第一話「夜九時半の田舎」
見慣れない景色が、車窓の右から左へ流れていく。色彩で溢れた田舎から、みるみるシャイングレーの都会に変わってゆく様子を、不安じゃないといえば嘘になる。
少しずり落ちた眼鏡を元に戻すと、自動販売機で買った缶コーヒーに恐る恐る口付けてみた。
「……ぐへぇ」
苦味のあまり変な声が出てしまい、私は慌てて周りを見渡す。ここは近所のおばあちゃんしか乗らないようなバスではないのだ。人生で初めての新幹線に、間違いなく緊張していた。あと一時間で目的地まで着いてしまう、早く過去問を確認しないと。
それにしても、こんな苦い飲み物が世界中で好まれているのは、一体どうしてなんだろう。愚痴っぽく思いながら、ずっしり重量のある鞄を開けた。中には大量の参考書や赤本があって、最初に触れた一冊を選ぶ。
もうすっかりボロボロになった数学の参考書を見返しながら、私の思考はどこか遠くへと飛んでいった。
暗い……
こんなことなら、下手に駅前へなんか行かなければよかった。
今日は家で勉強する気になれず、夕刻、少し外出してみようと思い立った。しかし私の家は、外に出ようと思ったところでなにもないような田舎。となると、自転車に乗り松江市街へ行ってみるしかない――片道だけで一時間も掛けて。
第一志望の大学は、もちろん東京の大学だ。そう意識し始めたのは、私が中学二年生の時に、家族旅行で東京観光へ行った時のことだった。
新宿、秋葉原、浅草に渋谷……東京を回っている間、私の鼓動はものすごい速さで鳴り続けていた。どこを見ても、人、人、とにかくたくさんの人がいる。その光景は、片田舎の女子中学生が持つ概念をぶち壊すには十分過ぎた。オーバーキルもいいところだ。
それ以降、「東京の大学に通いながら一人暮らし」というのが私の目標になったのだ。通ってなにを勉強するかなんて1ミリも考えてなかったけれど、なんとなくカッコよければそれで十分だった。
次に私はあることに気付く。なかなか、東京の大学というのはムズカシイ。だから私は、島根に帰ってすぐ駅前の大きな本屋へ向かって、片っ端から赤本を買い漁った。受験の鬼と化したのだ。そしてついに、来月から高校三年生になる。そして来年には、念願の東京一人暮らしを始めている! ……予定だ。
――と、自己紹介はそこらにして。
怖い……
松江の駅前にあるスタバを出たのが夜の九時。そんな時間になるまで、問題を解くことへ夢中になっていた私が悪いのだが、そんな時間まで空いているスタバの方だって悪いじゃないか。街灯もない夜道を自転車で走る、か弱い女子高生の気持ちにもなってみろ、鳥取にまで出店しやがって! と叫びたくなる。が、やっぱり自分が悪いような気もする。
それにしたって、田舎の夜は本当に真っ暗だ。松江の中心街であればまだ(比較の問題として)明るいが、外に出れば街灯もまばらだ。というかほとんどない。
…………
………………
……本当に、なにもない。
道があまりにも暗くなってきたので、私は自転車を下りて歩いていた。いつもなら七時まで帰宅しているので、寒さか怖さか、足が震えている。家までの道なら、足がなんとか憶えている、はず――
ガタッ
「ぎゃあっ!」
突然の物音に驚いた私は、その場で尻もちをついてしまった。聞いたこともないような音の正体を探ろうと立ち上がった時、暗闇の中にぼんやりと人影が見えた。
痩せていて、背の高い、男……
「ううわああああ!」
すっかり慌てた私は、少しも女らしくない声で叫んだ。
大変だ!
とにかく、この窮地をいかにして切り抜けるかを考えなければいけない。
いや、考えている暇すらないではないか!
その男はずんずん私の方へと近付いてきて、手を伸ばせば届くあたりまで距離を詰めてきた!
全身を震わせながら顔を上げると…………あれ?
「おれ……そんな怪しそうに見えるかな?」
男は、いや男子は、完璧なイントネーションでそう言った。
目の前にいたのは、予想とは全く違う人だった。こんな顔立ちの人を、私はこれまで見たことがない。いつも私の周りにいるのは、濃くて汗臭い(失礼)男子ばかりだったが、彼はなんかこう……洗練されているように見える。はっきり言ってしまえば、都会人だった。
「い、いえいえ! 私こそ、と、取り乱してしまって、ご、ごごめんなさい!」
思いきり取り乱しながら話す私を見て、彼は優しく微笑む。
「そんなことないよ。こんな暗闇の中で男が立ってたら普通、誰でも驚くさ。そんなことより、女の子一人で大丈夫なの?」
うわー! 私のことを"女の子"と呼んでくれる人がこの世にいたなんて!
ふと彼の傍らを見ると、そこがバス停だということに気が付いた。所々、虫にでもかじられたような時刻表を読むと、家の最寄りから二つしか離れていないことがわかった。胸をなでおろした私は、ふと疑問を抱く。
「どうして、こんな所に」
「この時間なら、まだバスも動いてると思うんだけど……」
彼はそう言いながら、ジーパンの右ポケットから携帯電話を出した。私が今まで一度も持ったことのない携帯電話、それもスマートフォンだ。液晶が眩しくて、ちょっとした懐中電灯になりそうだと感じる。
「九時半だけど、もうバス終わっちゃった?」
私は、しばらくその質問に答えることができなかった。彼が引いていた青いスーツケースに貼られている校章のシールが見えたからだ。アクセントに気を付けながら質問してみる。
「も、もしかして、東京から来ましたか」
「まあ、そうだね」
「本当!!?」
その校章は、まさしく“東京の大学”そのものだった。
「だだ、大学生なんですか?」
受けた質問の内容も忘れた私の問いに、彼は困惑気味に否定した。
「いいや、俺はそこの付属みたいな高校に通ってるんだ。知っているんだね、この校章」
「それはもちろん!」
そこまで突っ走って、ようや質問されていたことを思い出した。
「あと、もうバスは終わりました」
「何時くらいにかな」
「八時です、8時36分」
「8時36分?」
彼は心底驚いたように繰り返す。都会だったらまだ運行しているんだ、と謎の恥ずかしさに視線を外していると、男子は後頭部をかきながら言った。
「そっか。じゃあ、歩いていくしかないんだね」
「歩くって、どこに?」
「今日の宿にだよ」
彼は当然のようにそう言ったけれど、この辺りにそういう類いはほとんどないはずだった。私は少し不思議に思って、聞いてみる。
「宿って、どこですか?」
「えっと……“のづや”って所」
彼がそういった瞬間、私の頭が真っ白になるのを感じた。本当に、なにひとつ考えることができなかったのだ。真っ白、まっしろまっしろマッシロ――
「大丈夫?」
心配して優しく声を掛けてくれた彼に、私は最上級の笑顔で答えた。
「そこ、私の家なんです!」
今度は、彼の方が驚く番だった。
本作は、筆者が高校生の時分に書いた物語となります。苦笑いしながらご覧いただけると幸いです。