別れ
「兄さん、北の王を倒しましたぜ。」
手柄だと言わんばかりにウサンが誇らしげに胸を張っている。が、その髪の毛はちりちりに焼け焦げ、顔も赤黒く焼けただれ、その面影は無い。黄色い歯だけがかろうじて、その特徴を保っている。
「この馬鹿が!」
デモフォルトの剣幕にウサンが青黒くなって飛び退く。
「しかし、これでキリエ様がこの星全体を治められるのでは?」
「だからお前は馬鹿だと言うんだ。ホスタ王が亡くなった今、結界を誰が解くんだ。」
「はあ、なるほどねえ。」
「結界が解けなければ、北領と南領は分かれたままだ。」
ウサンが尻をかきながら目をぱちぱちさせる。
「結界を解ける人間は一人もいないんですかね。」
「解けるとすればホスタ王の血を引く者だけだ。娘が一人いると聞いている。」
「じゃ、そいつをさらってくるか。」
簡単に言いやがる。怒りで腹の中が燃えるように熱い。ウサンはまるで他人事のように、
「良い案がありましたら手を貸しますぜ。」
とニヤニヤしている。
ホスタ亡き今、実際、結界を解くためにはウサンの言うようにミヅキを手に入れるしかない、と思うにつけ、また怒りがこみ上げて来るのだった。
ホスタの死を伝えると、キリエは顔色を少しも変えずに、そうか、と言ってデモフォルトに席を勧めた。四畳ほどの小さな部屋に丸い木の机と二脚の椅子。城の一室とは思えない簡素な会議室だ。キリエとデモフォルトのみが知る小部屋である。
「北領は王を失って混乱しているだろう。良い機会ではあるが結界が解けなければ身動きがとれぬ。」
「それでウサンが娘をさらってこようかと申しておりますが、何分、あちらにはリョウ様がおり…。」
「人質としてリョウの命が危険か。」
別れて何年も経つというのに息子の命はやはり心配か。軽い嫉妬を覚えながらデモフォルトは続ける。
「今やリョウ様は人質というよりは北領の幹部といってもいい立場です。むしろ、リョウ様自らが娘を護衛するのではないかと。リョウ様は今やかなりの腕前ですし直接対決は面倒なことです。」
「ウサンは使えないが、さらってきた水霊を使えば奴らも警戒しないのではないか。こちらで捕えている水霊も、北領に帰してやる、と言えば力を貸す者もいるだろう。」
悪くない、と考えながら、デモフォルトはキリエが昨夜ホスタから手紙を受け取っていたことを知らなかった。
キリエの心は苦悶と憤懣で引き裂かれそうになっていたが、それとは裏腹に、その表情は風の無い湖の面ように静かであり、その言葉は凍りついた北の海のように冷ややかであった。激しやすい火の王にしては異様なその静けさをデモフォルトは不気味に感じる。ただ、それだけで、その胸中に何があるのか知る由も無かった。
イカルガは結界を超えた南領の砂漠で一人亡き王の娘を待っている。
つい先日、ここでホスタの軍と火霊軍が相まみえてホスタ王が刺殺された。洞窟の水霊たちのほとんどが結界へ逃れたが自分は足に傷を負って捕えられた。あまりに大きな変化のせいか、ずいぶん長い月日が経った気がする。
デモフォルトという恐ろしげな黒髪の男に、ここでミヅキを待つように命じられた。ミヅキをうまく捕らえられれば北領へ帰してもらえるという。
乱暴なことをしなくてはならないかもしれない、と考えるだけで手と足が震えてくる。背中に姿を隠している火霊たちの気配を感じながら、来ないでほしい、という気持ち。
しかし、その気持ちを踏みにじるかのように、結界の中に少女の影が見えた。
「姫様ですか?」
「そなたがイカルガですか。」
「ホスタ様の遺言をぜひご確認いただきたいと。」
「リョウやユリウスではわからないものと聞きましたが。」
「はい、王様の血を引く姫様にしかご覧いただけないものということで密に預かりました。さらに、王様の倒れた地もご覧いただきたいと考えまして。」
影が結界を超えてくる。しかし、その顔の造作がはっきりとわかった時、驚きのあまり、イカルガは息を呑んだ。
