刀と因果
木地 忘年斎
紅達磨 端倪
今帰仁 不如帰
左 室町
恐山 天烈
兎角亭 胡蝶
百笑 不明
午莉阿手
鳥海 双左衛門
病葉 祇園
いずれも千里を越えて名の知れた剣客達である。
彼らの一人でも陣営に引き込むことができれば、近く始まる天下分け目の大戦を前に徳川と石田がその陣営に寄せる関心はひしめく国々の中から頭一つ抜きんでる。となれば諸国の大名達が争ってこの剣客を迎い入れようとする筈なのだが、話はそう上手くいかない。
刀がそうであるように、扱い損ねれば自身に還る切先である。それが尤物の一口であれば尚のこと。御しきれない力に頼るのは、それ相応の覚悟がいるだろう。まともな大名であれば、こんな危険を腹に抱え込む賭けには出ない。
実例として、彼らの一人に裏切られて壊滅状態に陥った国もある。鶏が鳴いてから日が真上に昇るまでに一人で城下の六千三百七十五人の兵を斬り殺し、そこの大名の右腕を切り落としたのだという。その剣客はそのまま城に居座ることなく何処かへ消えたというのだが、そこから『国崩し』なる異名を付けられている。
このような、たった一人だけで一国の戦力に値する力を持つ者達を人は『十剣聖』を呼ぶ。
しかし、『個』それのみで強大な力を持つのは決して好ましいことではない。故に今日のような時代の変革を迎える乱世の時が過ぎれば、彼らはやがて全体によって滅ぼされゆく運命でもある。それを分かっていながら唯我独尊の境地に足を踏み入れ、力を追い求める剣客がそう易々と全体の世界へ身を移すとは思い難い。
この二つの観点から、剣聖を味方に付けるのは難儀と云う言葉ですら楽観的に聞こえる。それでも、狡猾な大名たちの目が十剣聖に向かうということに、来るべき大決戦の重大さを示していた。
「――任せたぞ。必ずや、十剣聖が一人でも我が国の戦力に加えるのだ。我々以外にも各国、すでに密使を放って動き始めているらしい。そなたの働き、一刻の猶予も惜しい程だがそのすべてに国の運命が掛っていると思え」
「重々承知しております。善は急げ、今夜中に国を出て左 室町のいると見られる長門国の満珠島へ向かおうかと」
「うむ。もし任の途中他国の密使と出会ったならば、同じ徳川勢でも生かすな。今は並んで槍を構えているが元は敵同士、徳川が三日天下を獲り喜んでいるうちにあの肥えた首を刎ねてしまえば、何処も彼処もまた槍を突き合うのだ。……それと、十剣聖でも我が国の申し出を断り、他へ身を寄せる積りであるようなら…分かるな? 他に取られるくらいならば、いっそ居なくなって貰った方がよい」
「無論です。殺すとは行かぬまでも、腕の一本や二本を奪うことは出来ましょう」
「では、早々に出るがよい。阿倉家の汚名を見事雪いでみせよ」
「はい。それでは…轆轤殿、その間の妹のことをお頼みします。親無し児であるからか、あやつはまだ幼すぎるところがありますので」
「母親の居ない分、そなたに甘えたいのだろう。まあ、心配は無用だ。またしばらくは儂の屋敷で預かろう。儂の妻か女中どもが喜んで相手してくれるだろう。そなたは心置きなくその任に就け」
「有難う御座います。…では、行って参ります」
「うむ」
左 室町は左家2代目の十剣聖であり、彼女の父である左 洲善は7年前に逝去している。室町との決闘に敗れ、殺されたのである。
十剣聖の地位の踏襲方法は格式ばったものではない。ただ単に、その時の剣聖を打ち負かせばいいのだ。この誰が決めたとも分からない簡素な体制が、彼らを他の追随の許さぬ異能たらしめるのだ。
――しかし
剣聖の地位が血縁に繋がると云うのは珍しい。基本ほとんどの歴代剣聖は各地から名乗りを上げた腕に覚えありの剣士である。つまり彼らは自ら死地に踏み込んで、剣聖となるべくしてなったのである。成り行きで成れるほど甘くはない。では、親譲りの強さ、天性の才能、そして力を求める野心が彼女には備わっていたということか。
「鯵の開き。握り飯は3つ呉れ」
蝿の羽音が耳につく、半分崩れ掛った小屋に腰を下ろした頃には日も高く上がって陽炎が峠の向こうの雑木林を揺らめかしている。手の甲で額の汗を拭う。
「お侍様、どうしてこんな山奥に? ここから先、小さい漁村しかありませんよ」
「…人探し、かな」
「はあ、人で御座いますか? 親御さんか何かで?」
「随分と人の詮索が好きなようだな。ここは余り旅人も来ぬのか」
「あ、いや、御無礼をお許し下さい。確かに普段は旅人も来ないんですけどね。一昨日か、腰に刀を差したお侍様が通りがかってね、『満珠島はこの先か』って訊くんですよ」
「なにッ。どこの国の者だった?」
「さあねぇ、ここには立ち寄らないで行っちまったから、そんなこと聞けなかったですよ。ただ、訛りが強かったから、きっと土佐かその辺りじゃないかしらね」
