5、藤堂松男
三人の男たちは、道中、絶えず議論を続けていた。時に一人が長々と話し、時に二人で口舌熱く意見を戦わすこともあった。衝突するのは主に上杉と馬子で、海城はほとんど聞き役か仲裁役を務めていた。
彼らは歩いている。それでも、上杉と馬子は、海城の後に従ってついてきていた。三人の中で海城だけが常に先頭を切って進んでいた。彼は、他二人の会話に耳を傾けながら、実は目は彼らではなく、月光を浴びて飴色に澄みきった地上の泉水にだけ注がれていて、その眼差しはとても真剣であった。
海城は、ふとある考えが頭をかすめて、後ろの馬子に声をかけた。
「馬子さん、お誘いした僕が言うのもなんですが、あなたも今夜、ご自分の用事があって外に出ていらしたのでしょう? ここまで付き合って下ったのは嬉しいですが、僕のせいであなたのご用時を潰してしまったのではないですか?」
「いえいえ、ご心配にはおよびません。さっきから確認していましたが、あなた方の行く先と私の目的地は本当に一致しているようです」
「ねえ、海城さん。私は最初から、あなたの向かう先がどこだろうとお供したいと考えてついて来ましたが、そろそろ、あなた自身どこを目指しているのかお教え願えませんか?」
上杉の問いに、海城は困ったような笑みを顔に浮かべた。
「どこを目指して……ですか? ………実を言うと、僕にも分らないのです」
「えっ? なんですって。それでは、当てもなくただ歩いているのですか? しかし、先ほどは何らかの目的地がある口ぶりではなかったですか?」
「いや、それが……たしかに目的地といえるような場所があるはずなのですが……それがどこで、何をしにそこへ行くのか、まったく見当がつかないのです」
そう明かされて上杉の顔に出た表情は、海城が彼に出会って初めて目にするものだった。失望と疑念。それも、上杉が疑ったのは、海城の人格ではなく彼の精神が正常か否かという点であった。
そこで上杉は、つい口を滑らせてしまった。
「あなたは……通院歴がありますか?」
それは上杉自身にも思いがけなく冗談のような響きがこもっていた。しかし、彼の言葉の後をひきつぐ者はいなかった。たった一粒の誤薬が、患者の容態を急変させてしまうことがある。彼の一言はあたかも劇薬が作用するように彼らの周りの雰囲気を暗くしてしまった。
気まずい空気が流れた。それでも、海城は足を止めず、したがって三人は前進を続けた。
少したち、沈黙を破ったのは馬子であった。
「上杉さん、何もそんなに責めることはありませんよ。海城さんは、お導きに従って進んでいるのですからね」
上杉は、横目で鋭くにらみつけて、ボソッと「またか」とつぶやいたきり、はっきり返事することを避けた。
「私は先ほどから海城さんの様子を観察しておりました。そして、彼の目がいついかなる時も水から離れることがないことに気づき、ハッとしました。その仕草は、まるで水の中にあの方を見出した時の自分とそっくりです。海城さんにも人魚様が見えているのだ、この人もまた我々の同類なのだと推測しました。いかがでしょう、海城さん? 実際、そう考えれば我々が道行きを同じくするのも道理です。なぜなら我々は同一のお方のお指図に従ってやって来たのですから。それにしても、海城さん、あなたは大したものだ。私の場合、水の中の人魚様を見ることはとてつもない集中力を要することなのに、あなたときたら我々と話もし、こうして見る限りでは疲労した素振りもない。私が先ほど塀にもたれていたのは、集中力がきれて水の中の人魚様を見失ってしまい、進むべき方向もわからなくなり、ひとまず休んでいたのです。集中力を失うことはたまにあります。だいたいの原因は不意に家族を思い出すからです。家族のことを思うと、途端に私の心を悲しみが占領し、ひどい動悸が起きるのです。正直に言いますと、その時に私の心に噛みつくのは後悔の念なのです。上杉さん、あなたは私のことをまるで冷血な悪漢のごとく見なしている感じでしたが、決してそうではないということを証してやりたいものですね」
「しっ! 待て。…………海城さん、人の気配がしませんか?」
たしかに、少し離れているが、多くの人々の話し声が聞こえてきていた。
進んでいくと、マンションが建ち並ぶ団地の真ん中に広場があり、そこにはたくさんの人間が集合していた。
上杉は飛び上がって、咳き込みながら口を開いた。
「あっ! こいつら、自治会の連中ですよ!」
「おーい! みんな!」
上杉が耳打ちする横で、馬子は元気よく駆け出していった。
「馬子、遅いじゃないか。何をやっていたんだ?」
