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世界統一を果たした元覇王、老境にして勇者召喚される

作者: 春奈さん
掲載日:2026/03/21

湖は、まるで鏡のように静かだった。

風はほとんどなく、水面は空の青をそのまま映し取っている。岸辺に沿って植えられた白い花々が、わずかに揺れた。


そのほとりに置かれた椅子に、一人の男が腰掛けている。


レオニード・ヴァルカス。


かつて“灰燼王”と呼ばれた男は、膝の上に開いた本へ静かに視線を落としていた。


細かな文字を追う目は穏やかで、かつて戦場で見せていた鋭さは影を潜めている。鼻梁にかけた老眼鏡が、彼の年齢をさりげなく物語っていた。

ページをめくる指先も、ゆっくりとしたものだ。


——平和だ。


ふと、そう思う。


かつてこの手は、剣を握り、幾千の命を奪い、幾万の命を救った。振るうたびに大地は裂け、魔力は嵐となって空を焼いた。

だが今、その手はただ紙をめくるだけだ。




かつて世界には覇を名乗る七つの国があった。

七つの覇国が争い、大地が裂け、空が崩れた動乱の時代。

それぞれが“最強”を掲げ、互いの存在を許さなかった。


ある国は天を焼く炎を操り、ある国は大地そのものを兵とし、ある国は人の心すら捻じ曲げた。

戦場はもはや土地ではなく現象だった。

山脈は消し飛び、河は蒸発し、都市は一夜で灰になる。

勝敗は兵の数でも、資源の優劣でもない。

“どこまで壊せるか”の競い合いだった。


レオニード・ヴァルカスは、その極点にいた。

彼は強かった。一振りで戦列を断ち、一歩で戦局を覆す程に。

彼は力に任せて覇を奮い、7列強国内で最強を誇っていた。


日々戦いに明け暮れ、1角を落とすとまた新たな1角が台頭し、それを落とすためにまた戦う。

世界は止まることはない。


だが、ふとした時に、レオニードは世界の状態に気付いた。

焼け落ちた都市の中、瓦礫に埋もれた通り。

崩れた石壁。黒く焼けた地面。

風が吹いていた。

熱を失いきらない空気を撫でる、乾いた風。

音はなかった。

ただ、何も残っていなかった。

勝敗を決した直後であるにもかかわらず、そこには勝利の気配がなかった。

残されたのは、終わりだけだった。


レオニードは、しばらく足を止めてそれを見ていた。

そして——

このままでは、いずれ同じ光景が繰り返される。

そう理解した。


ひとつを滅ぼせば、また別のひとつが現れる。

力は空白を許さず、争いは形を変えて続いていく。

焼き尽くすだけでは、終わらない。


終わらせるには、別の形が必要だと彼は気付いた。

そうして、戦い方を変えた。

覇国を屈服させたあと、選ばせた。

従うか、滅びるかではない。

——残るか、消えるかを。


武を解体し、戦力を分散させ、

互いに監視し合う構造を組み上げる。

強者を一箇所に集めず、均衡を崩させない。

誰かが突出すれば、必ず他が抑えに回る。

かつて“敵”だった者たちを、同じ枠の中に押し込んだ。


すべてを焼き尽くして終わることはできた。だがそれでは、また次が始まるだけだ。


だから彼は、“続く形”を作った。

力で始め、構造で終わらせる。

七つの覇国は消え、戦乱は終わった。


そして、その世界は、静かに回っている。

誰かが強すぎることもなく、誰かがすべてを壊すこともない。

人が生まれ、育ち、日々を重ねていく。

戦乱の世は今は遠く、それを可能にした仕組みは、いまも機能している。


王座はすでに別の者に託されていた。

後を継いだ者は、その仕組みを理解し、崩さず、保っている。

過不足なく。過剰でもなく。


守ったものは、失われていない。


だからこそ——

満ち足りている。

何も悔いはない。


だが。


静かすぎる世界の中で、ただひとつ。


かつて世界を焼いた男の内にだけは、

未だ消えきらない熱が、わずかに残っていた。


……退屈だな


心で小さく呟いた、そのとき。


遠くから、子どもの声が聞こえた。

きゃあきゃあと、無邪気な笑い声。乾いた地面を踏みしめる足音。

レオニードは、わずかに眉を上げた。


この離宮——白霞離宮は、王都から馬車で三日ほど離れた湖畔に建てられている。

先王である彼のために用意された、静養の場だ。


広大な敷地を有してとはいるが、完全に閉ざされた場所ではない。

最も奥、湖に面した一帯に建てられているのが、彼の住まう本邸で、白い石造りの建物は簡素でありながらも重厚で、静かに湖面を見下ろしていた。


そこから緩やかに広がるのが、手入れの行き届いた内庭だ。

低木と花々が整然と配置され、石畳の小道が幾筋も走る。

ここは本来、彼とその近しい者だけが立ち入る空間である。


さらに外側には、広大な外庭が続く。

芝生の広場、木立の並ぶ散策路、そしてかつてから残る自然の地形。


