彼女の嘘【2】
辺りが闇に包まれる前に、青年がゆっくりと身体を起こした。
「おはよう、ルーさん。眠れた?」
ヴァレリーが用意していた紅茶のカップを差し出す。温かい湯気が立ち上るそれを受け取りながら、青年は頷いた。
いつの間にか、ヴァレリーは青年に対して敬語を使わなくなっていた。それは彼女が人懐っこい性格だからだろう。
「さ、夕飯食べちゃおう」
青年が寝ている間に用意していたのか、こんがりと焼いた干し肉とドライフルーツを挟んだサンドイッチを手渡す。青年は有り難く受け取ると、無言で食べながらすっかり暗くなった草原の闇の奥を見据えていた。
ヴァレリー達を寝かせると、青年は一人見張りを続けた。火のはぜる音と、風。虫の声。ぼんやりと火を見つめているようで、青年は不審な音を聴き漏らさぬようにじっとしていた。
星を見上げ、大体の時間を把握する。まだまだ、魔物達が活発な時間だ。
ややあって、オルガの寝袋がもぞもぞと動いて、オルガが起き上がった。ヴァレリーが眠っているのを確認すると、そっと青年の近くへ来て座り込む。
「眠れないのか。明日も歩くんだぞ」
青年の言葉に、オルガは頷く。
「……少し、火にあたりたくて。あの、ルーさん。今回は手伝って頂いてありがとうございます」
オルガがゆっくりと呟いた。青年に向けられた言葉なはずなのに、その響きはどこか独白にも似ていた。
「依頼だから」
短く答える青年の言葉にもまた、どこか空虚さがある。
「一つ聞いても構いませんか?」
オルガの言葉。
「何故、偽名を?」
想定の範囲内だった。
青年は初めて優しく微笑むと、オルガを見つめた。
「名前がないから」
「名前が、ない」
反芻すると、オルガは悲しげに瞳を揺らした。
名前が無いものは、多くは物心つく前に親と離れ離れになり、奴隷になっていた者たちだ。王都では少ないが、冒険者や国外には元奴隷という人間は沢山いる。
「何故わかった?」
「なんとなく、です」
「なるほど。俺からも一ついいか?」
「はい、何でしょう」
オルガが不思議そうに首を傾げる。
「お前は庶民の出ではないだろ。なんでこんな無茶な課題を?」
オルガの顔が曇った。
「何故、というのは愚問ですね」
オルガは何かを悟ったように微笑むと、ローブの中からペンダントを取り出した。月のように儚げなオルガに似つかわしい、ユリを象ったものだ。
「なるほど、恐れ入ったね」
オルガが身につけていたものは、紋章だ。貴族や王族が、家とは別に個人を象徴する紋章を身につける。
オルガのものは、オルガの顔を知らなくてもこの国に住む者なら誰でも知っている。ユリは、当代の国王が産ませた子供達の中で、唯一の姫君のものだからだ。
偽物ということも考えられるが、それなら隠す意味がない。恐らく姫君本人で間違い無いだろう。
「だから偽名だと?」
「そうです。すみません、騙すような真似をして」
オルガ自身が偽名を使っているからこそ、青年の名前に疑問を持ったのだった。
「それで、何故姫君が?」
「生きるため、です」