4、人魚様
道の先の十字路に、人影が立っていた。
「誰でしょうね。私らの他にも、この夜中に外を出歩く者がいたとは」
「声をかけてみましょう。……こんばんは」
「どうも、こんばんは」
その男は、ずいぶん元気のない様子で、道の脇の塀に肩をあずけていた。全体的に気弱な印象を受ける。男性にしては長めの髪は、水とほこりに塗れ、肌にはりつき、小汚くみえた。彼のまなじりは下がり、気の毒なほどしょぼくれた表情をしている。
「あっ、こいつは馬子敏雄! 海城さん、いけません。こいつは無視して行きましょう。自治会の一員です。しかも、関わってろくなことにならないこと請け合いの問題人物ですよ!」
「やあ、これは、上杉さんではないですか。お久しぶりですね」
「馬子さんは、こんな夜分遅くにどちらへ向かわれるのですか?」
「さあねえ。どこに行くことになるのやら…。お導きのままでございますからねえ」
「ほら、こうですよ! すぐにこんなオカシなことを言い出す! これだから自治会のやつらは嫌いなんです。もうよろしいでしょう! さっさと先を急ぎましょう!」
「上杉さん、待ってください。この人もいっしょに連れて行きましょう」
「なぜですか? こんなやつ、数分もいっしょにいれば嫌気がさしますよ!」
「我々の目的地はきっと同じです。どうでしょう、馬子さん?」
「さあねえ。お導き、お導き……。きっとこうして出会ったのもお導きでしょうね。お申し出に感謝します。どうぞご一緒させてください」
上杉は露骨にしかめ面をしたが、それ以上の抵抗はしなかった。海城から離れたら、何か大きなチャンスを逃すことになるのではという漠然とした不安があったからだ。
三人の男たちは、肩を並べて水の道を歩いていく。
すると、馬子が語りだした。
「この景色はどうです? 我々、人間のすむ町が、海に飲み込まれている。とても現実のこととは思えませんよ。こうして一年も暮らしていますが、いまだに慣れるものではありませんね。しかし、人間の築いた牙城など、もろいものですね。このように、海が多少、我々の足元に舌をのばした程度で我々の生活は破綻をきたすのですから。あの日、海が静かに牙をむいた日のことを思い出すと胸が痛くなります。当たり前に続いていた自分の生活がたった一時間程度で崩壊してしまったのですから。不幸中の幸いは、私の家が高台にあって、家族も無事であったことでしょうね。家内と、ふたりの娘ですが、ずいぶん震え上がっていましたね。私は、すぐにも遠い県に住んでいる親戚に頼み込んで、避難の準備をしました。生まれ育った地を離れるというのは辛かったですが、その時は仕方がないと割り切っていました。親戚の人たちは優しくて、我々一家を手厚く歓迎してくれた。そうして避難先で一週間たち、そろそろ自分たちの新しく住むアパートでも探そうかと話していた頃、人魚様が現われたのです」
「ほら、出た! また人魚様だ! いい加減にしないと、私まで狂ってしまう!」
「上杉さん、人魚様とは何のことなんです?」
「こいつら自治会が崇拝している謎の存在ですよ。もっとも私は目にしたこともありませんから、まったく実在を信じていないのですがね。あの大カタツムリはともかく、この件に関しては、連中のでっち上げか迷信だと確信していますよ」
「人魚様は、我々にとっての救い主。水没した町で生きていくための欠くべからざる柱。我々に尽きぬ恵みを与えてくれるのです。最初、私の前に現われた時には水中のおぼろな影でした。親戚の家の近所に、その辺の名物ともいえる立派な滝があったのですが、私は早いうちからその場所が気に入ってしまいました。親戚の家は内陸の都会であったので、海辺で育った自分としては水気の多い場所にいると落ち着くのです。暇な時間にはよく一人で歩いていって滝を眺めていたものですよ。ある時のことです。流れ落ちる白い瀑布をじっと見つめていると、そこに人の影が浮かんでいるではないですか。スクリーンに映画をうつしているのと同じです。流れ止まぬ水の動揺のせいでひどく不鮮明ではありましたが、たしかに人の姿でした。はじめは単なる目の錯覚かと思いました。だんだんと、錯覚にしてはいつまで待っても消えないのはおかしいと気づき、さては現実のことではと疑いはじめました。その像を視覚しながら、その場でいろいろ考えてみましたが、たとえ滝の向こう側に人がいたとしてもあんな風な見え方はしないだろう、すると、一体どういうわけだ? と、ここで考えも行き詰まり、気分も悪くなってきたので、その日は帰ることにしました。家に戻ると、さらに大きな驚きが待っていたのです。変な体験をして高ぶった気分を沈めようと、水をいっぱい飲むことにしました。蛇口をひねり、出てきた水をコップにくみ、口に運ぼうとした時です。コップの水の中に、あの人影が見えました。あまりにも驚き、取り乱したため、不注意にもコップを床に落として割ってしまいました。