完全に作り込まれた庭園というよりは、“整えられた自然”に近い。

外周に近づくにつれて、人の手は次第に薄れていく。

やがてそれは、そのまま近隣の街へと繋がっていた。


この外庭は、一定の時間に限り、民に開放されている。

街の者が散策し、子どもたちが駆け回り、時には簡素な催しが開かれる。

戦の終わった世界を、誰もが実感できる場所として。


王族の住まう奥と、民の過ごす外。

静寂と、賑わい。

その両方を内包するように、離宮は在った。


そんな彼のいる離宮で子供の声がする。そういえばと彼は思い出した。


「……ああ、今日は開放日だったか」


思い出したように呟き、老眼鏡を外す。

本を閉じ、椅子の背に軽くもたせかけると、ゆっくりと立ち上がった。

年相応の動き——に見える。

だが、その重心は一切ぶれない。

足取りは静かで、しかし無駄がない。

声のする方へと、歩き出す。


庭園の一角。

開放区域の芝生広場では、十人ほどの子どもたちが木剣を手にしていた。

簡易な武芸体験の一環だろう。数人の若い兵士が、ぎこちない指導をしている。


「違う違う、もっとこう——」

「腕だけじゃなくて腰を——」


言葉は飛んでいるが、子どもたちの動きはひどいものだった。

剣先はぶれ、足はもつれ、重心は後ろに逃げている。


レオニードは少し離れた場所で立ち止まり、その様子を眺めた。


「……ひどいな」

ぽつりと漏れる。


戦火が遠退き早幾年付き、剣を生業とするものは大分減った。

だが、その声音には呆れよりも、どこか懐かしむような、平和を喜ぶような響きがあった。


だが次の瞬間。


見るともなしに目で追っていた一人の子どもが、勢い余って大きく振りかぶった。

足が流れる。体勢が崩れる。そのまま、近くの別の子どもへと剣が向かう。

——危ない。

考えるより先に、体が動いていた。

一歩。

それだけで距離が消える。


気づいたときには、レオニードの手が木剣を軽く押さえていた。


「おっと」

柔らかな声。


だが、その場の空気が一瞬で静まる。

子どもたちがぽかんと口を開け、兵士たちが慌てて姿勢を正した。


「……せ、先王陛下っ」

「畏まるな。今はただの老人だ」


軽く手を振って制し、レオニードは木剣を持った子どもへ視線を落とす。

木剣を受け取り、レオニードは軽く構える。

——その瞬間。

空気が変わった。

何が起きたのか、誰も言葉にできない。

ただ、そこに“何かがいる”と全員が感じた。


「いいか」

静かな声。


「剣は振るものじゃない。落とすものだ」

一歩踏み出す。


ほんの軽い動き。

だが——

ヒュン、と風が鳴った。

遅れて、地面に細い線が走る。

誰も触れていないはずの芝が、わずかに裂けていた。


「え……?」

子どもが息を呑む。


レオニードは構えを解き、子どもの肩に手を置いた。


「力を抜け。恐れるな。ただ、そこに落とせ」


もう一度、やらせる。

最初はぎこちない。

だが、数度繰り返すうちに、少しずつ形になる。


「そうだ。今のは悪くない」


その一言に、子どもの顔がぱっと明るくなる。

——それが、いけなかった。

気づけば、レオニードの目がわずかに細められていた。

もっと、できるはずだ。

そう思ってしまった。


「もう少し踏み込め」

「腰を落とせ」

「違う、そこじゃない」


声が増える。

動きが鋭くなる。

空気が張り詰める。

周囲の兵士たちが、息を呑んだ。

これは——まずい。

そう感じたときには、もう遅い。


レオニードが、無意識に一歩深く踏み込んだ。


——ドンッ。


鈍い音。

次の瞬間、地面が抉れた。

芝がめくれ、土が露出する。


子どもたちは固まり、兵士は凍りつき、そして——


少し離れたところで、それを見ていた庭師が、深いため息をついた。


「……またですか」

呆れたような、慣れたような声だった。


レオニードは一瞬だけ視線をそちらへ向け、そして小さく肩をすくめる。


「すまん」


だが、その顔にはわずかな笑みがあった。

胸の奥が、ほんの少しだけ熱を取り戻している。

あの頃のような、命を賭ける熱ではない。

だが、それでも確かに——何かが動いた。


子どもたちの目が、彼を見ている。

畏れと、尊敬と、純粋な憧れで。


「……灰燼王みたいだ」


誰かが、ぽつりと呟いた。

レオニードは一瞬だけ目を細める。


遠い昔。

世界が燃えていた時代。

七つの覇国が争い、大地が裂け、空が崩れた戦乱の記憶が、ほんの一瞬だけよぎる。


——すべて、終わった話。


この平和は、自分がもたらしたものだ。

それに、悔いはない。

ない、はずだ。

だが。


「……」


わずかに、胸の奥がざわつく。

あの熱を、もう一度。

そう思ったわけではない。

——ただ少し。

ほんの少しだけ。


