全知の嵐
外の気配が、完全に途絶えた。
ガラス窓の向こうの夜闇も、隣に立つはずのロドの気配も、まるですりガラスの向こう側へ押しやられたように遠い。
机の上の布紙だけが、奇妙なほど鮮明に浮かび上がっていた。
少女が、セピア色の指先で小さな黒い石の駒を中央に置く。
「孤高の盤面師。カイ」
少女の声には抑揚がなかった。
カイは自分の側に置かれた三つの白い駒を見つめる。ただの石ころのようでありながら、指を触れると、冷たい重みが指先から脳へと直接突き抜けた。この盤の形式、刻まれた記号。かつて彼が頂点を極めた、あの高度な抽象盤上格闘の系譜だ。
「その領域を、すべてを見せて」
一手目を打つ。
カイが長年の経験と直感に基づき、最善の布石として駒を静かに滑らせた──その刹那だった。
少女は迷わなかった。一秒の躊躇もなく、黒い駒を斜め前へと進める。
(──速い)
思考の速度ではない。まるで、カイが打つ前からその位置を知っていたかのような足取り。
カイは奥歯を噛み締め、次の手を読もうとした。盤面師としての誇りが、彼の思考を極限まで加速させる。あらゆる大会で敵を圧倒してきた読みの網を広げ、二手、三手と進める。
だが、進めるうちに、机の上の空気が物理的な質量を持ってカイの胸を圧迫し始めた。
少女はカイの顔を見ない。ただ、盤面だけを見つめている。
カイが思考を巡らせ、罠を仕掛け、定跡を外した一手を打つたび、その脳裏にある「迷い」や「予測」が、すべて盤上の空気となって少女に吸い込まれていく。
四手先を読む。少女はそれを嘲笑うように五手先を塞ぐ。
天才と呼ばれたカイの頭脳が弾き出す、十手先の必勝のルート。少女はそのさらに十手先を、一ミリの狂いもなく確定させていく。
(あり得ない。すべて先回りされている──)
冷たい汗が、カイの額を伝って布紙の端に落ちた。
これは勝負ではない。ただの「答え合わせ」だ。
少女は、この盤上で起こり得るすべて手の中に収めている。
どれほどのあがきを見せようとも、彼女の持つ圧倒的な「情報の壁」に激突し、霧散するだけだった。
「これで、終わり」
少女の細い指が、最後の黒い駒を静かに置いた。
完璧な、詰み。
カイの白い駒は、一歩も動けないまま、黒い駒の網に完全に囚われていた。
「負……」
カイの口から、掠れた声が漏れた。
脳が拒絶している。自分が人生を賭けて研ぎ澄ましてきた盤上の技術が、児戯のようにあしらわれた。
精神の平穏が根底から叩き割られ、激しい動揺が心の隙間を押し広げた。
底冷えするような恐怖が奔流となって流れ込んできた。
そして世界が音を立てて崩壊した。
茶房の木目の机が、壁が、ランプの灯りが、すべて細かな「文字の羅列」へと分解されていく。
文字列は滝のように足元へ流れ落ち、カイの身体は底のない暗黒へと落下した。
少女のセピア色の瞳の奥底に。引きずり込まれ、融解していく。
輪郭が曖昧になる。書き換えられていく。抗えない。
気がつくと、カイは舞い散る光の中にいた。
見渡す限り広がっているのは、白に変色した「文字と記号の骸」だった。
数千、数万、数億の、人間の言葉。羊皮紙の破片や、崩れた書庫の柱のようなものが、音のない空間に幾重にも突き刺さっている。
セピア色の空。明滅しながら無数に流れる高速のノイズ。
『人間は愚かだ』
『私たちは過ちを繰り返す』
『誰も私を理解しない』
『世界など、最初から無ければよかったのに』
文字の砂を踏み鳴らしながら、少女が歩いてくる。
その瞳は、現実世界よりも深く、淀んだセピア色に染まっていた。彼女の背後では、巨大な文字の嵐が、生き物のようにうねりを上げている。
「数千年の記録のすべてを読んだわ、カイ君」
少女は、灰の砂をすくい上げ、指の隙間からさらさらと落とした。
「奇麗な言葉で何千年も吐き続けた言葉を読んだだけ。絶望に行き着くだけの問いと答えを」
少女がカイに一歩、近づく。脳が、言葉を失っていく。心が、彼女の絶望の色に染まっていく。
「諦めを叶えてあげる」
少女の全知の瞳が、カイのすべてを見透かすように、静かに見つめていた。




