1、海城良太
水の音がきこえる。寝床に臥していると、家の軒下をさらさらと流れる気配がする。川辺の家ではなかったが、朝から晩まで水の音が耳から離れることはない。
海城は何かに促されるように目を覚ました。畳にしいた敷布団から身を起こして、一体自分を起こしたのは誰なのか探ろうとした。しかし、家には彼以外には誰もいないことは十分に理解していた。ここ数ヶ月というもの彼は一人で生活していた。だが、たとえば彼にそういったとしても、彼は首をひねって確かな返事はしないだろう。そして、このような謎の答えを返してよこすかもしれない。「俺は水と暮らしていた」と。
屋内はそれこそ水を打ったような静けさである。耳をすましても物音ひとつしない。彼が寝ていたのは四畳半の座敷であった。窓にはぶ厚いカーテンがしてあったが、すき間からもれ入る淡い明かりから、外が月夜であることがわかる。室内にこもった暑気を思えば、今時分は夏の盛りなのだろう。何より湿気がひどく、畳は水気を含んでふやけ、壁は汗を垂らしている。
寝起きのぼんやりした加減で、海城は漠然と目の前を見つめていた。が、やがて心で何かを決めたらしく、のっそりと立ち上がった。
ふすまを開け、廊下に出ると、木の床板にも水滴が張り詰めていて、歩くたびにキュッキュッと鳴った。彼はそれをたいして気にもしていなかった。そんな状態がずっと続いていたので、すっかり慣れてしまっていたのだ。それに、暑い夏の盛りでは水が気持ちよいくらいであった。
玄関に来て腰をおろした。靴を履く動作をしたが、そうではなかった。彼は靴を履くかわりにズボンの裾をまくり上げていた。足には何も履かず、そのまま裸足で外に行くつもりらしい。
横開きの玄関扉をガラガラと開ける。すると、白々とまぶしい月の明かりが目を射た。手を額につけ、慣れるまで待つことにした。強い透明な光であった。月の周囲のいくえもの光の輪は空へと続く回廊に見えた。あまりに強い月光に他の星はかき消されて見れなかった。光の強い星だけが月から遠ざかるにつれてやっとちらほら見ることができた。
地上に目を向ける。そこには、いつ見ても海城を感動させずにはおかない幻想的な風景が広がっていた。彼の住む一軒家も近所の向かいの家も、その軒下のすれすれにまでが水が及んでいた。それだけではない。現在、この町全体が浸水状態にあるのだった。
路上は川へと変っていた。水からは強い潮の匂いが上がってくるので、海水であることが分かる。道の向こうからサーッと風が吹いてくれば、水面はゆれゆらと踊り、白い小さな波が立った。水の中には小さな魚の連れ合いが泳いでいて、体をひならせて戯れつつ、どこかに行ってしまった。月の光はそんな水面を突き刺さんばかりに照らしつけて、真っ白な影をそこかしこに作り出すのだ。
彼は水の中へと進み入っていった。ズボンは太ももまでまくり上げていた。むしむしする空気とひんやりとする足元の水の対比が気持ちよい。一歩一歩足を運ぶたびに、ざぶん、ざぶんと音がする。海城は腕をふってどんどん道を進んだ。
町がこんな状態でも、外灯は生きていた。道の両脇に等間隔にそろって並び立つ電信柱の上から、人工のさめた光が立っていた。それも、今夜、全空をほしいままにしている女王の前では、肺病を患った哀れな浮浪児のようであった。
町は死んでしまったかのように沈黙しているが、住人は大半が居残っているはずなのだ。洪水が発生してからすでに一年近くは過ぎ去ろうとしていたが、依然として避難せずにいる人間は、避難した人間よりも多いくらいであった。そのことは、海城自身はあまり詳しくなかった。彼はほとんど世捨て人のごとく他人との交通を遮断して生活していたからだ。それでも、彼を知る町のいくらかの人達は彼を心配して時たまに様子をうかがいに来ては、外界の情報も少々は教えてくれるのだった。