「ふむ、ならば長宗我部の手勢か。うかうかしていられんな」
「急ぎのようですが、お侍様。もう飯は用意できましたよ」
「そりゃあ無論、食うさ」
「へえ、無論ですか」
「ああ、無論だ」
女は妙に恭しい手つきで握り飯と魚を持って来た。早速手をつけ始めると女は去らずにまだ細々尋ねてくるので、いい加減に辟易して早々に立ち去ろうと魚の身をろくに噛まず飲みこむと、喉に小骨が刺さってほとほと困った。
漁船の番頭に小金を渡し、満珠島へ渡ると番頭が余所者向けの厳めしい顔つきで口を開いた。今の今まで全く口を開かないのでこの男は唖者かと思っていた所であった。
「一昨日もここまで連れてけと言う侍がいたが、その日からまだ帰ってきてねえんだ。あんたも、もしかしてあの侍の仲間か何かか」
「その侍とやらに面識はないな」
「そうかい。せいぜいその後を追わないように気をつけるんだな。ここは笛を吹く女の鬼が棲んどる。きっとあの侍は鬼に喰われたに違いねえ」
「食うのは好きだが、喰われるのは勘弁願おう。所で、喉に刺さった魚の骨を取るにはどうしたらいい」
「きび団子か粟を噛まずに飲み込むんだな」
「生憎今日はきび団子も粟も持ち合わせが無い」
「なら、ほっときゃ取れる」
「そうだな」
「明日の同じ時刻、夕暮れ前に迎えに来る。その時にここに居なかったらもう迎えには来ん」
番頭は無愛想にそう言って舳先を遠くの陸へ向けた。きっともうこちらを振り返ること無くこの男は去っていくだろう。無論、こちらを振り返って手を振ることを期待している訳ではないから別段失望することもない。
「さて、笛を吹く鬼女が左 室町であるかどうか…」
人の居るとは思えない孤島の森は、日が暮れるに従って影を濃くしている。
柄に無く意気込むと、骨の刺さった喉が痛んで参った。
満珠島は周防灘に浮く小島だ。周囲に広がる海はかつて平氏と源氏が闘った壇ノ浦の古戦場でもある。
左を探し島の森の中ほどの所まで歩いていくと、木の陰から男が現れた。額に掛る一筋の前髪を除いて総髪を後ろに結いあげた、派手な格好の侍であった。恐らく一昨日からこの島に来ていると云うどこかの国の密使であろう。
「――まっこと参ったのう。おんし、どこの間者ぜよ」
「さてな」
「いかんやつじゃのう。そう隠しだてせんでもエエじゃろ。どーせおんしも、左 室町を引き込みに来たんじゃろうが」
「まあ、そんなところだ。して、一昨日から島に来ている筈のあんたが、まだこの島から出ないと云う事はまだ左 室町に首を縦に振らせていないということだな」
「御明察じゃ。本音としては、そう言いたくは無いんじゃがな。まったく、幾ら女を知ろうとも、女心はよう分からんぜよ。黙って男の3歩後ろを歩けばエエものを、ちっくとしたことでつんではたらげる。てこにあわんぜよ」
「十剣聖がお淑やかに、あんたの3歩後ろを歩いていたらそっちの方が驚きだ」
「分かっとらんのう、女は何処まで行っても所詮女じゃ。下は童女、上は老婆まで口説き落とせん女は居らんぜよ」
「長宗我部殿はよくもこんな好色男を送り込む気になったな…」
「わしは適任だと思うのじゃがな。相手が女である分では。カッカッカ」
「まあ下らんお喋りはいい。暗くなる前に始めよう」
「はてな、何をする積りじゃき?」
「惚けても無駄だ。この島に来て、ずっと殺気を向けられていたのは分かっている。どの国も考えていることは一緒ということだな。『邪魔者は消せ』、物騒なのは万国共通か」
「たまるか、わしの殺気に感づいておったがか。どこぞの小国の密使かと思っておったが、案外やるかも知れんの。じゃがのう、流草一刀流の免許皆伝、この摩周 香車と三合も剣を合わせられると思うちょるんじゃったらおんしは甘いのう」
「まあ、口で云うよりやってみることだ」
「応、っと…ありゃ? おんし刀は差しとらんのか」
「ん、ああ。生憎持ち合わせが無い」
「呆れたぜよ。刀無しに戦う積りかじゃ? わしは七本差しとるから、一本貸してやろう」
「かたじけない」
「ほれ、鈍じゃが。しっかし馬鹿なのか小知恵の働く男なのか、分からんぜよ」
「己は物を持ち歩かない主義なんだ。その方が気が楽だからな」
「理解出来んのう。大は小を兼ねるとも云うが、無はどこまで行っても無じゃろう。……ま、よか。では一局御手合わせ仕るぜよ」
「ああ。ってこの刀、半分で折れてるじゃないか」
摩周から貰った刀を抜いた己がそう言い終わるか終わらないか、摩周は刀を鞘から抜き打ちにいきなり投げ放った。首の脈を断ち切る正確な投擲であったが、躱せない距離では無い。刀は空を斬って背後の木に突き立った。
