。それでもなかなか、私の家庭は珍しい方だと思う。
「へえ。民宿もしてるんだね」
「泊まりに来る人は少ししかいないけれど……あ、そういえば何年生ですか?」
「二年生だよ、君は?」
颯爽と聞き返されて、私は嬉しくなった。もし私が飼い犬のモナカだったら、尻尾をフルスピードで振りまくってしまっただろう。人間でよかった。
「わ、私も二年生です」
「へえ、同い年か。大学はどうするの」
待ってましたその質問、と言わんばかりに、私ははっきりと答えた。
「もちろん、東京の大学ですよ!」
「東大?」
「うーん、とにかく東京の大学です」
すると彼は、少し意外な反応をした。すごいね、でもなく。無理だよ、でもなく。
「東京、ね……」
それだけだった。期待していただけに、私は肩すかしをくらったような気分にさせられた。しばらく沈黙が流れて、彼は気付くとすぐに謝る。
「ごめんね。冷たい反応だったでしょ」
「そんなこと、ないですよ……あっ、名前はなんて呼べばいいんですかね!」
私は話題を変えようとして、できるだけ明るい調子で聞いてみた。さっきから、お互いのことはなにも聞いていない。もしかしたら彼が気を遣ってくれているかもしれないから、私の方から話しかけるべきだと思ったのだ。
「五十嵐努。イガラシって呼べば良いよ」
「イガラシさんですか」
イガラシツトム、という言葉を、口の中で三回言ってみた。イガラシツトム、イガラシツトム、イガラシツトム……うん。なかなか悪くない響きだ。
勝手に私が満足していると、あ、と右隣から声が聞こえた。
「着いたね」
彼が指差した先には、一昨日、茂おじいちゃん(母の父の弟、つまり大叔父)が書いたばかりの「のづや」という看板が掛けられていた。渋味を出そうとヒノキの板へ書いたせいで、すでに文字が読みづらくなっている。
「この家、広いね。家の十倍はあるな」
「十倍!?」
私の家を十分の一にすると、たぶん、居間くらいのスペースしかなくなってしまうのでは……東京、恐るべし。
「ねえ、里美さん」
さりげなく彼が放った一言で、私の鼓動は頂点を貫いた。
「あ、あたし、じゃなくて、私のことは野津って呼んでください!」
「だって、これから会うのはみんな野津さんなんでしょ?」
確かに、それはそうだけど。さっき会ったばかりの男子にそんなことを言われるのは、最上級に恥ずかしいものだ。初心とか言うんじゃない都会派女子め!
「じゃあ私も努くんって呼びますから」
せめてもの反撃のつもりで言ってみたが、彼はあっさりと微笑んだ。
「ふふ、恋人みたいで面白いね」
そう言われて胸が高鳴ったけれど、すぐに気が付いた。
「……あの」
「なに?」
「……努くんは、どれくらい松江にいますか?」
どうしてそんな質問をしたのか、私も分からなかった。ただ、自分がどうすれば良いかは分かっていた。
「明後日の昼に出る電車で帰るつもり」
そう答える。
彼は――努くんは、恋人みたいだと言った。受験生なのにそんなことを考えるのが、良くないということくらい知っている。それでも私は、三割、いや一割くらいの希望を抱いていた。
だけど努くんは、恋人みたいだと言った。
それはとても当たり前のことなのに、少し泣きたい気分になってしまった。奥歯を噛んでこらえ、ぴったり一呼吸ぶんの間を入れてから、私は切り出した。
「じゃあ、明日は私が案内します」
そう言った私は、なぜか両目をつぶった。なんでそんなことをしているのだろう。
祈っている?
