第17話:祭り
その夜、凛がこの場所を引き継いで以来初めて、小料理屋『赤べこ』の大ぶりの銅鍋の下にあるコンロの火は、完全に遮断されたまま沈黙していた。木製の古い引き戸は内側から確実に施錠され、古い赤暖簾の正面には、厳格な文字の書かれた小さな木札が掲げられていた。
【本日休業】
路地裏の外側では、吹き溜まりの下町が年に一度の夏祭りの最高潮を迎えていた。漆黒の夜空は、幹線道路に沿って等間隔に吊り下げられた無数の提灯の、赤橙色の鈍い光によって妖しく染め上げられている。空気の中には林檎飴の濃厚な甘みや、炭火で焼かれる焼き鳥の芳醇な煙が充満し、伝統的な太鼓の律動的な重低音が地表を烈しく震わせていた。浴衣に身を包んだ大衆の、波のような笑い声が路地裏の奥にまで木霊している。
『赤べこ』の全構成員は、その夥しい人間の濁流の中を、一つの集団となって静かに歩んでいた。
「わあ! 見て見なよ! あっちに射的の露店があるもん!」
いつきが細い脚を小さく弾ませ、興奮した声音を張り上げた。今夜の彼女は、色褪せた緑色の大きすぎる外套を脱ぎ捨て、だぶだぶとした藍色の木綿の甚平に身を包んでいる。その丸い瞳は、祭りの灯火を鏡のように反射して鮮やかに輝いていた。
「あんま遠くまで稼働するんじゃないわよ、ガキ。もしこの人混みの中で迷子にでもなったら、うちらはあんたの捜索手続きに一銭の時間原価も投入しないからね」
アンナの声は刺々しかったが、その言葉の鋭さとは裏腹に、今夜の彼女の立ち姿は息を呑むほどに洗練されていた。濃色の菊花が染め抜かれた浴衣を端正に着こなし、その美しい髪は上方に几帳面に結い上げられている。厨房の熱気による疲弊など微塵も感じさせない、夜の街の蝶としての往年の気品が、その白い首筋に漂っていた。
その隣を歩く天野は、洗濯の行き届いた薄手のシャツを身に纏っていた。水風船を抱えて疾走する子供たちの姿を眺める彼の顔には、いつもの怠惰な、しかし芯のある穏やかな笑みが浮かんでいる。
「おやおや、アンナさん。今夜くらいは彼女の運動エネルギーを自由に消費させてあげなさい。市場の警察に追われる恐怖から解放されて迎える、人生で最初の夏祭りなんだからね」
いつきはフンと鼻にかかった聲音で吠えついたが、天野の言葉にそれ以上の反論を試みることはしなかった。彼女は射的の露店の前へと電光石火の速さで肉薄すると、使い古されたコルク銃をこれ以上ない自信を込めて握り締めた。
「見てなよ! あたしが最高の命中率で、あの最上段にある大きな熊の人形を等価交換で勝ち取って見せるもん!」
――プスン。
放たれたコルク弾は物理的な軌道を大きく逸れ、露店の奥の空虚な壁へと無惨に衝突した。店主である壮年の男が下劣な嘲笑の音声を排泄し、いつきは屈辱のあまり耳の先端まで真っ赤に染めて口を尖らせた。
「クソがっ! この銃、絶対に照準のデータが意図的に歪められてるもん!」
人混みの後方から、タコが静かに前進してきた。二メートルを超えるその巨躯は、一切の模様を排した漆黒の浴衣に包まれ、その圧倒的な裏社会の威圧感により、周囲の大衆は本能的な恐怖から海のように物理的な退路を開いていく。タコは無言のまま、カウンターの上に百円硬貨を一枚設置すると、その傷だらけの強靭な右手でコルク銃を回収した。そして、片方の眼球を鋭く細めて、最上段の標的をロックする。
―――バシッッ!!!
一瞬の駆動。引きがねが引かれた瞬間、最上段に置かれていた巨大な熊の人形が自重を支えきれずに、コンと床の上へと落下した。露店の店主は蒼白になった顔線で生唾を飲み込み、震える手でその戦利品をタコへと引き渡した。
タコはその人形を片手で掴み上げると、それを前方のいつきの頭の上へと、無造作にドスンと落下させた。いつきはその質量に耐えかねて危うく均衡を崩しかける。
「持っていけ、カラス。他人の店の前で無駄な音声を排泄するんじゃねえ」
タコは低く地鳴りのような声音で言い捨てると、両手を浴衣の懐へと滑り込ませ、再び大股で歩き始めた。いつきはその巨大な人形を細い両腕で固く抱き締め、怒りと歓喜の混濁した感情に身体を震わせていた。アンナはその様子を見て、喉から美しい笑い声を漏らした。
凛は、その集団の最後尾を一定の速度で歩いていた。彼女が身に纏っているのは、亡き養母の遺品である、裾の擦り切れた極めて簡素な藍染めの浴衣だった。その右手には丸い団扇が握られ、衣服の内側に滞留する夏の熱量を均一な律動で逃がしている。その顔線は相変わらずセメントの壁のように静止しており、過剰な感傷の表情を浮かべることは絶対にない。しかし、その澄んだ瞳は、前方を歩く四人の背中を、防衛の網膜で静かに監視し続けていた。
凛の論理回路は、今夜の不稼働による明確な統計データを弾き出していた。店舗を一日完全に閉鎖するという意思決定は、帳簿の上において、約三万円の潜在的売上高を喪失したことを意味する。小規模な経営体にとっては、重大な機会損失を意味する赤字の数値だった。
しかし、アンナが天野に向かって、たこ焼きの調合比率について烈しい議論を投資している姿を見つめ、いつきがタコの放つ巨大な影の隣で、大きな人形を抱えて誇らしげに歩を進めている横顔を観測したとき、凛の経済的感覚は、真鍮の上皿天秤では決して測定することのできない、ある「資産の蓄積」がこの場所で行われている事実を冷徹に肯定していた。
―――ドォンッ!!!
突如として、上空の気圧を粉砕する凄まじい破裂音が、下町の夜空に鳴り響いた。
五人は同時にその足取りを停止させ、漆黒の天頂へと一斉に首を跳ね上げた。
最初の一発の大輪の花火が激しく炸裂し、赤、緑、そして黄金色の巨大な光の円盤を夜空に拡張していく。その強烈な光量は、地表に直立する五人の顔線を数秒間だけ鮮やかに照らし出し、やがて静かに薄い煙へと融解していった。
「わあ……巨大だもん……」
いつきは声を極限まで小さくさせ、その丸い瞳の奥に、嘘のない本物の驚愕と美しさの色彩を完全に同期させていた。
アンナは形の良い唇の端に微かな笑みを浮かべ、浴衣の胸元の合わせ目を静かに整えながら天井の闇を見つめた。
「……これが終わると、この街の過酷な夏も、急速に減価償却されていくわね」
彼らは、周囲の騒音の渦中に立ち尽くしたまま、頭上で崩壊していく光の残滓を静かに享受していた。彼らの間で、「あなたたちと一緒にこの座標にいられて嬉しい」とか「うちらはもう一つの結合体だ」などという、記号化されたメロドラマの言葉が交わされることはなかった。登場人物たちの精神的な自律性は、その沈黙の共有によって、最高強度の純度を維持していた。
凛はゆっくりと団扇を降ろし、地表へと緩やかに落下して消え去る火の粉を見つめていた。