「父さん、ミヅキ様は来ないよ。」
娘のルノだった。
「どうしてお前が…。」
リョウは悲しみ以上に怒りを感じていた。パメラを失った時とは違う、憤怒、憎悪、悔恨といった、より攻撃的な感情が湧きあがってくる。
そういった激しい感情がまだ落ち着かない間に一枚のメモがリョウの部屋の窓に差し挟まれた。それはミヅキ宛のメモで、ホスタの遺言を南領の国境にて預かっていること、一人で結界を超えてホスタが亡くなった地まで来てほしい、という内容が書いてあった。ユリウスに手渡すと、ユリウスは、大変な事態だ、と呟きながら、そのままラネールのいる広間へと急いだ。リョウも後に続く。
「キリエ王はミヅキ様を捕えようとしています。今回は我々が先んじたからよろしいが今後どのような手を打ってくるかわかりません。ミヅキ様を守る手段を考えましょう。」
ミヅキだって子供じゃないんだからこんなメモに騙されはしないだろう、とリョウは可笑しく思っていたが、確かにこれからどんな手段で出て来るか想像がつかないだけに恐ろしくもある。
「俺がミヅキの隣で寝よっかな。」
と景気付けに冗談を言ってみたが、場が和むどころかユリウスとラネールに睨みつけられてしまった。
「今、結界が破られれば北領は終わりです。ラネール様とミヅキ様の命も危ない。」
動揺を隠せないユリウスにラネールも心配そうに同意する。
「結界はミヅキ以外には解けません。当面は大丈夫でしょうがミヅキの身が危ないかもしれませんね。」
女王の瞼は腫れている。王が亡くなっても悲しんでいる暇はない。眠っていないのだろう。最愛の夫を亡くしても国のことを考える女王の姿を見て、強いな、とリョウは思った。励ますための一言が出る。
「真面目な話、俺とユリウスがいれば大丈夫だと思うけれど。」
控えめに言ったつもりだったが、ユリウスとラネールが、あなたはキリエの息子だから、と、異口同音に厳しく言い、その先は口を噤む。息子だから何だと言うのだ?しかし、その先を訊ける雰囲気ではない。
ラネールがリョウから目を背けてユリウスの目を見ながら話す。
「実は前々から思っていたことなのだけれどミヅキの御霊を地球に下ろそうかと思っています。以前は、ちょっとした勉強のためにと思っていたのですが、こういう事態になった今、ミヅキを隠すためにちょうど良いのではないかと思うのです。」
地球は距離的にも時間的にも遥か彼方にある異次元の星だ。公転速度、自転速度ともに速く、人間の寿命も短い。ミヅキが地球で人間の一生を終えても、ラナ星の数年といったところだろう。
リョウはその案に諸手を上げて賛成できなかったが女王の決意は固いようだった。ラネールは祈るように言った。
「ミヅキが地球にいる間に、キリエ王と和解の交渉を続けていきましょう。時間が解決するやもしれません。」
問題の先延ばしじゃねえか、とリョウは不満だったが、自分がキリエの息子だからなのか、あるいは単純に子供だからなのか、二人の会話に入ることは難しく、王様がいてくれたらなあ、と唇を噛むばかりだった。
不安や悲しみのために地球への移行に差し障りがあってはいけないということで、ミヅキが眠っている間に事は為された。地球に行けばこの星の記憶は一時的に失われてしまう。
ラネールがミヅキの額の上に掌をかざすと、ミヅキの身体は少しずつ透き通っていき、やがて透明な光になって空気に吸収されるように消えて行った。あの光が窮屈な地球の肉体に閉じ込められるのかと思うと、リョウは可哀相で仕方がない。
ここでも何も出来ない自分に歯噛みしながら、リョウは地球というまだ見ぬ星に思いを馳せた。ホスタの死、ミヅキの旅立ち、リョウにとってそれらの大きな変事はいずれも驚くほど呆気なく急な出来事であった。
ホスタが亡くなって月日は流れ、ますます水霊は恐れて結界を超えず、火霊は南領に閉じ込められ、いつの日か、北領は水領、南領は火領と呼ばれるようになっていった。