なにを祈っているのだろうか。なんのために、どうなればいいと思ってるのか? それすらも分からない。
けれど私は、自分を超えたなにかに祈っていた。
お願い……
「……うん。お願いしようかな」
努くんが小さくそう言うのを聞いて、私は本当に飛び上がった。
「やったあ!」
「里美、なにが“やった”なの」
その声に顔を上げると、実に見慣れた顔が二つ。父さんと母さんだ。いつの間にか、家の前に着いてしまったらしい。
「あ、母さん……じゃなくて、この人がつと、五十嵐さん」
「あら、こんな田舎までよくいらっしゃいましたね」
そう挨拶した母さんの脇からモナカが顔をひょっこり出して、そのまま努くんに飛びかかった。すかさず父さんが制止しようとするが、まるで敵わない。
「こ、こら待ちなさい」
ハッハッと荒く息を吐くモナカは、単純にも丸まった尻尾を振っていた。そこまで大きくはない犬だけど、それなりの重量で努くんにのしかかっていることになる。
「はいモナカ、そういうのは後でね」
言いながら私がその身を引き剥がすと、モナカは目に見えて落ち込んだ。可愛い、と思わず私は思う。だけどこれもモナカの作戦の内なので、ここはあえて無視する。
その隙に、努くんは靴を脱いで家――ではなく宿にあがった。普通に考えて、両親の服装に疑問を感じないわけがない。父さんに至ってはパジャマだ。
「ちょっと、さすがにパジャマはなしでしょ」
悪い悪い、と父さんは反省していなさそうに答える。それはいつものことで、そんな反応ばかりするから母さんに怒られる。民宿に本腰を入れているわけでもないから仕方ないけれど、やっぱりくつろぎ過ぎるのも良くないと思う。
「もう一人の方、インフルエンザに罹ったんですって?」
「ええ、本当は彼に誘われたんですけどね」
仕方がなさそうに話す彼の姿は、大学生(それも上級生)のように見える。東京の高校二年生は、みんな彼みたいなのだろうか。同じクラスの男子はまだ中学生くらいにしか見えないのに……やっぱり凄いぞ、というか怖いぞ東京。
「申し訳ありません、家の里美が迷惑をお掛けしました」
「そんな、迷惑だなんて……里美さんがいなければ、僕は夜の路上で迷子になっていました」
やめて! と叫びそうになる衝動を、私は必死にこらえた。母さんに向かってその呼び方をするのは、まるでアレみたいではないか。アレっていうのは……
ああ、もうっ!
勝手に一人でイラついていた私は、完全にみんなの会話から取り残されていた。気付いた時には努くんが見えなくなっていて、私は慌てて後を追う。
「夜ごはんは良いのかしら……食べてきたって言うけど、なにか出したほうがいいんじゃないかしら。ねえ父さん、どう思う?」
「あ、ああ。それは任せるよ」
「まったくもう!」
すぐそこで父さんと母さんがいつも通りの夫婦漫才をしていて、私はできるだけ目立たないように二人の背後を通り抜けた。
私の家は、ほとんどが和室だ。リビングとキッチンと風呂場、洗面台とトイレ以外は全て和室だ。それも全部で広いのが五部屋ある。そして私たち野津家は三人暮らしだから、場所が余る。
と、いうわけで。
今から五年前に、家の空き部屋を使った民宿「のづや」をオープンさせたのだ!
そう説明すれば格好良さそうに聞こえるだろうが、現実というものは理想通りに行かないものだ。民宿は趣味程度として考えていたから、客は年に二桁も来れば素晴らしいくらいだった。ちなみに努くんは、今年度で七人目のお客様だ。松江旅行に彼を誘った人も、結構な物好きだと思う。
長い廊下の先にはふすまで仕切られた二つの和室があって、努くんは手前の部屋で荷物の整理をしていた。私が来たことに気付いた彼は、すぐにその作業を中断して立ち上がる。
「なんだか、部屋が広いって良いと思うなあ。里美は?」
「えー、広いから掃除も大変だし……って、ええ!?」
よ、呼び捨てって……
突然の不意打ちに、私の思考は完全に麻痺した。目の前にいる本人は自分の発言の重要さに気付いていないらしく、キョトンとした顔になった。今のはもしかして、本当に何も考えずにそう呼んだのだろうか。この天然タラシめ。
「どうしたの」
「なんでもないですっ」
私は即答したが、心の中はとろけてしまうくらいに熱くなっていた。い、いかんいかん。仮にも私は受験生の身なのだから、そんな煩悩に気を取られてはいけない。
それに、彼は明後日には東京に帰る。帰った東京での彼はきっと忙しくて、私なんかよりも可愛い女の子が掃いて捨てるほどいる。きっと爽やかな彼にはカノジョがいて、いつか私のことなど忘れてしまうだろう。そうあるべきなのだ。
「お、おやすみなさい」
「おやすみ。明日が楽しみだよ」
努くんの優しい言葉が、私の胸を痛めつける。
嬉しいのに。
楽しいのに。
……どうして?
その日の夜、私は布団の中で少し泣いた。
どうしてかは、自分でも分からなかった。