「カッカッカ! 勝負はもう始まってる、まだまだ行くぜよ」
摩周は腰の左右の鞘から右手左手に二本の刀を引き抜いた。この男は反りの少ない長剣ばかりを七本も帯に差している。
「あんた、さっき一刀流とか言ってなかったか」
「一本ずつ使えば一刀流じゃき」
「今、手に持っている刀は何本だ」
「ん、一本じゃ」
摩周は右の刀を上に投げ捨てるように放って、残った左の刀で胴を真一文字に薙いできた。太刀筋は水を絶つほどに鋭い。後ろへ下がり刃を避けるが、着物の袖の端が大きく斬り取られていた。
「むう、これはサキに怒られるな…。また着物を繕って貰わねばならないな」
「なんじゃ、女房か?」
「妹だ」
「ほほう、ならばその着物を斬ってしまった詫びを入れなければいかんぜよ。おんし、死ぬ前に屋敷の場所だけでも教えてくれんじゃろか」
「絶対にお断りだ」
「それは残念じゃ。義兄殿。カッカッカ」
本当に残念そうに言うと、膝の辺りまで下げていた切先を翻して右袈裟へと斬り上げた。己は上体を反らせてそれを躱す。
――と、
「おっと滑った」
摩周の手から刀が離れて、茂みに飛んでいった。
あからさまな隙。
これは餌だろうな。
「なんての」
摩周の手には依然、刀があった。
先ほど上に投げ放った刀が落ちてきたのをこの男、見ないで握ったのだ。そのまま上段に構えた形で刀を一閃する。もし先の隙に釣られて踏み込んでいれば、一刀のもとに斬り伏せられていただろう。
「あんたは曲芸師か」
「侍に向かって失礼なやつじゃ。『色男の』曲芸師じゃろ」
摩周が笑みを浮かべながら、刀を振り回す。
また後ろへ飛んでそれを避けるが、ついに背後の木に背中が当たった。始めに刀が突き立てられた、あの大木である。
無闇に退き下がるのは兵法においては愚行も愚行。将棋で言えば連続で「王手」をかけられていくのと同じだ。囲いは崩れ、攻めの機会は失われていく。そして最後には『詰み』が待っている。
「冥途の土産じゃ、奥義を見て死ね! 『三束一刀・紅葉狩』」
摩周が不敵に叫び、高く跳躍した。夕日に刀が煌めくのも刹那、鋭角に刀を投げ放つ。標的は左の足先だった。咄嗟に足を上げ避ける。
すると、そこに目を向けている僅かな隙に摩周はすかさず間を詰め、一番初めに投げた、木の上部に刺さっている刀の柄を握る。そして外見からは想像もつかない胆力で、同じくその木に追い込まれた、いや摩周からすると追い込んだ獲物を、木ごと右袈裟に斬り捨てようというのだ。木の幹の上を稲妻のように白刃が走り迫ってくる。
成程、これが奥義か。
「『詰み』では無いがな」
「何じゃとッ!?」
足元に突き立った、摩周が目くらましの為に投げた刀を引き抜くと、それで摩周の刀を受け止める。大きな木の幹ごと斬り裂いた摩周の刀が止まった。半分以上切断された大木は堅い幹の千切れる盛大な音を立てて倒れる。
「馬…鹿なッ……!! 受けたじゃとぉ!?」
「何本もの刀を戦術的に操るのは革新的だが、持ち主から離れた刀は味方と思わぬ事だ。将棋は全ての駒が裏切ること無く戦略を支える。駒が駒であるように、戦略で全てを成すには刀を刀としなければならない。刀を武器たらしめるのは刀自体では無く、それを使う人間による」
「ぐ…! う……!」
「まして、その戦略も詰が甘いから先を読まれる。あんたは才能に溺れ、未熟を看過しすぎた」
「わ…しが……」
「その剣術、確かに見届けた。案ずること無く逝け」
上にいた摩周は今度は下へ、下にいた俺は上から刀を合わせている。歯を食いしばる摩周の頬に汗が伝っていった。
「こ、こらッ…!! わしを助けろ…! 用心棒、貴様…いつまで高みの見物している積りじゃッ!?」
「……」
摩周が何か叫んでいる内に、競り合いをしていた刀を擦り上げて刹那に切り返し、がら空きになった摩周の胴を斬り下ろした。
「うッ…!! う…む……!」
ドウと倒れる摩周は驚愕のうち恨みがましそうに脇の茂みにぎょろりと目を向けた。丁度その時、そこから羽織り袴の小男が重々しく姿を現した。顎の太い、如何にも武芸者らしい人間だった。
「命が危うくなって助太刀を頼むとは、武士の風上にも置けぬな」
「……く、食い扶持も無い、人斬りの狂の浪人風情が…。な、何をほざく…!」
口から血の泡を飛ばしながら摩周が吼える。それを見下ろす小男の眼差しは冷たい。
「人斬り狂とは心外。貴殿らが他者と言葉や文字を交わして互いを知るのと同様、我は刀を交えて人を知ろうとしているに過ぎん。たかが媒介の違いを、そんなに奇異すべきことではあるまい」
「…カ、カ、カ。産みの親に、妻子も斬って、貴様に何が残ってるがじゃ…! 人を知りたいじゃと? 永久に分かるか! 貴様は鬼じゃき、それが人の気を知れるか! がふッ、…ゲホッゲホ……」
