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7、藤堂宇美

 金色の夜明けであった。天空に海をたたえたような輝く青空、アルプスの巨峰が逆さに盛り上がったかと思われる雲、海の寝床より起き上がったばかりの若々しい爽快な太陽は四方を一気に照らし渡り、空の宝石の青さにプリズムのきらめきを与え、雲の初雪の純白にまばゆい光沢を与えた。山の木々の緑のしたたる枝また枝、葉また葉は恵みの光雨をあまさず吸収すべく夜の汚気を吐き出し、朝の清気で身を洗いつやめく瑞々しさに恋の喜びさえ感じられた。


 一年にわたる災害は終結した。広場には集まった多くの衆人がいたが、肝心の大カタツムリは消えていた。邪悪な大計画を描いていた元凶が滅亡したのと前後して、カタツムリもまた海へと帰っていったのだ。


 朝日の黄色い剣が暗闇を切り刻んだ頃、かつてない地鳴りを轟かしてカタツムリは一年もの長い眠りから目覚めた。広汎なる面積の軟体組織が殻の中から出てくると、その全長はさらに途方もなく高くなった。人々は一時パニックに陥ったが、カタツムリが自分たちにまったく関心を示しておらず、頭を海の方へと向けているのを見て、次第に理性を取り戻した。人々が希望した結果は当たり、カタツムリはおとなしく海へと進路をとり、動き出していった。


 来た道を戻っていくカタツムリの後姿を眺めながら、人々はいまだに何をしようとの意気を取り戻せず、その場にとどまって呆然としていた。そこには、海城がいたし、上杉や馬子、藤堂もいた。だれもが同じ胆を抜かれたようなのっぺりした顔だった。一年分の重みが背中から落ちてしまったので、しばらく倦怠感と解放感のために動けないのかもしれなかった。


 カタツムリは帰っていく。それに伴って、彼が引き連れてきた海水もまた引いていっていた。水に浸かっていた湊町からは急速に水が減り、海へと排水されていた。水の底に沈んでいた低地の町も一年ぶりに大気を浴びられた。


 高台から人々はその景色にずっと見入っていた。しかし、上杉は動き出し、立ち上がって海城のそばに寄っていった。


「ちょっと考えていたんですがね。……カタツムリを操る寄生虫のことをご存知ですか。この虫はカタツムリの中枢神経に入り込むと、まるで操縦士の運転するマシーンのようにカタツムリを動かせてしまうそうです。そうして、木の枝や葉っぱの先の目立つ所に行かせると空の鳥に食べられるように仕向けるのだそうです。どうしてだかわかります? それは、カタツムリを利用して、鳥の体に寄生するためです。……何が言いたいかというとですね、あの人魚はちょうどこんな風にしてカタツムリを操る謎の存在だったのではないでしょうか。海にひそむ悪い何かがカタツムリ怪獣を操り、陸上を攻めようとした。同じようにあなたの恋人の宇美さんの死体にとりついて、意のままに操っていたのではないでしょうか。……すみません。どうもこれはマズイ空想ですね。私がこんな与太話を考え出すなんて、よほど頭のネジがゆるんでいるんですね。忘れてください」


 上杉は恥ずかしそうに顔をうつむけて、足元の地面にまたどっかりと腰を下ろした。そして、自分の思考に夢中になり動かなくなった。


 突然、海城は誰かに呼ばれたように横を向いた。そっちは林になっていて、彼を呼んだ主の姿は見えなかった。しかし、彼はそれが誰なのか了解している顔であった。彼は人の中から抜け出してそちらの方に歩いていった。


 林に入り込み、木の陰をのぞいて見ると、そこに藤堂宇美がいた。


「もう何もかもお終いなんだね」


「ええ、そうよ。おつかれさま、良太君」


「君との一年間は忘れないよ。体はなかったけれど、たとえ水の向こう側にいよとも、僕は君と心が通じ合っていたと思っているよ」


「ええ、私もそう思っているわ」


「ただ、僕にはいくつか疑問があるんだ。君は、僕以外の人にも姿を見せていたの?」


「私が洪水に飲まれて死んだ時、魂が水に溶け込んで、湊町を覆った水に閉じ込められた。そのせいで、湊町の水に触った者のうちごく少数が私を見ることができていたみたい。自治会の人たちは主にそういう人たちね。彼らを迷わせてしまった原因はあの人魚と、そして残念なことに父ね。父は、私の死を悲しむあまり、私の死体を乗っ取った人魚と会って頭がおかしくなってしまったのよ。ありもしないことを有ると思い込んで、絶望に沈んだ町の人々を自分の作り話に引き込んでしまったのよ」


