6、決着
大集団は移動し、町中から離れて山道を登っていた。月夜といえど、丈の高い木々の生い茂った山中にまで鋼鉄の光線をはさみこむことはできず、暗闇が木と木の間にがんこな幕をはっている。人々はおのおの懐中電灯を手にしている。暗闇のさなかの上り坂、多くの光点が行列をなして進む光景は遠くから見ればさぞ奇異であろう。
海城と上杉はその行列のはしっこに混じりこんでいた。馬子はどこやらにまぎれ込んでとうに姿が見えなくなっていたが、二人は互いに離れずくっついて移動していた。というよりも、ほぼ何も考えず無雑作に動いている海城と、彼から離れまいと苦心している上杉であった。
上杉は、前を行く海城の背中をつついて言った。
「もうすぐ夜明けですよ。ごらんなさい、空が白んできました」
ふりかえると、木々を遠く越えた海の彼方では、明朝の兆しが現われ始めていた。大空はいまだに月が支配する夜の領域であったが、朝が来る刻限はせまりつつあった。水平線のかんぬきを破り現われんとする王の姿を仰ぎ見るとき、湊町を沈めた怪獣もまた大波乱を引き起こすべく覚醒するのだ。
「何もかも解りがたいことばかりです。しかし、時は進み、情勢は私の認識いかんに関わらず進展している。本当に我慢がなりません!」
「いつだって、僕達が理解できるところなどほんのわずかな部分ばかりです」
「それでも、私は最後まで見届けますよ。こうなったからには記者として最大限の努力をするばかりです。ええ、私はたとえ日本の裏切り者として後ろ指をさされるのもあえて受け入れる覚悟です。この流れが行き着く場所にまで乗っていって、その全部を記録して後世に残してやりますよ」
上杉は意気高らかに宣言した。
彼らを含む集団はなおも進み、それにつれて空に向かってそびえるある巨大な物が見えてきた。カタツムリの殻にしては想像をはるかに超えていた。そのそばに立てば人間など小山と犬ほどの差があった。
やがて道は開け、カタツムリが停留している広場に出られた。広場といっても、もとからそうであったのではなく、カタツムリが来たために木々がなぎ倒されて作られた彼のための巣であった。上から見れば、カタツムリが海から来て、木を折り、強引に開いた道が山の肌を通っているのがわかる。
巨岩のごときケタ外れの大きさのカタツムリの前に、自治会の集団は勢ぞろいして居並んだ。彼らの騒々しさも、殻の中に全て吸い込まれてしまうようであった。気宇壮大なる存在者の前ではあらゆる小人の声音など無きに等しきものとなるのである。
「ははは。これが噂のカタツムリですか。こんな間近で見たのは初めてですね。いやはや何とも、人を馬鹿にした代物ですね。遊園地のオブジェですかね、これは」
軽口をたたく上杉。口ではこういっていても、額の汗と、歯の根が合わぬらしいアゴの震えが内心の状態をこの上なく語っていた。
すると、藤堂が出てきた。
「どうです、素晴らしいものでしょう。上杉さん、いくらリアリストを自称するあなたでも、これを前にしては開いた口がふさがらない様子ですね」
「ふん。……それにしても、やはり理解に苦しみますね。藤堂さん、あんたが讃えているとうの怪物は、あんたの町を滅ぼした元凶ではないですか。それを褒め上げるなんて、よくもそんな思慮の足りない真似ができましたね」
「いやいや。浅はかですね、上杉さん」
「僕も上杉さんに賛成ですよ。藤堂さん、あなたの娘をうばったのは間違いなくこのカタツムリです。あなたの言葉には、僕も少々、怒りを覚えますね」
「そうだ! やはりお前たちはおかしい! ここに集まった連中の中には洪水で家族友人を亡くした者だってたくさんいるはずだ。お前達はその災いを前にして、むしろそれを喜んでいるのか! そんなことはおかしいだろう!」
上杉は藤堂を含めた自治会全体に向かって言い放っていた。会衆はこの上杉の指摘に図星を指された。居心地悪そうに下を向いたり、おろおろと体をゆらしたり、隣の者とヒソヒソ話したりして、どうにか体裁を取りつくろっていた。