「……案内御苦労、摩周殿。貴公のお陰であの十剣聖が一人、左 室町殿と決闘を取り行う算段がつき申した。明日の未明、果たし合いによりどちらの剣が上か腕に問う」
「な…! 貴様、それでは約束が違うではないか…! 左は藩へ招き入れるのじゃぞ…!?」
「約束? 許されよ、浪人風情は約束違えも気にしませぬでな。全ては刀の為。元より貴公は都合の良い時に斬り捨てる積りであったが、その手間が省けたわ。貴公のような者は斬るに値せぬでな」
「……ぐぅ。貴様…。無、念…」
「――して、若くして流草一刀流を極める摩周殿を見事打ち負かした貴殿は一体何者であろう。摩周殿では相手にならぬほどの使い手をお見受けするが、名をお聞かせ願えんか」
「……余り言いたくは無いが。まあ、いいか。阿倉 伝奇だ」
「ム。阿倉と? 以前、何処ぞで聞いたことがある名だ」
「そうかも知れんな」
「……しかし、過去の事物へ現代に生けし我らが付ける価値など無用であろう。剣士ならば刀でもってしてその全てを計るのが唯一。一つお立ち会い願いたいものだが、生憎己は左殿との決闘が控えておる。貴殿と試合うのはその後になる」
「果たして、あんたがどれ程の使い手かは知らぬが、そう簡単に十剣聖を負かせるかな。まずは目の前のことに目を向けてることだ」
「然り。…名乗り遅れた、某は兵隊 竹と申す。きっとその後、御手合わせ願おう」
慇懃にそう云うと、兵隊 竹と名乗った浪人は出てきた時と同じく重々しい足取りで茂みに消えて行った。
兵隊 竹と云えば『赤刃』の異名をとる、関東地方でよく聴こえた罪人だ。この男と縁のある人間は一人残らず彼の手で殺されている為に、詳しい経歴が全く分からないものの、居合が恐ろしく出来るという。その刀が抜かれるときには必ず刃が血に濡れており、そこから赤刃の名が付けられたのだと伝え聞いた。
土佐藩の長宗我部殿は恐らく、藩からの交渉役に摩周を、そして万一に左が交渉に応じなかった時の腕力に訴える手段として兵隊を秘密裏に雇い入れたのだろう。兵隊は罪人である故に藩の人間である摩周と表だって行動を共にしてはいなかったようで、兵隊の方はどこかから単独で島に入ったのかも知れない。
「ふむ、あっという間に日が暮れてしまったな。仕方ない、どこか木の上で野宿するとしよう」
寝床を探しそこらを歩き回っていると、海辺の方から笛の音が聴こえてくる。物悲しい音色が木々を抜けていく。
「左 室町か、兵隊 竹か。多分、左だろうな。兵隊みたいな男が吹いていたら何か嫌だな」
兵隊が唇をすぼめて一生懸命に笛へ息を送っている様を想像して身震いしながら、音の元へ向かう。
「…ふむ、あれが左 室町殿か。かなり若いな。己より、2,3年下くらいか」
海岸の砂に半分埋まった岩の上に、白い着流しの女が立って笛を吹いている。丁度満月の夜ということもあり、鬼気迫る雰囲気だった。
「…どんどん音色が細く長引いてくる。それでいて耳のすべてがあの音に覆い尽くされてしまう。潮騒もどこか遠のいていくようだな」
聴き惚れていると、急激に眠気が襲ってきた。そう言えば、ここに来るまで国から随分と歩いてきたものだ。出発した日から数えて3日が過ぎたが、残してきたサキは大丈夫だろうか。
瞼を開けると、驚いたことに日が昇っていた。どころか、昼近くだった。無論、昨夜左の立っていた岩の上にはもう誰も居ない。
「な、南無三ッ。寝過した、この己としたことが…!」
左と兵隊が試合うのを見届けようと思っていたのが、みすみすその機会を逃してしまうとは一生の不覚。
「ともあれ、腹が減ったな。左殿の住居を見つけて早く朝食をとらねば」
「勝手に他人の家で朝食をとる算段を立てている貴方様はどなたで御座いますか?」
後ろから細い女の声が掛った。気配は感じられなかった。
「やや。己は阿倉 伝奇という者に御座りまする。昨夜もお見受けしたが、海辺で笛を吹いていた貴殿は左 室町殿であろうか」
「まあ、昨夜感じた視線は貴方様のものでしたか。……大かた察しはついておられますでしょうが、十剣聖が一人、左 室町とは確かに私のことです。して、阿倉様。この小さな島へ赴いた理由は何で御座いましょう?」
「…それには、深い訳が御座います。ですがここで立ち話も何です、左殿の御座敷で朝食でも召しあがりながらじっくりお聞き願います」
「あら、それはお気を使って頂き申し訳ありま……って、どうして私が客の立場なんでしょう…?」
「あ、それもそうですな。無論この場合、僭越ながら己が客に御座りますな」
「左様ですね。では阿倉殿、狭く汚らしい家でありますが案内いたします故、私の後に付いて来て下さいまし」
「かたじけない」
