2、カタツムリ
男はかなりくたびれた装いだった。ひいき目に見ても一万円そこそこの灰色のスーツを着込み、内側のシャツは汗と汚れのためにすっかり黒ずんでいた。彼の履いている靴はテニスシューズであり、スーツと相反してちぐはぐな感じだった。髪の毛など湿気とホコリでひどい有り様にすすけていた。
男は、海城が何も言わず自分の全身をじろじろと観察するので、ついにいくらか照れて言い訳を言った。
「見た目に関しては仕方がないではないですか。こんな状況では新しい服を調達するのも一苦労なんですよ。風呂にだって何日も入っていません。まあ、見ての通り水には事欠かないんで、水浴びだけは毎日しているのです。おかげでニオイについては他に比べてずっと文明人らしいでしょ?」
「他に比べて、というのはどういう意味ですか?」
「この町の住民に比べて、という意味ですよ。失礼、あなたも湊町の住民ですか? それにしても、あなたにしたって私のことをとやかく言える外見ではないですね。ま、それも自然の成り行きというものでしょうよ。こんな非日常的な環境で生きていくためには文明的な装飾なんて邪魔なだけですからな。こうなるとホームレスなんかの方がたくましいくらいですね」
「歩きながら話しましょう。道連れができてうれしいです」
「私もですよ。お名前をうかがっても? 私は上杉二郎といいます」
「海城良太です。あなたの言うとおり生まれも育ちも湊町です」
「ほお。それにしても、あのいわゆる自治会ではお会いしていませんね。私は何度かあれに顔を出しているのですが」
「僕はもうずっと前からほとんどの交友を断ち、家にこもっていました。こうして外を歩くのも実は久しぶりなんです」
「ええ。実際、夜に出歩く人などこの町に来て初めて見たので少々驚きました。私は、ほら、通り過ぎましたけれど、あの商店の二階部屋をお借りしているのです」
後ろを向いて、上杉が指さす方を見ると、たしかに長方形のコンクリート造りの建物があった。一階は店舗になっている商店街でよく見るかけるものだ。
「あなたのお家ですか?」
「いえいえ。空き家だったので、勝手に使わせてもらっています。本当の持ち主一家はとうにどこぞへ避難してしまったのでしょう。普通はそうするものですよ。ところが、なぜか、あなたや、自治会の連中のようにこの水没した町にいつまでも居座って生活している者がいる。これは謎ですねぇ」
「あなたは外から来られたのでしょう。一体、何の目的があって湊町まで?」
「もちろん取材ですよ。こんな災害事件はめったになかったですから、特ダネを拾いにやって来たんです。もうかれこれ一年近く前ですかな」
「一年前? そんな長い間取材しているのですか?」
「いいえ。バカ言わんでください。取材するネタなんてすっかりあさり尽くしてしまいましたよ。今はとっとと社に帰って一刻も早く記事にしてしまいたいです。いいえ、その前に、早くこの町から抜け出してしまいたいですよ」
「どういうことです? そんなことはあなたの一存ではありませんか」
「どうやら、海城さんは本当にこの町の状況について知らないですね。自治会とも直接的な関係はなさそうですし、安心しました。ここで少し、私の思いの丈を話させてください。なにせ話し相手になりうるまともな人間なんて全然見つけられませんのでね。……湊町は封鎖されているのです。それも、内と外から」
「封鎖ですって?」
「私は過去、幾度となく脱出を試みたのですが、必ず自治会の連中に妨害されてしまうのです。やつらは町から抜けられる道筋を見張りして出て行こうとする者がいればそれを阻止しようとするのです。実際、私はそういう現場を目撃しています。別の記者の男も私と同じくそうされて町の中に閉じ込められています。もっとも、彼は今ではすっかりなじんで自治会の一員として活動していますがね。……それから、外というのはですね、こういうことなんですよ。ある別の機会では、私は自治会の目をまんまと盗んで町の出口まで行ったんです。ご存知でしょうが、湊町は三方を山地に囲まれて、三本の道が山の中を通っていますね。で、私が通過できたのは県道14号線なのですが、半ばまで行くと道の途中に金網のフェンスがされていて、その先まで進めないようにされていたのです。しかも、その近くには自衛隊の隊員らしき者たちが少数ひかえておりました。私はフェンス越しの彼らに向かって「ここから逃がしてくれ」と助けを求めました。彼らに私の素性と町に入った理由を語り、異様な町の事実を手短に聞かせて、はやく出してくれと頼みました。もちろんすぐに出してくれると思っていましたが、驚いたことに、彼らは一様に難しい顔をしていっこうにフェンスを開けてくれる気配がありません。