「あなた方二人のご意見はしごく御もっともです。我々は先の災害で親族知人を失った者ばかりです。ですが、だからこそ、我々は人魚様に希望を託すのです」
「さっぱり意味がわかりませんな。そもそも、あんたらがそこまで心酔する人魚とやらを私の目の前に引き立てて来てくださいよ。私だって自分の目で直に見たものだったら否定したりはしないでしょう」
「よろしい。姿を現そう」
突然、海城でも上杉でもなく、また藤堂でもない、まったく未知の女性の声が広場に響いた。騒然となりかけていた場は一瞬で鎮まった。戸惑いに満ちた上杉とは逆に、藤堂の瞳は勝利の念に輝いた。
「一体、だれだ。訳もわからずわめいて、私のことを非難するのは」
彼女は、大カタツムリの影から現われた。まだ年若い女性であった。彼女が出てくると、自治会の者たちはいっせいにひれ伏した。
「人魚様!」
「これが、人魚、だって? ただの人間の女じゃないか。ねえ、海城さん?」
上杉が彼に呼びかけてふりむくと、驚いた。そこには、彼がこれまで目にしたことがないほど取り乱している海城がいた。肩をわなわなと震わし、目を大きく見開き、まるで空気に飢えた魚のように唇をパクパクさせていた。
「そんな……そんな……!」
「海城さん? 一体どうしたのです? しっかりして下さい!」
「一年前に……君は、一年前に……」
「そうです。死んだはずでした。しかし、こうして生きています!」
藤堂は彼女のそばに駆け寄り、会衆と同じく膝を突いた。
「宇美! 君は宇美だ!」
「何ですって? それはあの、洪水で死んだあなたの恋人のことですか? え、ということは実は死んではいなかったというこですか?」
「そんなはずはありません。たしかに僕は彼女が命を落としたことを知っています」
「しかし、遺体は出なかったのでしょう。では、今、目の前にある現実が何よりも雄弁に彼女の生存を証明しているではないですか」
「上杉さん、間違っているのは君だ。海城君の言う通り、宇美は死んだのだ」
上杉は藤堂にふりむき、敵意をたたえた眼で射抜いた。
「私を混乱させるマネはよしてください。もっと理解しやすい説明を要求します」
「宇美は、一年前の洪水で死んだ。しかし、生き返ったのだ。まさに、奇跡!」
「嘘だ! ありえない!」と上杉は叫んだ。
海城は、顔を青くして、唇を固く結んでいた。
「証人はたくさんおる。宇美が死んだという証拠は私や、海城君が持っている。そして、彼女が生きているという証拠はここにいる全員が持っている」
「うるさい! 誰も彼も気が狂ってしまった!」
「聞け。これは人魚様の救いだ。私の娘、宇美は死んだ。そして、人魚様として蘇ったのだ。宇美が生き返ったということは、洪水で死んだ他のすべての者たちも生き返る。ただ、そのためには人魚様のご計画に従わなくてはならない。日本全国を海に沈め、全国民と、死した者全てと共に、新たなる第二の生を得るのだ!」
「やめろ! やめてくれえ!」
上杉は、両耳をがっちりと塞ぎ、くず折れるように膝をついてしまった。
「全員ここに集まったのか?」
宇美は、藤堂に問いかけた。
「はい。湊町に現在住んでいる者は、全員集まりました」
「そうか」
すると、彼女は片手をくいっと上げた。何かの合図のようだった。それに合わせて、森の奥から地響きがとどいてきた。
「何が始まるのです?」
「まずは手始めだ」
木々を破って出てきたのは、大きな蟹であった。それも、カタツムリほどではないにしても、ゆうに人間の背丈を越えた怪物蟹の群れが、人々を取り囲んでいたのだ。
「こ、これは、一体……?」
「ここのいる者共を一掃するのだ」
藤堂は驚いて、ひれ伏した姿勢からがばっと頭をおこし、宇美を見上げた。
「な、何をおっしゃいます! わ、我々はあなた様の選民ですよ!」
