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おかえりなさい  作者:
■ ACT I: THE OUTCASTS' GATHERING

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第4話:働かない人

 冷え込みを増した秋の陽光は、いつもよりずっと早い速度で世界の境界線を焼き落とし、燃えるような濃い橙色の夕暮れを瞬く間に灰色へと塗り替えていった。小料理屋『赤べこ』の軒先には、港湾地区特有の容赦ない寒風が吹き付け、路地裏のアスファルトの上に落ちた数枚の枯れ葉を、カサカサと乾いた音を立てて冷酷に巻き上げている。

 店のテラスの片隅、すでに葉が黄色く枯れ落ちかけた、小さな竹の盆栽の鉢植えのすぐ隣に、その男はいた。まるで背景の闇に溶け込むかのように、身体を小さく丸めて蹲っている。

 男の身に纏うグレーの外套は、泥と油に塗れて元の色が分からないほどにくたびれており、その痩せ細った体躯に対して明らかに不自然なほど大きかった。爪先が大きく裂けた布製の靴は、靴底が完全に剥がれ落ちるのを防ぐために、何重にも黒い粘着テープが巻かれている。男は『赤べこ』の古い木壁に骨張った背中を預け、半開きの目で、じっと自分の膝頭を見つめていた。厨房の床下換気口から微かに漏れ出てくる、仕込みのコンロの熱気と出汁の残滓――そのわずかな温もりを、凍える体躯の隅々まで染み込ませようとするかのように、浅い呼吸を繰り返している。

 男の名は天野。三十二歳。この東口の吹き溜まりに流れ着いてから、すでに数ヶ月の刻が流れていた。見ず知らずの通行人が投げてよこす、憐れみという名の小銭や、路地裏の商店の裏口に廃棄された生ゴミの残りを漁ることで、かろうじてその生物学的な生命を維持しているだけの存在だった。


――ガラガラッ。


 『赤べこ』の木製の引き戸が横に滑り、乾いた音が響いた。中から出てきた店主の凛の手には、使い古されたプラスチックのバケツと、硬い毛の植えられた木製のデッキブラシが握られていた。しかし、彼女の確実な足取りは、店の入り口を物理的に半分近く塞いでいる天野の薄汚いシルエットを捉えた瞬間、ピタリと停止した。

 凛は背筋を伸ばしたまま立ち尽くし、その冷徹な双眸で足元の男を見下ろした。その瞳には、路地裏の住人に対する嫌悪感も、あるいは安っぽい同情や憐れみの情も、何一つとして浮かんでいない。ただ、厳然たる事実を観測したデータとして、平坦な声を放つ。

「通行の妨げになっています。どいてください。うちはこれから、テラスの清掃業務を開始します」

 天野は、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。片方の眼球だけで凛の顔を見上げると、まるで高級ホテルの高級なソファにでも横たわっているかのような、ひどく場違いでのんびりとした、怠惰な笑みを浮かべた。

「おやおや……これは失礼、小さな店の可愛い店主さん。外の風がどうにも冷たくてね、この街の中でここだけが、まともに体温を保てる唯一の場所なんだ。邪魔はしないよ。ほんの少しの間だけ、ここで眠らせておくれ」

 凛はその場から一歩も動かなかった。手にしたバケツを、コン、と硬い音を立ててコンクリートの床へと設置する。

「睡眠欲を満たしたいのであれば、公園か地下鉄の駅へ移動してください。ここは商業的な飲食を提供する店舗の敷地内です」

 その言葉が終わるのとほぼ同時に、天野の外套の奥から、衣服を引き裂くような凄まじい腹の虫の音が響き渡った。それは飢餓の極限にある肉体が放つ、あまりにも正直で悲痛な絶叫だった。天野は恥じる風でもなく、自らの垢塗れた項を気まずそうにさすりながら、力なく笑った。