そして、彼らの中で責任者と思われる人が出てきて、こう言うのです。「現在、湊町は完全封鎖されている。どんな理由があれ、町から外に出すわけにはいかないのだ」 そして、他の隊員はどこかに電話しているのです。こんな法外なことってありますか? 本来、人命が最優先にされるべきでしょう。それを、こちらの人権も要求も無視してご理解願いますもないでしょう。ええ、絶対にご理解なんてしてやるもんですか。外に出たらこのことを記事に書いてこんな非道の対応を暴露してやりますよ。それはともかく、私は何度もしつこく拝み倒しましたのですが、やつらは「隔離されたのです」「ご理解ください」の一点張りでしてね。そのうち、自治会のやつらが来て私は連れて行かれてしまいました。きっとさっきの隊員の電話が連中への連絡だったのでしょう。こんなわけで、私はもう一年もこの町に閉じ込められているのです」
「しかし、どうして封鎖だなんて必要になるのでしょう? 普通なら被災地の住民はまっさきに避難させるべきなのに、それを追い返すだなんて、どうかしていますね」
「ああ、あなたは私と同じ正常な感覚の持ち主だ。私はようやく会いたかった人に会うことが出来ました。私が思うに封鎖の理由はですね、この町をおそった洪水があまりに異常だからです。それはあなたもよくご存知のはずですよ。見てください。洪水が発生してもう一年になるのに、どうしてこの町はいまだに浸水しているのでしょう。これはありえない話ですよ」
「洪水の原因なら僕も知っていますよ。それは……」
「待って下さい! まさかあなたまでカタツムリの話をしだすのではありませんよね? いけません、いけません! あの与太話はもう千万遍聞かされました。まったく現代科学にそむく狂気の沙汰ですよ!」
「でもですね、僕は見たんです」
「では、なんですか!」
かなり興奮した上杉は海城の腕を強引に引っぱって、ちょうど行き過ぎようとしていた公園にずんずん入っていった。広い所で、見晴らしがよくなると、海側にあたる方角の山中の一角を指差した。
「本当にあれがこの洪水を引き起こしたと言うんですか!」
山の中腹に巨大な観覧車がそびえ立っていた。いや、観覧車に似ているが、それはちがうものだった。銀色の月光に垂らされて飴色の光沢の宿らせた、その渦巻き模様の物体は、説明されてもとても信じらない大きさのカタツムリの殻だったのである。
上杉は体をブルブル震わせながら首をふり、しきりに「信じませんよ、信じませんとも……」とくりかしていた。
「この町の連中は頭がどうかしているのだ。誰に聞いてもやれ大カタツムリだの、人魚だの……」
「人魚?」
「いいえ! こうなったらもうヤケクソですよ。海城さん! どうぞ、あなたの体験を聞かせてください。私は記者ですから、取材をしますよ。与太だろうがホラだろうがかまうものですか。さあ、どうぞ、お早く!」
「さあ……? 僕の話であなたの役に立つかどうかはわかりませんが……。あの日のことはよく憶えています。午後一時半でした。僕は大学の講義が終わって帰るところだったんです。校内から出るときれいな青空でした。その時に見えた雲は五つほどですか。大きいのが一つあり、他は小さく、どれもデコボコでウエディングドレスよりもずっと純白で甘そうでした。すみません、印象深い日というのは下らないことまでよく細かく憶えているものですよね、もう少し辛抱してください。僕は朝から憂うつだったんです。前の日に彼女とケンカしてしまいまして。その子の名前は藤堂宇美といって、かわいい子なんですよ。同い年で、大学で知り合ったのです。ケンカの理由は、恥ずかしい話ですが金銭関係です。宇美はやさしい子でして、友達にねだられてよく金を貸していました。貸した金はたいがい返ってこないそうです。それは、彼女が借金を踏み倒されてもケロリとしていることもあり、また次に会ってもう一度金を無心しても気持ちよく貸してあげることなどが理由でした。それがあまりにも頻回だったので僕はいつも心配していました。でも、彼女はしっかりした性格で、芯も強いことはわかっていましたし、彼女が自由意志でやっていることを他人の僕が横から口出しするのはどうかと思い、黙っていました。ただ、あの時はさすがに度が過ぎたのです。なんと宇美は高校生の頃からアルバイトをしてコツコツ稼いで貯めた貯金100万円を、借金を頼まれた友達にそっくり上げてしまったというのです。さすがに僕も咎めたてずにはいられませんでした。主にその金を借りた友達のことですが、宇美自身にもけっこうキツイことを言ったかもしれません。気づいたらお互いに大声で言い合いをしていたのです。興奮していたこともあり、心ならずも醜い言葉を使って、付き合い始めて以来なかったケンカでした。宇美は顔を真っ赤にして、涙目になりながら僕の部屋から出て行ってしまいました。頭を冷やしてみれば、宇美を責めるなんてお門違いであったと気づけました。ただ、小さな波同士がぶつかりあって思いがけず大きな波になってしまっただで、決して海全体の揺れではなかったのに、ケンカに夢中になった僕はそこまで考えつかなったのです。その晩は後悔が重なって眠れませんでした。次の日も、ずっと宇美に連絡したいとばかり思っていたのですが、なかなか勇気が出なかったのです。それで、さっきの、大学がひけたというその時でした。宇美の方から電話があったのです。