「いえいえ」
「……?」
「如何なされました」
「不思議です。私どうして阿倉様を家に招き入れて朝食を用意してあげるてるのか知ら」
「ゴホン、そこは取りあえず、今は己の話に耳をお貸しくださいませ。さすれば全ての理由が分かりましょう」
「左様ですか…?」
「無論です」
「では、お聞きしますわ」
「己は筑前国 国主であれせらる小早川 秀秋様の家臣、轆轤 十字殿の命により、貴殿にこの書状を届けに参った次第であるのです。どうぞ、お読みください」
「……私を、小早川様の家来として召抱える。と書いてありますね」
「――近く、徳川と石田の覇権を争う大きな戦が御座る故、轆轤殿はより多くの、より腕の立つ剣客を、求められている。無論、左殿のような方ならばどれだけの石高を所望でも手を打って召抱えたいところで御座いましょう。如何です」
「一昨日から同じような用件で来られていた摩周殿にも申しましたが、私は戦の駒には成りとう御座いませぬ」
「人の下で刀を振うのが嫌と?」
「それも御座いますわ。でもそれ以上に、私は『生きている人間』を斬りたくないので御座います」
左は伏し目がちに言うと、釜で煮えている粥を碗に盛り付けて己に恭しく差しだした。
「…有難く、頂戴いたします」
「粥と云いましても、そこらで採れた栗や木の実と雑草を煮詰めただけのものですから、貴方様の舌には合わないかも…」
「いや、これは案外美味」
「えっ、左様で御座いますか!? それは良かったです。私でしたら、こんな粥は飢えていていても食べられません」
左は安堵したようにほっと息を吐いて見せる。なら何故客にそれを喰わせる? と問い詰めたくなるが、ここはグッと堪えた。
「…そういえば、兵隊 竹と云う男との決闘は、どうなりました」
「……そうですね。強いて言うならば、私の負けに御座いしょうか」
「ブフッ!? ゴホゴホッ。じゅ、十剣聖である左殿が負けたと? し、しかし見た所、左殿はどこにも刀傷を受けておられぬようですが…?」
口に含んでいた粥を盛大に吹き散らしてしまいながらも、驚きを隠せない。まさか、高々関東を賑わす程度の剣士によって、十剣聖の一角を陥落せしめらるることがあろうか。
己の動転を余所に、左は顔に吹きかかった粥を取って火にくべた。
「私の刀は、肉を斬り骨を断つだけのものではありません」
「?」
「例えば、物が地に落ちますのは、重さのあるものが地へ吸い寄せられると云う万有の法の規則に従うためです。しかし、その関連性を絶ち斬れば――」
左はそう言って、おもむろに薪木を宙に投げ、抜き打ちに刀でそれを斬ってしまった。
すると驚くべきことに薪木は一刀両断されずに、ゆらりと宙に漂っている。
「もはや剣術と云うより、妖術ですな」
「不思議がることはありません。全ての事象は関連する因果によって成り立っているのです。団扇で顔を煽ぐのをやめると、また暑さが蘇ってくることと何ら変わりは無いのですから」
「うむむ…」
「私は父上から引き継いだ十剣聖の一人として、決闘は拒みません。しかれど、やはり生きている人間は斬りとうないのです。だから、私はいつも決闘で相手の『生きる因果』を絶つことにしています」
「生きる因果?」
「殆どの者は、3合で終わります。『欲望』、『名誉』、そして『自我』。これらを肉体から切り離せば、大抵の人は人で無くなり廃人となります」
「…それで?」
「はい。彼らは最早、生ける屍も同然でありますし、そのまま冥途へ送って差し上げたほうが人情ですから…」
「成程。恐るべし、ですな」
「――しかし、今回は困ってしました。私は何時もの通り兵隊様を3回斬ったのですが、それでもあの方は奮然と私に斬り掛って来るのです。それで私、驚いてしまって…」
「殺してしまった?」
「いいえ…」
「ではまさか、兵隊はまだこの島を彷徨っているのですか?」
「あ、いえ。そのまま斬り殺すことも出来ませんから、取りあえず兵隊様を刀の峰で打って気絶させ、どうしようかと一先ず家に戻ろうとしていた時、貴方様に出会ったのです。…ですが、あれから大分時間が経っておりますし、兵隊様もそろそろ目を覚ます頃ですね。嗚呼、どうしましょうか……。困りました」
「ふむ。……では、こういうのは如何です。私が代わりに兵隊殿を斬って進ぜよう。その代わり、どうかその力を一時だけ、小早川様にお貸し頂けませぬか…? 戦でも、人を斬れとは申しませぬ。敵方の兵の、闘う理由を斬って頂けさえすればよいのです」
「それは本当で御座いますか?」
「武士に二言は御座いませぬ」
――7年前、同じく満珠島。暗い海へと招くように砂浜の上を生温い風が引いてゆく。
初老の背の高い男と12,3歳くらいの少女が並んで、浮かぶ漁船も無い海峡を見ている。