だが、さらに奇妙なことは、床にこぼれた薄い水の幕に、なおも人影は残っていたのです。今度は、私はその人をじっくり観察できました。若い女性でした。とりたてて美しくはないのですが、穏和な性格がじんわりとあふれている優しげな聖母を思わせる面立ちでありました。やがて、家の人たちがやってきて、私の身の心配をしたり、コップを割ったことを非難したり、掃除道具をもってきてその場を片付けたりと一時はおおわらわとなったのですが、私がずっと、うつけてばかりいたので家内や娘らは本気で私の心配をして、その晩は彼女らのすすめに応じて早々に寝てしまったのです。しかし、それからは、私は自覚をもてるほど変わりました。水たまりとなると、小さくあれ大きくあれ、一心に見入ってしまう習慣がついたのです。どうしてかと聞かれれば、そこに彼女がいたからです。水の中の女性は、何者なのか、何を伝えたいのか、知りたいと思うのですが、どうにもわかりません。それに彼女にしても、水の中に漠然と浮かび上がるだけで何か動作らしいものもせず、その点は写真と変りありませんでした。私がうつけている間に、家内と娘らは着々と引っ越しの準備を進めていました。翌日には新しく見つけたアパートに居を移すという段階になるまで知らなかったくらいです。ただ、あれもお導きでしょうね。引っ越しの前日、湊町から一本の電話がありました。連絡をくれたのは会長でした。それで私は、湊町のこと、洪水のこと、自治会のこと、そして人魚様のことについて教えられました。そして、決心したのです。湊町に帰ろう。たとえ家族と別れ別れになろうとも、単身故郷への帰路につこうと決めたのです」
誇らかに言い切る馬子。それが上杉には気に入らないようで、さっそく食ってかかった。
「家族を捨てた男が、よくもそんな堂々とした態度をとれるな。恥はないのか。自分の大事な家族から離れてまで通す我意も願望もこの世にはない」
「そういう非難はごもっとも。反論はいたしません。しかし、やはり人間には、人情を超えて行動しなくてはならない場合もあると思います」
「ほお。どれほどご立派な目標をお持ちかお教え願いたいものだ。どうせ他人には理解できない自己本位の願望だろう。そういうのを自分勝手というのだ。人のすることで自分勝手ほど醜悪な行為はない。そうやって家族を犠牲にする者がどれだけいることか!」
「私は、誓って、家族をないがしろにする心積もりで行動したわけではありません。たしかに私が湊町に来ることで家内と娘らを……捨てた形となりましたが、それだって一時的のことです。人魚様は約束してくださいました。時が来れば、私の家族は再び我々といっしょに生活することができると」
「どこで? ここで? ははん! あんた、酒でも飲んでるのか? どうしてこんな水浸しの町で暮らしたいと思うもんか」
「奥さんと娘さんたちは、今はどうしているのです?」と海城。
「やはり、あれらがかねてより計画していたアパートに住んでいるはずです。ただもう、一年前のことですし、こっちに来てからは連絡もしていないから、今はどうしているのやら、とんと見当もつきませんね」
「別れは辛かったでしょうね。馬子さんにとっても、奥さんや娘さんにとっても」
「それはもう。私の心を打ち明けるとあっちではこの世の終わりとばかりに嘆きに嘆いていました。どうにかして私を自分たちのもとへ返そうとそれはいたいけな懇願をされましたが、私は心にフタをして、あれらを分らせました。ただ、やはり、思い出すとどうしてもかわいそうでなりません」
「悪いことはいわん。今すぐにも家族のもとへ帰ってやれ。それがあんたのためでもあり、家族のためでもあるんだ」
「それはいけません。ここを離れないと、人魚様と約束しているのです」
「海城さん、見なさい! これが自治会だ。その中でもこの馬子という男は特に重症です。狂信者です。私は、命を生かす宗教を尊敬しておりますが、こういう人の命を踏みにじるカルトは虫唾が走るくらい大嫌いですね」
「上杉さん、命を踏みにじるとは何という言い草をするのです。反対に、我々は日々、人魚様のお恵みによって食べ物も住む所も与えられているというのに! ええ、そうです。人魚様はこの人間の手から離れてしまった町で暮らしていく手立てを与えてくれます。人魚様の指図に従えば、魚は豊富にとれ、毎日飢えることはありません。どこにいけば安全に住める空き家があるか教えてくれます。また、我々が物をとりあったり、いざこざを起こさないように規則を設けてくれました。食べ物は分け合うこと、町に住んでいる住民はだれかれの区別なく彼の生活を助けること……などなどの人魚様の命令のおかげで、我々はとても安心して生活していられるのです」
「それなら、私を町の外に出さないのも、規則の一つなのか?」
上杉は、憎々しげに言い捨てた。