「何の話だ?」
「す、救いはどうなります? わ、私たちの家族との再会は?」
「私はそんなことは一言も言っていない。そもそも、お前達の言っていることは、なにもかも藤堂、お前のでっち上げではないか。よいか、よく聞け。私と最初に会って話した時、お前は気の高ぶりのあまり、私の話もろくに聞かず、自分の都合のよいように改ざんし話を作ったのだ。私は面白かったので、今日まで何も言わず、お前の好きにさせてきた。お前の話は、お前が町を統治する上では甚だ有効であったようだな。おかげでこの子(カタツムリを指す)が目を覚ます今日まで、楽に忍ぶことができた。藤堂、お前は実に愉快な、利用価値のある父親だったよ」
「う、宇美ではない……。お、お前は、私の知る宇美ではない……」
「当然だ。私はお前達の言うところによれば人魚様なのだろう? だから、そのようにふるまっているのだ」
宇美は、上げていた片手の手首を曲げた。それは、「やれ」と言っているようだった。
「か、会長! 助けてください!」
「人魚様! 人魚様!」
自治会の人たちは広場の中央に身を寄せあって固まり、泣き崩れる者も多かった。周囲からは世にもおそろしい怪獣たちが近づきつつあった。
上杉は地面にしりもちを突いて、唇をひきつらせて高らかに笑った。
「喜劇だ! 何もかも喜劇だ! ああ、それにしても、何と不可思議な喜劇なのだろう!」
海城は、そのように混乱する状況には目もくれず、宇美のそばへと近づいていった。
「何だ、お前? お前も私にひざまずきにきたのか?」
「………………」
「それにしても、長かった。そう、実に数千年! 私は海の下のヨミの底で我が怨念の成就する時を待っていたのだ。憎きあの男の、憎き末裔どもを私の手の平に引き落とすために。私とあの男とで築いたのに、私から何もかもを奪い去ったあの男の忌々しい国土を消滅させるために! わかるか? この千古の殺意の手始めが、お前達だ! さあ、ヨミの蟹どもよ、存分に腹を満たすがよい。呪われた国民どもよ、嘆き悲しむことはない。ヨミには先に行ったお前達の親族と後に行くお前達の同胞がひしめいている。暗き彼処にて再びあいまみえようぞ!」
ついに蟹たちの恐ろしい大バサミが人々の頭上に落ちようとしていた。悲鳴、泣哭、黙諦。この場を圧倒する死神のギロチンの滑り来る音が頂点に達した時だった。
「宇美は死んだんだ」
凛として、確信に満ちた海城良太の声が、戦乱の黒煙をきりさく一条の青い一矢のごとく放たれた。
「何を言っているのだ? 見ての通り、私は生きて……」
「宇美は死んだんだ」
「だから……」
「宇美は死んだんだ」
三度、放たれた言霊は、ついに宇美の耳の奥にまで突き刺さった。二人は黙って見つめあった。静かなにらみ合い、沈黙の押し相撲であった。両者とも強い光を宿した瞳をしていた。けっして背けることなく、まっこうからせめぎ合う視線の剣戟である。
やがて、動揺のために先に目が泳いだのは、宇美の側であった。
「な、に、を……ば、か、な」
とぎれとぎれの言葉を吐き出した彼女の口は、次の瞬間、大量の白い粒を吐き出した。吐き出された物らは地面の上でうごめいた。次から次へ途切れることなくボロボロ嘔吐しているのは蛆虫であった。
変化は速やかに起こった。彼女は地面に倒れ、その体は急速に黒ずみ、白い煙を噴出し、腐敗していった。鼻のまがれる強烈な異臭が上がってきた。
やがて、そこにはきれいな白骨死体だけがのこった。
彼女の消失に伴い、人々を襲おうとしていた蟹どもは動きを止め、獰猛な気配もなくなって、森の奥のどこへやらへと引き返していった。
人々は、突然に起こった出来事に理解することも、なすすべもなく、助かった喜びを覚えることも忘れていた。
ただ、海の彼方から差し込んでくる朝日の光だけが、自分たちが命をとどめていることを教えてくれるのだった。