「室町よ、この海峡はかつて盛栄を極めた平家を呑み込んだ、壇ノ浦の古戦場だ。何故に彼らの骸はこの海底で冷たい潮に晒され続けているのか分かるか」
「きっと、負けたから…だと思います。父上」
「何故、負けた?」
「それは……えっと…」
「…教えてやる。それは因果だ。事象とは関連性の集合だと前に言ったな」
「はいっ。父上」
「関連性の集合を因果と呼べば、平 清盛はあろうことか滅ぼした源氏の子息との因果を斬らなかったのだ。その結果、復讐に燃える源の小童によって今度は逆に一族郎党を滅ぼされてしまった」
「…ち、父上? 今日は何だか何時もと雰囲気が…」
「この左 洲善も、世に血の因果を残した。十剣聖である我が存在と、もう一つ。お前だ、室町よ。お前は早くも儂を越えた剣士となった。それだけでな、儂の剣客の血が騒ぐのだ。…強大過ぎる個が自ら滅ぶのも、全ては因果。儂が子を残したのも又、因果」
「な、何をするのです…父上? おやめ下さい…!」
「刀を抜け、室町よ。今日、ここでお前に敗れて死ぬのが儂の因果なのだ。お前を武の求道者として育て上げた、この儂のな。しかし、もしも闘う気が無いのならばお前は失敗作だ。ならばその腕も要らぬな、脚も要らぬな! 眼球は抉りだし犬に喰わせようぞ、腸は蟲共の苗床にしようぞ。刃が肌に食い込んだ時にお前が泣きわめいても、儂は止めぬぞ」
「嫌で御座います! 闘いとう御座いません、お止めください! お父上ッ!!」
「くどい。因果を見極めよ! いざッ、覚悟――」
洲善は刀を抜く瞬間すら見せずに娘に斬り掛った。手加減というものが微塵も無いという証拠に、その一撃で砂浜が半分吹き飛んだ。大きく削られて出来た砂の峡谷に海水が轟々と音をたてて落ちていく。
「父上…!」
谷の断崖に室町が刀を抜いて立っている。
「死ね、我が娘よ」
非情に言い捨て、洲善は刀で軽く空を斬る。すると斬られた空間に向かって空気が吸い込まれ、突如として風が鳴った。砂や、森の木々さえも吸い込まれていく程の強い風である。
「――ううッ」
砂の足場で踏ん張りが利かず、室町の体も洲善の方へ吸い寄せられていく。
「かァッ!」
洲善が今度は鋭く十字に刀を振う。斬撃は刀の届かない距離に居る室町をも斬り裂く真空波となって襲いかかった。
「くうぅッ!!」
吸い込もうとする強い風には踏ん張りの利かない、脆い砂の足場で構える室町は襲い来る十字の斬撃を何とか一刀の下に斬り伏せ相殺する。真空波は砕けて室町の周囲に飛散した。
「――あっ!?」
しかし、飛散した真空波が室町の周りの砂の足場を削りとり、思いがけずに彼女は態勢を崩した。すべてが計算ずくであったのだろう、洲善は駆けて間合いを詰めている。
「かぁッ!」
刀の駆け引きは見えない。余りの速さで斬り合わされる為、時折刃の煌めく光が閃光のように見えるのと、金属同士が鋭く擦れ合う擦過音が断片的に聞こえるのみである。
不意を突いて室町が地面に刀を振り下ろした。
「ムッ――!?」
膨大な量の砂が舞い上がった。と同時に砂浜には隕石が落下したような、底の深い巨大な穴が出来ていた。そこに二人は落ちていた。しかし、奇妙なことに地中に埋まっていた岩は穴の中で宙に漂っている。
「くくく、法の因果を断ち切ったか。やりおるな」
洲善が宙に浮く岩の一つに着地する。室町もそう離れない空間に浮いている岩の上に立っていた。
「――きっと、父上が力をお求めになる因果も断ち切ってみせます!」
室町が泣きそうな声で叫んだ。
「くく、やってみるがよい…。だがどんなことをしてもお前は因果から逃れられん」
言って、洲善は刀を右上段に構えた。室町は目を見張りながらも隙の無い中段に構えている。
「来いッ、室町ィ!」
「ッ――!!」
「探しましたぞ、兵隊殿」
「………」
兵隊は己に背を向けたまま、ジッと海を見つめている。
「訳あって、あんたを討つ。悪しからず」
「………」
兵隊はやはり動かない。この分では話も耳に入っていないのかもしれない。何せ今、兵隊は『欲』『名誉』『自我』が断ち切られている。ほぼ廃人であるのは間違いが無い。
己は摩周から勝手に拝借した、まともな刀を抜いた。
「…んあ」
鞘の内を刃が擦る僅かな音に反応して、兵隊が振り返ってこちらを見た。口からは涎が垂れ、目の焦点は合っていない。
「いざ、尋常に勝負」
己は大上段に刀を構え、慎重に間合いを測る。兵隊は居合の達人。その初太刀は必殺である。
「…お~、某。ははは、そうかそうか」
兵隊は訳の分からぬことを呟きながら、無邪気そうにケラケラと笑っている。こんな時に刀の柄に手を掛けていないからして、やはり彼はもう闘える状態ではないのでは?