「馬子さんという人は水の中の君のことも人魚と呼んでた。まあ、姿が同じだから無理もないよね。彼は、君の導きを受けて行動していると言っていた。自治会の他の人たちもそういう感じだった。君は一体、何をしていたんだい?」


「私は、私の姿を視認できる少数の人たちを助けたいと考えていたの。でも、私の意思を、言葉とか具体的な仕草で伝えることはできない。意思の疎通ができるのはあなただけだったもの。だから、私が可能な範囲で彼らに指図を与えたわ。人魚は決定的な瞬間が来るまで町の人々に危害を加えないとわかれば、私は彼らにけっして逆らわないようにさせた。父が自治会を作れば、なるべく平穏に過ごせるように図った。食べ物や住む所や着る物に困っている人がいれば、彼の望む物がある場所を教えたわ。なにせ、私は水と同化して、町の隅々にまで染み渡っていたから」


「どうして君は、今回、この場に町の人たち全員を集めたの? 上杉さんにも来るように暗示を与えたんでしょ?」


「彼らに結末を見せるためよ。町に滅びを運びながら、町の人々を欺いている悪党の正体をあばくのを見せるため。彼らには真実を直接知る権利があったから。人魚がちょうど機を同じくして彼らを一網打尽にするつもりのようだったから、それを利用させてもらったの」


「湊町を封鎖したのは、人魚のしわざ?」


「あいつは、町中の人たちが外に逃げて、これ以上の情報が漏洩することを防ごうとしていた。それで、父を通じて自治会を動かし、政府に揺さぶりをかけて町の出入り口を塞ぎ、また内側からも監視体制をしいて脱出者を防圧していたのよ」


「それにしても、とてつもなく危険な方法だんたんじゃないのかな。もし、君の目論見が外れて、敵が退散しなかったら、僕達はまちがいなく一人残らず殺されていたよ」


「ええ、だから今回のことは、あなたも含めてこの町の住民に課せられた最大の試練だったわ。表が出れば救済、裏が出れば死亡という審判的なコインゲーム。そして、その重大なコインこそ、良太君、あなただったのよ」


「そんなに重要なキャスティングボードが、どうして僕の手に渡ってきたの?」


「誰かがしなくてはならない事だったの。人魚の化けの皮をはぎ、人々に真実を示す役目を負う者は必要だった。人魚が私の死体を利用したことで、その役目が今回は良太君と私に回ってきたというだけに過ぎないの。だけれど、良太君は立派にやり遂げたわ」


「それは、どうかな……」


「あなたには多くの妨害があった。私の父のことや、争いの恐怖……そして最たる者は私の体を盗んだ人魚。彼女を目の当たりにすれば、良太君ですらたじろぐことは分っていた。現実の肉体と水中のおぼろな影像とでは、信頼の振幅に大きな差があるわ。生者には生者しか視えないもの。生きていると見せかけた私の体の前に良太君の想いが偏るかもしれなかった。でも、そうじゃなかった。良太君は、心からの確信を込めて、私の死を信じてくれた。目の前の生命は虚偽であり、水の中の私の魂こそ真であると判断してくれた。その信頼の光こそ、人魚のまやかしの術を打ち破り、あいつを追い出した正しい要因なのよ」


「でも、だとしても、やっぱり危険だ。それに、身に余る重荷だよ。人間の心なんてこの世で一番当てにできないものだよ。それに望みをかけるだなんて、どう考えても賢明とは思えない」