「あはは、どうやら僕の胃袋は、僕の意志とは無関係に稼働しているらしい。ねえ、店主さん……もしよかったら、鍋の底に残った出汁の残りかすでも、ほんの少しだけ恵んでくれないか。何でもいいんだ。今夜の僕の腹を、ほんの少し暖めるだけのものでいい。一昨日から、まともなカロリーを摂取していなくてね」

 引き戸の隙間から、清潔な晒の雑巾を手にしたアンナが顔を覗かせた。彼女は天野の姿を認めると、深く忌々しそうに鼻を鳴らし、作務衣の胸元で腕を組んだ。

「凛ちゃん、そんなのさっさと追い出しちゃいなさいよ。こういう手合いはね、ただの怠け者なのよ。店の前にこんな薄汚い生ゴミが転がっていたら、入ろうとするお客さんまで足が遠のいちゃうわ。うちの店はただでさえ経営難なんだから、こんな余計な不良資産を抱え込む余裕なんてないの」

 天野はただ、諦めを孕んだ溜め息を小さく吐き出し、再びゆっくりと目を閉じた。路地裏の生活の中で、幾度となく浴びせられてきた罵詈雑言。彼の神経はすでに、他人の悪意に対して完全に麻痺していた。

「……帰る場所のない人間には、この世界の空気は少しばかり密度が高すぎるようだね」

 天野の呟きは羽毛のように軽く、そこに悲壮感すら存在しなかった。

 凛は、その天野の横顔をじっと凝視していた。彼女の脳内にある、冷徹で無機質な論理回路が高速で回転を始める。彼女は眼前の男を、衣服の汚れや社会的地位といった感情的なフィルターで判断してはいない。ただ一点、自らの意志で生存のための努力を放棄しているという「不経済性」のみを測定していた。凛にとって、無償の施しとは美徳などではない。それは人間の生存本能と、労働によって得られる自己の価値を根底から剥奪する、最も悪質な搾取でしかなかった。

「うちは、あなたが何日間食事をしていないかという事実には、一切の関心を持ち得ません」

 凛の声は、秋の夜風よりもさらに冷たく、そして鋭く響いた。

「赤べこの中において、その規則は絶対です。うちは無償で食糧を分配する慈善事業団体ではありません。あなたが飢えを満たしたいと欲するのであれば、それ相応の経済的対価を支払うべきです」

「あいにくだけれど、僕のポケットの中には、国が発行した法定通貨なんて一銭も入っていないんだ」

 天野は自嘲気味な笑みを崩さないまま、凛の言葉を受け流そうとする。

「だから、今夜も夕食をパスするという選択肢しか残されていないようだ」

「お金がないのであれば、あなたの持つ肉体的労働力を売却してください」

 凛の言葉は電光石火の速さで天野の言い訳を遮った。彼女の指先が、足元の木製ブラシとバケツの水を正確に指し示す。

「うちは物乞いは受け入れません。ですが、労働者は歓迎します。もしあなたが、そのブラシを使ってこのテラスのコンクリートを隅々まで磨き上げ、汚れを完全に除去する清掃原価を支払うというのであれば、うちは店内の正規の顧客と全く同一の熱量を持った、特製の温かい鍋料理をあなたに提供します」

 天野は完全に虚を突かれた。閉じていた両眼を大きく見開き、足元に転がされた木製のブラシを見つめ、それから、自分を冷たく見下ろす凛の顔を見上げた。その瞳には、蔑みも、嘲りも、あるいは特権階級が弱者に向ける歪んだ優越感も、何一つとして存在しなかった。通常、街の人間は彼を竹箒で殴りつけるか、あるいは汚物を見るような目で小銭を投げつけて去る。しかし、この二十六歳の少女が提示したのは、彼が路上で失い続けてきた最も根源的なもの――「自らの選択によって、対価を得る人間としての権利」だった。

 冷え切ったテラスの空気に、重厚なロジックの緊張感が満ちていく。アンナは戸口の後ろから、驚きを隠せない様子で眉をひそめ、この怠惰を極めたホームレスがどのような行動を起こすのかを注視していた。