素早く斬り込んでいけば、こちらの太刀の方が早いか――
己はそう判断するが早いかギリギリの間合いまで詰め、兵隊の不気味な笑い声の切れ目を狙って踏み込んだ。
――が
「きひひぃい…。――えひぃッ!!」
「――っとお!?」
己が身を翻すのに一瞬でも遅れていれば、両肘から先が斬り落とされて土にまみれていただろう。全身に冷たい緊張が走った。肘のあたりが一寸程斬り裂かれて、手まで鮮血が垂れてきた。
この男、闘いの才を全く失っていない。兵隊は恐るべき速さで刀を抜いて出小手を狙ってきた。想像以上の太刀の速さだ。刀身どころか刀を抜く瞬間も見えなかった。
「化け物か」
叫びつつ、再び間合いを詰めた。如何に必殺と云えど、初太刀を逃れられれば居合使いも普通の斬り合いに関しては段が落ちる。鞘に刀を収められ、間合いを取られるその前に決着はつけてしまいたい。あの太刀筋を今のように上手くそう何度も躱せる自信はなかった。
「ふッ――」
刀を横に一閃、しようとしたところ兵隊は後ろへ下がらずに前に出てきた。
「ききき、ぎへぇ!」
「くっ」
刀の柄近くの刃が兵隊の腹に食い込むが、間合いが近過ぎるために到底致命傷までには及ばない。己らしくもなく、勝ちに焦り過ぎてしまった。兵隊が己の左手の小指をと中指をむんずと握る。
――拙い。
そう思った時には遅く、二本の指は手の甲の側へ無理にねじ曲げられ、体の神経に堅いものが砕ける嫌な感覚が伝った。
「ぐうっ…!」
兵隊の腹に足蹴を入れて、次なる関節技から逃れる。
「かなり、やるみたいだな」
「左様であろう、左様であろう」
兵隊は刀を鞘に収めながら破顔している。実に幸福そうな顔であった。
「…何故あんたが左殿に斬られても、闘う事をやめないのか分かった」
「じ、じ、実に興味深い、い。某、某、実に興味深い」
「いくら左殿が因果を斬ろうと、人は人である限り惹かれ合う。その方法に違いこそあれど、な」
「あ、あ、阿倉? 阿倉 伝奇ぃ…! 某、阿倉! と、と、友よ!」
「変わった男だな、あんた。いいとも、必ずや後に伝えて進ぜよう。兵隊 竹という男の剣を。――来い、次が最後の斬り合わせだ」
「――ふ、ふ、ふ、ふふふ。うぇえいぃひひひぃぃッ!!」
己は右手に刀を持ち替えた。左手はもう使えない。本来は左手で扱う刀を右手のみで振うのはかなりの痛手だ。しかし、迷っている時間はなかった。今度は兵隊の方から間合いを詰めてきている。
己は、それを正面から迎え撃った。
まだかなり距離の離れた所からの、片手突き。兵隊の太い首を目掛けて刃を突き立てる。切先が間合いに入った時、兵隊の目が瞬間、剣客特有の冴え冴えしたものに戻った。兵隊は腰を屈めて己の突きを軽々と躱し、鞘を走らせる。懐に入って抜き打ちに胴を狙うのだろう。
しかし己はここで、片手突きと見せかけた刀を上に放り投げる。と同時に空いていた左手で柄を握る兵隊殿の手を捕まえた。
「むううっ!?」
兵隊が唸った。
己は身を翻しながら、兵隊の柄を握った手を引っ張り、刀を抜かせた。これで居合は使えぬ。
「『一束一刀・紅葉狩』!!」
己は宙へ跳び、落ちてきた刀の柄を握る。
「ひひ、ひ、ひ。お見事!! 見事だ友よ、友よ、友よぉオォォぉッ!!」
兵隊殿が恍惚の表情で己を見上げている。空中から振り下ろされた一閃はその顔の横を過ぎ、左袈裟を斬り抜けて血飛沫をあげた。
浜辺に波が押しては返す。
『赤刃』兵隊 竹
――即死。
「かたじけない。傷の手当てまで面倒になるとは」
「いえ、いいんですよ。貴方様のお陰で、色々なことが分かりそうな気がしましたので…」
左殿は森で摘んできた薬草をすり鉢で潰して己の肘に塗っている。折れた指は添え木を当てているものの、かなり痛んだ。
「決闘をご覧になっておられましたか」
「はい。…あっ、駄目だったでしょうか?」
「いえ、そんなことは御座らんです。…にしても、己がこれだけ苦戦した相手を左殿は今朝の決闘であっさりと打倒したのですか」
「いえ、あっさり等とは…。兵隊様はこれまで相手した中でもかなりの使い手で御座いましたよ。あの居合、警戒した以上の鋭さでした。一体あれほどの太刀筋を手に入れるまでに、どれほどの修業を積んだことでしょうか…」
「ま、最早それを知ることは叶いませぬがな」
「……」
「左殿?」
「…私は、十剣聖になど興味は御座いませんでした。今までこの島で一人、誰かと因果を結ばれるのを恐れヒッソリと暮らしておりました。その月日の中で、何度自分の剣に関する因果を斬ってしまおうかと悩んだのか分かりません。しかし、どうしてもそれは出来ませんでした」
「左殿。顔色が優れぬようだが、少し休んだ方が…?」
己は起き上がって左殿の気色を窺う。
「いいえ、大丈夫です。ここで吐き出しておかないと、また口を閉ざしてしまうかも知れませんので、どうか聞いて下さいまし」
「…承知」
「有難う御座います。…私が私の因果を斬れなかったのは、剣客としての私を否定した時、私には何が残るのだろうかという恐怖故に御座いました。左 洲善という大剣豪に育てられた私の因果は、たった二つ。洲善の娘としての因果と、最強を求める剣客としての因果が御座いました。しかし、父をこの手で殺した時、私は気付きました。私は始めから、十剣聖の因果に囚われたのです。そしてそれが、全てだったのです」