「すまないねえ。お導きから外れて、迷ってしまったんだよ」
「あの人たちは?」
数人の者らが海城と上杉を認めた。
「来る途中でいっしょになった連れ合いだよ。おーい! あんた達も来なよ!」
上杉は、顔を隠すように体を丸めてしまった。
「馬鹿か、あいつ。私の話を聞いてなかったのか。どうして自治会の連中のところに行かなきゃならんのだ。海城さん、こんなやつらとは関わらず先を急ぎましょう」
しかし、海城は広場に入り込んでいた。上杉は、信じられないという顔をして、ためらう素振りを見せつつ、仕方なく海城の後を追った。
「何だ、上杉じゃないか」
「上杉さん、また取材かい?」
「冗談じゃない。もう私はあんたたちとは関わりたくないんだ!」
「もう一人はだれ?」
「私、知ってる。海城良太さんとかいったわ」
「おれも知ってるぜ。会長に命令されて、食べ物とか服とか届けてやったことがある」
そこに集まっていたのは老若男女さまざまな人々だった。彼らはガヤガヤと会話に打ち興じていて、和やかな雰囲気だった。腰の下あたりまで水に浸かっていなければ、楽しいパーティの風景であったろうに。
人々の中から、一人の中年の男性が現われた。体格がよく、なかなか背があり、立派な押し出しであったが、それに対してセーターに短パンというラフな格好がアンバランスであった。
「海城君が来てるって?」
「会長! 遅刻してしまい、まことに申し訳ありませんでした!」
馬子はこっけいな程かしこまり、直角にお辞儀していた。
「いいよ。来てくれてよかった」
会長と呼ばれた男性は物腰柔らかに馬子をあしらい、改めて海城に視線をむけた。
「藤堂松男。自治会の会長を務める男です」
上杉は小さな声でそっと教えてやった。しかし、海城は返事をせず、聞いてもいない様子で、目の前の藤堂氏と視線を交わしていた。
「君が家から全然出てこないと聞いて、いつも気にかけていたんだよ。でも、ついにこうして、外に出る決心をしたんだね。私はうれしいよ。しかも、我々のもとへ来たということは、仲間になってくれるという意味だよね?」
「待って下さい! 海城さんはそんなことは……」
「はい。僕は、あなた方の仲間になります」
海城は、はっきりとそう宣言した。上杉はショックのあまり言葉を失い、海城のことを強い視線でジロジロ見ていたが、やがて諦めてそっぽを向いた。彼の口はポツリと「ついて来るのではなかった」と動いた。
藤堂は、労わるように海城青年の細い肩に手を置いた。
「海城君、私は君に謝りたいと思っていたのだ。娘の宇美の生前、君らの交際を許してやれなかったことを。宇美は、将来、君と結婚したいとまで言うくらい君を好いていたのだ。どうして許してやれなかったのかな。きっと、一人娘を他人の男にとられるのが気に食わなかったのかもしれない。我ながら恥ずかしいくらいの狭量だったよ。おかげで娘が死んでから後悔で苦しんだ。生きていた頃に、君らの交際をちゃんと認めてあげていたら、せめてもっと楽しい思いができていただろうにとね」
藤堂の率直な「すまなかった」の言葉に、海城はただうなずくことで返答した。それ以外の感情を表に出すことはしなかった。
「海城さんの恋人の藤堂宇美さんとは、藤堂会長の娘だったのですね。それは、心中お察し申し上げます」
「いいえ。もう一年前のことです」
上杉は、この時だけは同情の目を藤堂に向けた。
藤堂は、海城と上杉に背を向け、集まった人々の方に向き直った。
「人魚様のお告げである!」
突如として、轟音ともいえる大音声。立ち並ぶ建物の間にこだまする。人々は無駄話を即刻中止して、背筋を伸ばした。
「今夜、カタツムリは再び動き出す。さらに内陸へと進行し、それに伴い、湊町は完全に海中へと没するであろう。人魚様は約束の通り、我々を選民として導き出し、水没と流浪から守ってくださる。やがて来るであろう支配の時、カタツムリが海を引き連れて本土を渡り終わる時、日本全国は水没し、我らは人魚様の統制のもと、新たなる姿の日本の新たなる国民として偉大なる栄誉を頂けるのだ。今夜がその第一日目、栄えある進行の始めである!」
人々は、「オオーッ!」と歓声をあげた。
上杉は、慄きとも歓びともとれる説明のきかない興奮で体を震わせていた。
「ね? ね? 私の言ったとおりだったでしょう。やはり、こいつらは良からぬことを企んでいたんだ。それに、これで合点がいった。政府はこれを恐れていたんだ。それでやつらに協力して、この町に封じ込めようとしていたんだ。だが、それもお終いだ。今夜、事態は変わってしまうんだ」