女神の帰還
まるで水泡が弾けるような。そんな音が何度か響いた。徐々に光が収まり、青年とオルガがゆっくりと目を開く。
魔女の姿はどこにもなく、神々しい光を纏う女神キルギスが立っていた。ふわふわと空へ昇っていく光の粒を、女神キルギスは慈しみの目で見送っていた。
「どうなったんだ……?」
青年が女神キルギスを見つめる。女神キルギスは、儚げな笑みを浮かべていた。
「消えるのです」
「消える?」
オルガが驚いて聞き返す。
「そう、災禍の魔女は私自身。それを消すということは、私もまた消えるということ」
「そんな……」
オルガの瞳が悲しみに揺れた。青年もまたやりきれないのか、僅かに目を伏せた。
「最期に、残った力でその者の瘴気を浄化しましょう。高潔なるブラックドラゴンよ、あなたの願いである姿には、戻してあげられませんが」
女神キルギスが、悲しげに青年を見つめる。青年は頷くと、未だに目を閉じているエミリアンの元へ跪いた。
「ヴァレリー」
オルガが声を上げる。オルガの腕の中で、ヴァレリーが目を覚ましていた。
「あれ……魔女は……」
「大丈夫、もう終わったの」
オルガがヴァレリーを抱きしめ、ヴァレリーがくすぐったさに身をよじった。女神キルギスはそんな2人を微笑んで見、すぐにエミリアンの側に佇んだ。
女神キルギスが両手をかざすと、エミリアンの身体から瘴気が漏れ出た。それは空へ立ち昇ると、霞のように消えていった。
「これで大丈夫です。ただし……いつ目を覚ますかは、私にもわかりません」
「ありがとうございます。なんとお礼を言えばいいのか……」
オルガが潤んだ瞳で礼を述べた。女神キルギスは頷くと、ヴァレリーを見下ろした。
「あなたに業を背負わせ、消える私を許してとは言えませんね……」
「私、どうなっちゃうんですか?」
ヴァレリーが静かに尋ねる。女神キルギスは首を横に振る。
「一時的にでも人の身に神を降ろしたも同然です。恐らく、既に人の子として世を生きることはできないでしょう。あなたに流れる時間が、ゆっくり経過するのです」
「ヴァレリーは、人として生を終えることができないということか?」
青年の言葉に、女神キルギスが頷いた。
「で、でもどこもおかしくないし大丈夫」
ヴァレリーが慌てたように言うと、女神キルギスが悲しげに頷いた。
「ありがとう……。ごめんなさい、もう時間のようです」
女神キルギスの言葉に呼応するように、彼女の身体が更に輝きを増した。溶け出すように、光の粒子が空へと還っていく。
「この愛しき箱庭を、もっと見守っていたかった」
光が弾ける瞬間、女神キルギスは確かにそう呟いた。
光が消え去り後に残された青年たちを、いつの間にか斜陽が照らしていた。
遠くから、ファブリスが青年たちを探す声が聞こえてきたのはそのすぐ後だった。戦いの終わりを噛みしめることも、余韻に浸ることも後にして。
青年たちは、仲間たちへ無事を知らせる声を上げた。
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ヴィレスへと戻ってこられたのは、翌日の昼過ぎだった。既に王宮へ使いが出されていたのか、女王アンジェリーヌからの直々の招集だった。
「無事に帰って来れたのじゃな。妾にも感じられた」
自身から失われた神性を指し、アンジェリーヌが笑顔を作った。細かいところは省いたが簡単な報告をすると、アンジェリーヌは益々嬉しそうにした。
「妾が責任を持ち、マルグリットとエミリアン殿をクレイアイスまで送らせようぞ」
エミリアンは、一晩たっても目を覚まさなかった。今は王城の一室に部屋を借り、寝かされている。
「そなたらも、望みがあればなんなりと申して良いぞ!」
「私は特に……」
ヴァレリーが恐縮して首を振る。
「アンジェリーヌ様、できたらでいいのですが、ファブリスの怪我がよくなるまでは出立を先延ばしにしたいのです」
「構わぬが、なぜじゃ?」
ヴィレスへ戻ってきた後。ファブリスは、アデライドによって絶対安静を言い渡されていた。今は治療院のベッドで暇を持て余していることだろう。
「アデライドさんも戻る先はクレイアイスですし、護衛の方はつくのでしょうが、気心が知れた方が1人でも多い方がいいので」
「なんじゃ、そんなことか。では、クレイアイスへはそのように通達しよう」
アンジェリーヌが召使いに指示を与える。それからしばらく当たり障りのない会話を終え、アンジェリーヌの部屋を後にした。アンジェリーヌは寂しがっていたが、青年たちにも色々としなければならないことが残っていた。
子猫の尻尾亭へと戻ってきた青年たちは、これからの身の振りについて考えねばならなかった。主にヴァレリーの、だが。
「よく考えたら、お父さんとお母さんが絶対悲しむよね……」
ヴァレリーが頭を抱える。女神の話が正しければ、人と同じ速度で老いることも、死ぬこともない。いや、いつかは死がおとずれるのだろうが、その時間がゆっくりと過ぎていくということだ。
「私、一緒に謝りに行く」
オルガがヴァレリーの手を握る。青年もヴァレリーの頭を撫でた。
「俺も行こう」
「2人とも、ありがとう」
ヴァレリーは微笑んだが、もうレイダリアには住めないだろう。それどころか、エルフでもないのに年老いないなど、人里で暮らすには苦労しそうだった。
「旅も、いいかも」
ヴァレリーが青年を見つめて呟いた。少なくとも、寿命で引き裂かれる運命からは解放されたことになる。そう考えると、ヴァレリーにも俄然勇気がわいてきた。
「そうだな、旅もいい」
青年が同意する。オルガが驚いたように2人を見つめ、微笑んだ。
「ヴァレリー、クレイアイスへ立ち寄ったら顔を見せてね」
アデライドの口添えで、魔女を倒した聖女というシナリオを作り上げた。目を覚まさないエミリアンを守り、オルガ自身の居場所をクレイアイスで保つためだ。
「もちろんよ、オルガ。何度でも会いに行く」
少女たちは抱き合うと、微笑みあった。
それぞれの居場所に帰れば、もうこうして気軽に触れ合うことができなくなる。それがわかるからこそ、青年はそんな2人を見守っていた。
ヴァレリーは青年が考えていたよりもずっと強く、眩しい。歪んでしまった人生を嘆くこともしないヴァレリーに、青年はまた惹かれていくのを感じていた。