「そんなことないわ。現に良太君はやり遂げた。それを偶然だなんて思わないで。世の中には本当の意味の偶然なんてないのだもの。神様は、その人が乗り越えられない試練を与えない。人が課せられた試練は、彼自身の中にその試練を乗り越えられる力があるからこそ、天から与えられるのだもの。さっき、コインゲームをたとえに使ったけれど、神様の振るコインには裏はないわ。神様はどっちも表のコインをお持ちなの。人間はそのどっちも表のコイン。ただ、彼自身が、自分には裏があると思い込んでいるだけなの。私や、良太君や、すべての人にはいつも試練が課せられている。この一年は特に大きな試練が私達に臨んでいた。この町に住む人々、避難した人々、とても数えきれない多くの人たちが各々苦しんだ。そして、昨夜、良太君はそんなたくさんの人たちの苦悩を一身に背負って、試みの場に立ち、見事に悪を破り、人々の苦しみ抜いた時間を真っ白に変えたのよ。彼らの苦悩は報われた。そして、良太君もこの試練を通じて成長した。もう私がいなくても先に進めるくらいに」


 私がいなくても、という言葉を聞いて、海城の顔は悲しみに曇った。


「やっぱり、成仏しちゃうのか」


「ええ。私を縛り付けていた水は浄化されて、海に帰っていくわ。私の魂もようやく解放された。これから天に昇っていけるのよ」


「さびしくなっちゃうな」


「さびしくなんかないわ。良太君はもう私を必要としないくらい強い。この先何があっても切り抜けられる。きっと長い人生の間に、私のことは忘れてしまうでしょうね。それでも、私はずっと天の上から良太君を見守っているから」


「絶対、忘れないよ。死ぬ時まで覚えてる」


「さようなら、良太君。あなたと過ごしたこの一年は、体を失う前よりもずっと素晴らしかったわ」


 藤堂宇美は宙に浮かび上がった。どんどん空へと昇っていった。二人は目を合わせたままけっしてそらすことはなかった。やがて、彼女は大空の小さな点にまで小さくなった。


 ところが、その時、海城はまばゆい光輝を見た。天の門が開け、雲の楼閣が現われ、多くの清らかな人たちが踊りまわっていた。その間を宇美は誇らしげに歩み、立派な仕立ての絹の着物を着せられて、ほおが大きな歓喜のばら色に染まっていた。


 たった一瞬の幻視であった。それでも、海城の心には大きな安心が充溢した。


 海城は、林から出て、広場に戻ってきた。その頃にはもう、町に帰っていく者もちらほら出てきていた。上杉は、馬子と話し込んでいた。すぐに彼らは別れのあいさつをして、上杉を後に残し、馬子だけが歩き去っていった。


「馬子さんと何を話していたのですか?」


「あの男は家族を迎えに行くそうです。家族といっしょに住んで、湊町にはもう帰らないことに決めたとか」


「よかったですね。……上杉さんはどうするのです?」


「私ですか? 社に戻りたいのは山々ですが、とうに私の首など切られていそうですね。いくら事情を説明しても分ってくれそうにありません。まあ、でも、私は自分の技術を信じていますから、どこに行こうと独りでやっていける自信はあります」


「上杉さんもそろそろ、他人の力を求めてみてはどうでしょうか」


「そうですな。実際、今になって帰れる家を持つ者がうらやましくてたまりません。まさか、この私があの馬子に嫉妬しようとは思いませんでした。私も年をとったのでしょうかね。家庭という受け皿がなくては気持ちの奔流をすくえなくなったようです」


 上杉は照れたように打ち明けた。そして、周囲を見回し、のろのろと帰り支度をしている人々に目を向けた。その中に藤堂もいた。


 藤堂は、二人が自分を見ているのに気がつくと、体をふらつかせながら近づいてきた。


「私は、大きな過ちを犯したようだね」


 海城は、首を横にふった。


「藤堂さん、よしましょう。それに、あなたが作った自治会があったからこそ町の秩序は保たれていたのです。それは有益なことではなかったですか?」


「しかし、そうだとしても私はまやかし踊らされて、多くの人の命を危険にさらしてしまった。……海城君、私たちはこれからどうなるのだろう」


「前に進むんですよ。この一年間、湊町の時間は止まっていました。だけれど、今日からまた動き出すんです。ほら、聞こえませんか?」


 遠くの空からバリバリという騒々しい機械音が鳴り響いてきた。山を越えて多くのヘリコプターが湊町の上空に飛んできた。それは、本来なら一年前に来るはずだった災害時支援部隊のヘリコプターであった。


「見て下さい! カタツムリが……!」


 上杉の指の先では、カタツムリが海の下に消えていくところであった。巨大な図体を海は難なく飲み込み、また平静の白波を立てていた。


 風が新鮮な木の香りを運んできた。今日は風の強い日になりそうだった。




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