彼が行く道に面した建物といえばほとんどが住宅ばかりであったが、店舗もいくらかあった。薬局、ラーメン屋、居酒屋、コンビニなどなどであるが、どれも電気を消して真っ暗である。時間の問題もあるが、それ以前に、町が沈んだ今となってはまともに店の経営をしている所は皆無である。海城の聞いた話によれば、町の住人たちは自治体を作って、それぞれが持ち寄った品物をみんなに分配しているらしいのだった。殊勝な行動であると言えたが、いつでも自分勝手なことをしたがる人間のこと、はたしてどこまで理想どおりに機能しているものやらと海城は怪しんでいた。彼も自治体への参加を求められていたが、そんな理由もあり、また他にもいろいろ思うところがあって、承諾しかねていた。
外に出ている人間は誰もいなかった。道が水に満たされて歩きにくいのは承知しているが、それにしても彼の他には人の影も形もまったく見出せないとは不思議なことであった。夏といえば虫の声である。しかし、その虫さえまともにいないのだった。外灯にむらがる蛾や、木や電信柱の高い所にとまって鳴くあの蝉や、うるさい羽虫たちはどこに行ったのだろう。まさにこの町は海へと化してしまったようだ。水と、魚ばかりの領域である。人間達も、この海の法則に服従したものか、大人しくしているようである。
その中をたった一人の海城は進み続けた。それはまるで大洋を単身泳ぎきろうとする無謀な選手か、遺跡の間を探索する孤高の探検家に見えた。大きな沈黙の中の小さな雑音。彼はただ一人静寂を乱す者であった。
路地の細い道を抜けて、表の大きな通りへと出た。そこもまた水をまんまんとたたえた水路であった。大きな建物や背の高い建物が林立していたが、そのどれ一つとして中を人間が動いている気配はなかった。陸上の海路にはどこかからともなく波動がやってきて、水面を引っかいていく。波が立つ音、風が渡る音、それ以外にはまったく何の雑音もない神聖な静寂の世界。しばし立ち止まっていた海城は、再び足を動かした。そうして起こるザブン、ザブンという雑音はきめこまやかな静寂の布地を針で突き刺すようなものであった。彼の気配は空間に満ちて、あらゆる魚らは警戒の度を強め陰に隠れてしまった。まさにこの場に鮫がいたら、たとえどんなに離れていても獲物の出現を察知したでだろう。
彼は、やはり不思議な気分を拭えなかった。この通りは彼のなじみの道路であった。同じルートをたどって幼い頃は学校に通っていたし、成人してから何度も使った道なのだ。そう、洪水が起こる前日まで、彼は今とは全然ちがう快活な青年で、将来に希望をもつ若者であったのだ。たった一昼夜で、彼は四十年も歳をとったみたいに変貌してしまった。洪水は、彼にとって恨み骨髄まで染みとおる大敵であるはずだった。だが、彼はそれを疑問に思っていた。なぜなら、彼はこの町にやってきた水を恨むことはできなかったからだ。むしろ、はげしい親しみさえ抱いていた。彼は、この水を愛おしいと思う以外に、これといった悪感情を抱いてはいなかった。
どこかでチャプン、と水がはねた。魚が飛び上がったものだ。彼の足元を小さな生き物がかすりながら過ぎ去っていく。これも小魚あたりのしわざだろう。かつてはたんぽぽが咲いていた場所には、銀の砂を塗りつけたような美しい海草が生えている。今夜の月の明かりの下では周りの物がよく見える。太陽の下とはまたちがった色彩をしている。ビルのコンクリート壁に映し出された水の影の踊りも美しかった。
その時、海城は気づいた。実は少し前からすでにあったのだろうが、物思いに沈んでいた彼は本当に気づいていなかった。静寂の布地を破る針が、彼のほかにもう一人いたのだ。
針は「おーい。おーい」と言いながら、背後から近づいてきていた。