3、上杉二郎
「不思議なのはそれだけではありませんよ。現在、ここには不思議が満ち溢れています。実は私のなかでの最大の疑問はカタツムリの怪獣なんかではないんですよ。それよりも、私にはあの自治会の人間らのほうが何倍も不気味ですね。海城さんは、連中のことをどう思います?」
「親切な方々だと思ってました。僕は、ここ数ヶ月の間、稼ぎがまったくなく、それなのでほっておかれたら餓死するだけのはずでしたが、彼らがいろいろ親身になって面倒をみてくれたおかげで、こうして生きてきました」
「ええ、実際、連中は親切です。私も接触するぶんには何も支障はありませんでした。いや、おかしなくらい支障がなかったのです。他の記者たちも同じでした。みんな厚遇を受けて、どんな質問でも拒まずに答えてくれました。情報は迅速に、かつ大量に得ることができましたよ。ところが、そういう素直な面とは別に、連中にはかなり狂気じみた一面があるのです。それが発揮されるのは、この湊町の外へ出ようと企てる人間に対してです。やつらは町の隅々にまで網目をはりめぐらし、猫の子一匹、逃がそうとはしません。その狡猾さ、抜け目のなさは取材の時にみるあの人の良さからはとても思いつきませんでしたよ」
「僕は、自治会の世話にはなってきましたが、それ以外には彼らの事を何も知らないのです。上杉さんのほうが、僕よりお詳しいようだ」
「そりゃもう。この町で起きている異常事を探るためには、現在、この湊町を支配している団体から話を聞くのが理に適っていますからね。接触した回数は数えきれません」
「よかったら、自治会について知っていることを教えてくれませんか?」
「いいでしょう。……彼らは避難からあぶれた湊町の住人です。大多数の世帯は他県に避難していきましたが、少数ながら町に残った者、あるいは避難した矢先に町へとんぼ返りした者などが集まった団体が湊町自治会なのです。ここで最大の謎にぶち当たります。どうして彼らは、この水没してライフラインも不安定になった町に残ったか、どうして避難先からわざわざ帰ってきたのか。郷土愛? 里心? もちろんそれもあるでしょうが、私にはそれが全てではないようです。彼らは、何かをたくらんでいます。そうでなければ、どうして、私らを自由にさせてくれないのです。どうしてあんなに自己放棄して、一致団結した共同生活を営めるのです。どうして、自分のことだけで手一杯であろうに、他人のことにまで親身に援助を出せるのです。さらに私は、とてつもなく恐ろしい推理にいたりました。ほら、さっきの話のなかに、自衛隊との一悶着があったでしょう。あの出来事を思い返してみるたびに、自衛隊と自治会は協力関係にあるのだとの見解が濃厚になるばかりです。と、いうことはです。つまり、自治会は、日本政府とつながっているのです! 政府は自治会と協同して、湊町を完全に隔離してしまったのです! そう考えれば、一年も経って外界との連絡が遮断状態になっている現在の状況も理解できます。救援隊が到着した気配もなければ、復興の兆しもなく、まるで一年前から時間が停止したようなものです。これは陰謀です。それも、この町の中だけでうごめいているものではなく、政府も関与した巨大な陰謀なんですよ!」
海城は、話を聞いているうちに、上杉の口ぶりがだんだんと奇妙になってきたと感じた。彼は自分の話に熱が入りすぎて、長い間、頭の中で熟してきた妄想にも近い考察を、機を得たとばかりに吐き出そうとしているようだった。それは、町や、自治会や、数々の不合理や、うんざりする水浸しの生活からたまりこんだストレスの産物であった。
海城は、話を変えてあげたくなった。
「上杉さんは、脱出に固執していますね。やはり、外に家族を残してきたんですか?」
「それは当然、固執しますよ。ただ……家族が理由ではありません。私には、家族はいないのです。私、三十も半ばですが、結婚したことがないのです。しようと思ったこともありません。もともと、そんな願望がなかったのです。理由は、母です。うちは物心ついた頃から母子家庭でした。早くから離婚してしまって、私は父の顔すら知りません。母はずっと誰の手も借りず一人で私を育ててくれました。「他人に助けを求めるな」と母がよく教えてくれました。私はこれまでその通りに生きてきました。どんな苦境でも自分の力だけを頼りに切り抜けてきました。それが私の誇りでした。やがて大手の新聞社に記者として就職したのも、やはり努力の結果だと思っています。私は、母とふたり、いつまでも力を合わせて生きていけると思っていました。無理なことくらいはわかっていましたが、それでも、心の底ではそう信じていたんです。でも、母は歳をとり、難しい病気にかかってしまいました。死ぬことはありませんでしたが、不治の病で、それも全身が麻痺して、あっという間に寝たきりになりました。私は、母を家にひきとり、世話をすることにしました。病院のベッドに縛り付けておくのが忍びなかったのです。これには費用もかさみました。私は前よりもいっそう仕事にせいを出し、お金を稼いで、ほとんどを母のために使いました。その生活は辛かったです。