 天野は、寒さと飢餓によって激しく震える自らの両手を見つめた。数秒の間、彼の肉体に深く根付いた生存に対する諦念と、内臓を焼き焦がすような飢えが、脳内で激しく衝突を繰り返していた。しかし、最終的に彼の心を動かしたのは、逃げ続け、乞い続けることに対する、底知れない「疲弊」だったのかもしれない。

 天野はゆっくりと膝の力を抜き、蹲っていた姿勢から、コンクリートの上に正座をする形へと身体を移行させた。しかし、長日月の飢餓によって衰弱した肉体は、自重を支えて立ち上がることすら拒絶していた。

「……掃き掃除に、床磨き、か。それは今の僕には、少々過剰なエネルギー投資を要求される仕事だね、店主さん」

 天野の唇から、いつもの軽薄な笑みが完全に消え失せていた。そこに残されたのは、剥き出しの絶望と、自らの限界に対する呪詛だった。

「今の僕には……そのブラシの柄を握り締めるだけの、わずかな力すら残されていないんだ」

 凛は足元のブラシを見つめた。彼女の経営哲学に変更はない。しかし、彼女の「合理性」は、死にかけた資産に労働を強いることが不可能であるという物理的な現実を瞬時に理解していた。初期投資がなければ、リターンを得るための稼働すら発生しない。

 凛は何も言わずに背を向けると、引き戸を開け放ったまま、店の中へと足早に戻っていった。

「凛ちゃん? 一体何をするつもりなの?」

 アンナが困惑の声を上げ、彼女の背中を追いかける。

 天野はただ、重い頭をコンクリートに向けて垂れ下がらせた。今夜の、そして人生の最後の機会を完全に失ったのだと、彼は確信していた。しかし、一分にも満たない時間の後、再び『赤べこ』の古い床板がギィ、と軋む音が聞こえてきた。

 凛が戻ってきたのだ。彼女の手には、湯気を立てる厚手の磁器の湯呑みが握られていた。

 彼女は天野の前に屈むこともなく、その湯呑みを、天野の震える指先のわずか数センチメートル手前へと静かに置いた。


――トツン。


「その白湯を飲みなさい」

 凛の命令は平坦で、しかし逆らうことを許さない響きを持っていた。彼女の視線は路地裏の暗がりに注がれ、天野の顔を見ることはない。

「これはただの水です。栄養価はゼロであり、うちの帳簿における減価償却の対象にもなりません。したがって、あなたに対価を請求する根拠は存在しません。今夜は、その角で体温を維持することだけを考えなさい。――明日、太陽が昇ると同時に、うちは再びこのブラシを持ってここへ来ます。もし開店までにこのテラスが磨き上げられていなければ、うちはあなたを容赦なくこの路地裏のドブへと叩き込みます」

 凛は一気に言葉を紡ぎ終えると、まだ一度も使っていない水の入ったバケツを乱暴に掴み上げ、アンナを促して店の中へと戻っていった。


――ガラガラッ、バタンッ!!!


 引き戸が完全に閉ざされ、テラスには天野一人だけが残された。夜の帳が完全に降り、路地裏を濃い闇が支配していく。三十二歳の男は、自らの目の前で静かに白い湯気を立ち上らせている、一杯の白湯を見つめていた。

 ゆっくりと、垢で汚れた指先が磁器の表面に触れる。手のひらを通じて、凍りついていた皮膚の奥へと、確かな熱量が流れ込んでいく。それは彼の凍てついた胸の奥深く、とうの昔に死に絶えていたはずの場所にまで達した。

 天野は湯呑みを両手で抱え、ゆっくりと、一口ずつその温かい液体を喉へと流し込んだ。白湯が空っぽの胃壁を温めていくのを、彼は細胞の一つ一つで感知していた。

 飲み終えた彼の視線が、竹の盆栽の脇に静かに残された、木製のブラシへと向けられる。

 運命という名の街の潮流に身を任せ、生きることを放棄してから数年。天野は初めて、労働のための道具を「厄介な義務」としてではなく、明日、再び一人の『人間』として目覚めるための、唯一の切符として見つめていた。


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