「……」
「私は5年間、父上と闘い続けました」
「ご、5年間!?」
「あ、いえ。少し語弊があります。刀での決闘はまる一日で決まりました。私が、長い死闘の末に父上の力を求める因果を斬り去ったのです」
「ほ、ほう。それで?」
「…父上は廃人となりました。『欲』も『名誉』も『自我』すらも、父には『剣聖』という因果と同義だったのです。ですが、私はそれから5年間、父上と共に暮らしていました。剣聖の呪われた因果を越えて、父上が蘇ることを願って。……しかし父はみるみる間に生気を失い、つい2年前に死にました」
己は余りの壮絶な話に唾を飲み込むのも、ためらわれた。だが不思議にも、左の口調には悲嘆に暮れるようなところが無かった。
「でも、私は違います。父上とは違う、と思うのです」
左殿は薄い氷のように儚く冴えた顔を、己に向けた。海のように深い色の瞳には夕日の光が射していた。
「私は阿倉様と兵隊様の決闘を見て思いました。人は根本に、逃れられない初々しい因果を持っていると。人は互いを求め合う因果にある、と。それは屹度、私の中にもある筈です。そして、もしかしたら、刀の因果を斬り捨てても私は廃人になどならず、誰かを求め、求められる人間に生まれ変われるかも知れません! ふふ、私、こんな気持ちになったのは生まれて初めてです」
「…左様ですか」
「――屹度、阿倉様はこれから私がしようとすることに感づいておられますよね…?」
「ええ、なんと無くですが。ご自身の因果を――」
「貴方様がお止になるんでしたら、私はしません。そうしてしまえば、私の剣聖としての力は無くなってしまうことになりますから。そしてそれは、貴方様との約束を反故にすることとなるからです…。阿倉様、私は貴方様の言葉に従おうと思います。貴方様が何と仰られようと、私は構いません」
「……今日の夕暮れに帰りの船が来ます。それで共にこの島を、出ましょう。一先ずは己の国に来て頂きたい故」
「…やっぱり、貴方様は剣聖としての私をお望みなんですか。いいえ、お怨みは申しません。もとより約束でありますから」
「そうでは御座らぬ。この島を出て、貴女は貴女自身でその道を決めるのですよ。剣客としての因果を断ち、十剣聖が一人の左 室町がこの島で死ぬ時、少し知恵の足らない心優しい娘がこの世に一人、増えるのです」
「それでは…!」
「私は先に砂浜で待って居りまする」
「申し訳ありません。阿倉様のお役目を承知しておりながら、このような身勝手なことをお頼みして…」
「いや、私の今回の役目は左 室町殿を国へ連れ帰ることのみ。それが十剣聖であろうと、ただの娘であろうと。他言無用に御座るが、己は轆轤殿や小早川殿に忠誠を誓った家来では御座らぬ。互いの利害が一致しただけの関係故に、あの国がどうなろうと構わぬのです」
「阿倉殿にも色々とご事情があるようですね…」
「まあ、そういう訳であるから左殿が勝手にしたということであれば已む無きこととしてお咎めも余り無い、と思いたい」
「もし、そのようなことがあれば私が代わりに罰をお受けいたしましょう。この約束は、決して破ったりはいたしません」
「…では、己は待っております故」
島に来たときに乗って来た漁船が浅瀬に停まっている。例の憮然とした態度の番頭が葬式のときのような口調で口を開いた。
「…骨は取れたか」
「何?」
「喉に刺さった骨だ。来た時言ってたじゃねえか」
「ああ、そういえばいつの間にか取れていたな」
「…ここに何があるか知れねえが、今日もこの島に連れてけって奴が村に来てたぞ。どうも気に食わねえ連中だったから誰も船を出さなかったが、どうする、村には行かないでどこか適当な海岸にでもするか」
「有難い、そうして貰おう」
「で、お前さん誰を待ってんだ? この間に島に渡ったあの派手な格好の侍か」
「いや、奴は来んよ。待っているのは笛吹き娘さ」
「ああん?」
番頭が訝しげに言った時、森から春色の着物を着た娘が現れた。
思わず番頭も己も目を見張る。
「こりゃあ、たまげた。この島に、こんな別嬪が住んでおったとは…!!」
「…ひ、左殿。その着物は?」
「何故か父上が、大切に残していたものです。一生着ることなど無いと思っていましたが…うふふっ。さ、行きましょう。私、早く色々な国を見てみたいです」
「全く、左殿。まだ世間に慣れぬうちからはしゃぎ過ぎぬようお頼みしますぞ。ある意味世の中はどんな剣客よりも恐ろしいのですからな」
「さ、左様なのですか…!? あ。しかし、大丈夫です」
「ふむ? それは何故」
「それは阿倉様、私を守るのが貴方様の因果だから、です。ふふっ」
「何だか急に知恵が回るようになったような…?」
「何か仰いましたか?」
「い、いや何でも御座らん」
「――ああ、夕日がきれいです!!」
「それは無論です。夕日は綺麗なものです」
「無論で綺麗なんて、素敵なものですね。ふふっ」