なにせ、記者の仕事は多忙ですが、家に帰ればちがう仕事が待っているのです。ヘルパーも雇って、なんとかキリモリしていました。あの日々は、体も心も休まる時がありませんでした。ただ、毎日が夢中であったのを憶えています。そんな状況ですから、結婚相手なんて探す余裕はなかったですし、たとえ妻をめとっても、その人にこんな負担を負わせたくはありませんでした。何より私の頭には、他人の助けは受けない、という家訓がありました。母もそれを望んでいたと思います。……母が死んだ日のことは、実はあまり覚えていないのです。その日、大きな仕事をもらって、前の日から家にもろくに帰れない状況でした。しかも、よりにもよって、朝、社を出るときに携帯電話をデスクに置き忘れてしまって、昼頃まで気づかない始末でした。気がついても、仕事に忙殺され、それに家にはヘルパーさんもいるからと余裕まで出して、社に戻ってきたのはもう夕方でしたよ。携帯電話を開いてみて驚愕しました。母の急変を伝えるメールが数十件も立て続けに送信されていたんですから、その場で卒倒しそうでした。急いで病院にかけつけてみれば、母はすでに息をひきとっていたのです。………………意気消沈した私の、社内での成績は急激に下がりました。ただ、そこは私ですから、立ち直りも早かったですよ。失った成績を奪回しようと特ダネを探索している所に、湊町の洪水事件がまいこんできました。これはチャンスだ、と思いましたね。即刻、派遣記者に志願しましたよ。到着した時の印象は何とも言えませんでしたね。特に洪水で親兄弟を失った避難者に取材するのは心が痛みました。つい先日親を失った身としては、同情のために泣きたくなりましたよ。そうやってこの町で取材をしながら日を送るうちに、最初は同情とジャーナリズムに燃えていた私の心は、しだいにたくさんの懐疑にとりつかれ、さながら双方向の海流がぶつかり合うところに生じる渦巻きのごとく乱れてしまいました。海から来た怪獣、時間が立ってもなぜか引けない水、住民の口にのぼる謎の人魚、避難をかたくなにこばむ自治会、我々の奪われた自由……。私は、これら乱脈な不条理たちに、どうにか合理的な解釈の光を当てたいとやっきになり、まっこうから突撃していきました。まさに猪突猛進。いや、盲進、だったのです。一年経った今も、私が求めた真実らしきものは得られていないのですから。……ご覧の通り、私はすっかり落ちぶれてしまいました。この町での単独生活は、並大抵の仕事ではありません。私は自治会を憎んでいますから、彼らの援助を乞いたくはないのです。結局は、空き家を無断で使わせてもらうしかなかったのです。それにしても、この湿気です。たいていの食べ物は早晩に腐ってしまって、わずかな保存食を探し出すしかありません。自治会が、どうやって飲食物を確保しているのかとても怪しいところですね。それでもまあ、こうしてなんとか生きてこれましたよ。……私がさっき出てきた商店は最近みつけた穴場でしてね。駄菓子とか雑貨とかを中途半端にとりあわせた昔ながらの何でも屋なんですが、缶詰などの保存食がけっこう置いてあって、なかなか良いんですよ。あそこの二階家は広い座敷にもなっていて、窓を開ければ辺り一帯を一望できるんです。今晩のような月夜はとりわけ素晴らしいですよ。まるで海の上にでもいる感覚なんです。町中を満たした水がきらきらと青く輝いて、ゆれる波の影が空の雲にまで映り込むんです。私のお気に入りは、こんな明るい晩に、二階の窓から足をおろして、自家製の釣竿で釣りをすることです。道路を自動車のかわりに泳いでいく魚も、その魚を釣り上げることも、慣れれば趣きの深いものですよ。今晩もそのつもりで窓をあけて、そこから迫る光景を眺めていると、珍しく夜に人の気配がしたもんで驚きました。それで、下の道を行く海城さんを発見したというわけです」
上杉は、ようやく話を終えた。少し疲れた様子だった。こんな話をする機会はこれまであまりなかったらしい。相手を得たことで心のせきが破れ、心ならずもついダーダーと漏れてしまったのだ。
ふたりは、しばらく黙って歩いていた。やがて、海城の方から声をかけた。
「ねえ、上杉さん。どうして僕を追いかけたんです?」
「うーん…。どうして、でしょうね? 正直、私にもわかりません。あなたを見かけた時、ついていきたいと思ったのは事実ですが、その理由というのが特にこれといってないのです。あなたに聞いた話にも目新しいものはありませんでしたし、記者の勘も鈍ったもんです。……しいてあげれば、雫の音、ですかね」
「雫の音?」
「そうです。チャップーン、と一つ。耳の中に響いたのです。音の出所はわかりません。だいたい、雫の音なんてこの町ではありふれたものですが、それはとても奥深くて、よく響きました。しかし、錯覚かと思うくらい幽かで、少しの物音でかき消されてしまう程小さかった。それが聞こえて……あなたを追いかけたくなって……すみません、どうも分けのわからないことを言っていますね。忘れてください」
「いえいえ。そんなことないです。僕は何だか、よくわかりました」
こう返事されて、むしろ上杉のほうが困惑してしまっていた。