『昨日はごめんなさい。あなたは私を心配してくれていたのに』
『僕の方こそ強く言いすぎたよ。ごめん』
『これから会えない? 時間ある?』
『もちろんだよ。どこで待ち合わせる?』
『私、今海岸に来ているの。良太君も来てよ。今日は海がすごくきれいだから」
そうです。おわかりかもしれませんが、僕はこの時に待ち合わせ場所を変更しなかったことを後で死ぬほど後悔することになるのです。ともかく、僕が見たことを順を追って話しましょう。この電話が終わると僕は急いで海岸へ向かうべく街中へと出て行きました。大学から海へと行く距離は歩いて三十分かかるのですが、僕は気持ちでは宇美に会いたくて急いでいましたけれど、先ほどの電話の内容で、恐れていたより彼女が怒ってはいない感じだったので、余裕もできたことで走ることはせず、今こうしてあなたとしているように歩いていました。このことは実は後悔はしていないのです。だって、歩こうが走ろうが、どのみち結果は同じだったでしょうから。なにせ、あの出来事がおこったのは僕が彼女と電話して歩き出してからたった五分くらいの時間だったのですからね。あれは、僕が港の地区に通じる大坂をおりるところでした。大学は高台に建っていたので、海に行くためにはかなり傾斜のキツイ急坂を下りなくてはならないのです。その坂の上に立ったときにはもう町に面した大海原が一望できました。さながらその光景は、町の南北をかこむ山を外枠として、油絵の具をいくえも塗り重ねた海と、金属めいた照り張りの青天板が合致する水平線と、その下にひしめき合う人間の住む家々を描いた大きな絵画でありました。その時です、僕は確かにこの目で見たのです。突如として、凪の海面を突き破り、灯台が立つあたりの漁港に上陸してきた、とてつもなく巨大なカタツムリの姿を、です。……そうため息をつかないでくださいよ。僕はまじめに事実を語っているのですから。恋人が死んだ事件を、茶化したりできるものですか。僕はそこまで冷酷な人間ではないつもりです。それに、現にそいつの姿は、さっき上杉さんが示されたとおりあそこに存在しているではないですか。あなたもそこまで否定はなされないでしょう。洪水の原因? ええ、それも含めて、話を続けさせてください。……僕は頭が麻痺したように呆然と眺めていました。カタツムリは、みるみる内陸へと進んできていました。普段見かけるカタツムリはとてもノロマですが、やはり体格がちがうと動く速度も数十倍ですね。きっと自動車といい勝負をすると思いますよ。それで、次に気づいたことなんですが、カタツムリは内陸へ進んできていたのは確かなんですが、なぜかいっこうに海から離れているように見えないのです。やがて、低地の町がどんどん姿を消していく様子から理解しました。海もまた、内陸に進んできていたのです。海岸線はカタツムリの尻尾にくっついて、陸へと上がってきていたのです。僕は坂の上に立ち止まって、その異常な光景を始めから終わりまでずっと見ていました。低地の地区が完全に水の下に消えるまで長い時間はかからなかったと思います。やがて、大カタツムリは北の山の中で止まり、殻にこもってしまいました。同時に水位の上昇も止まり、この辺りは、この通り、足腰までの浸水ですみました。宇美は死にました。これには確実な証拠があるのです。ただ一つ、遺体の確認はしていないのですけれどね。もう一年も前の話なのです。……上杉さん。僕の話はお役に立ちそうですか?」
聞き手はすぐには返事をしなかった。難しい表情をして、口の中でひそかにブツブツと言い、自分の考えの中に没入していた。ふたりはジャブン、ジャブンと水をかき分けて、疲れもない様子で歩いていた。やがて、上杉は口を開いた。
「………同様の物語を、もういくつも耳にしてきました。証言、証拠は多すぎるくらい揃っている。……それでもね、私には一つ、どうしても腑に落ちないことがあるのです」
「それは何です?」
「カタツムリが……海水のなかで生きていけるものですかね?」