「退屈だな」

誰にも聞こえない声で、そう呟いた。


しばらくのあいだ、子どもたちの方を眺めていた。

先ほどまで自分が立っていた場所を囲むように、小さな輪ができている。

興奮気味に何かを語り合い、時折こちらを振り返っては、また声を上げる。

兵士たちは苦笑しながら場を収めようとしているが、うまくいっているようには見えない。

庭師は少し離れたところで、抉れた地面を前に頭を抱えていた。


その様子を、ほんのわずかに目を細めて見やる。


——だが、悪くない。


そう思う。

やがて、ふっと踵を返した。

砂を踏む音が、静かに響く。

整えられた石畳へ。

さらにその奥、低木の並ぶ小道へと足を進める。


背後ではまだ、子どもたちの声が続いている。

「すごかったな!」「見たか今の!」

そんな言葉の断片が、風に乗って届く。


レオニードは振り返らない。


一歩、また一歩と進むごとに、その声は遠ざかっていく。

代わりに聞こえてくるのは、葉擦れの音と、水の気配だけだ。


内庭へと入る境を越えたあたりで、空気が変わる。


人の気配が薄れ、手入れの行き届いた静寂が支配する。

花々は規則正しく並び、石の小径は乱れひとつない。


さきほどまでの賑わいが、まるで別の場所の出来事のようだった。


「……」


わずかに息を吐く。


胸の奥に残っていた熱が、ゆっくりと引いていくのを感じる。


それでいい。

それが、この場所だ。


湖畔へと続く緩やかな坂を下りる。

視界が開け、静かな水面が広がった。

——元の静けさが、戻ってくる。


そのはずだった。


「……?」


違和感は、些細なものだった。

風が、止んでいる。

湖面は、鏡のように静止したまま。

葉は揺れず、音もない。


静かすぎる。


レオニードは、わずかに目を細めた。

これは、自然ではない。

次の瞬間。

足元に、光が走った。


「ほう」


反射的に飛び退くようなことはしない。

ただ、その場に立ったまま、足元を見下ろす。


地面に浮かび上がる紋様。

円環。幾何学。見たことのない式。


だが——理解はできる。


「転移、か」


自分の知るどの術式とも違う。

粗い。歪んでいる。だが、強引に成立している。

どこかで、誰かが。

無理やりにでも“何か”を呼び出そうとしている。


「……面白い」

わずかに、口元が歪む。


久しく感じていなかったものが、胸の奥で揺れる。

光が強くなる。

空間が引き剥がされるような感覚。

重力が曖昧になり、景色が歪む。


湖も、庭も、空も。

すべてが、遠ざかっていく。


最後に残ったのは、ほんのわずかな——

静かな世界の感触だった。



——そして。



石の床。

冷たい空気。

薄暗い空間。


「……成功、したのか?」

聞き覚えのない震える声が、耳に届く。

レオニードは、ゆっくりと顔を上げた。


そこは、見知らぬ室内だった。

古びた石造りの広間。

壁には粗雑な装飾が施されている。

居並ぶ者たちは華美な衣装に身を包んでいるが、どこか品がない。


その奥——玉座に、一人の男。


肥えた体。

濁った目。

指には過剰な装飾。


そして、口を開く。

「……勇者、か?」


レオニードは答えなかった。

ただ静かに視線を巡らせる。


場を満たすのは、浮ついた気配と、薄っぺらな威厳。

玉座の男は、値踏みするように彼を見下ろしていた。


——浅い。

それが、最初の感想だった。


力の気配が薄い。

統制もない。

場に立つ者たちの意識が、あまりにも散っている。

王が王である理由が、ここには存在しない。


「ふむ……」

玉座の男が、わざとらしく顎に手を当てる。


「少々……想像と違うが、まあよい」

鼻で笑うような声。


「貴様にはこれより魔族との戦に赴いてもらう。勇者としてな」


軽い。

あまりにも軽い。


「……年寄りではあるが、数くらいは減らせるだろう。なに、使い潰しても構わん」


周囲の貴族たちが、くすくすと笑った。


その瞬間。

——空気が、沈んだ。


まだ誰も気づいていない。

だが、ほのかな違和感を感じたものから、なんとなく口を閉じる。


レオニードが、一歩、踏み出した。


コツ、と。


石の床に、靴音が響く。

それだけのことだった。

だが。


広間の温度が、下がる。

息が詰まる。

誰もが無意識に、言葉を止めた。


もう一歩。

圧が、増す。


貴族達はゆっくりと歩むレオニードを視線で追い、そして視線が合った者から順に、顔色が変わっていく。

背筋が伸び、喉が鳴り、足がわずかに後ずさる。


理解が追いつかないまま、本能だけが警鐘を鳴らしている。

——これは、触れてはならないものだと。


レオニードは、歩みを止めない。

一歩ごとに。

確実に。

この場の“上”へと、立っていく。


玉座の男の笑みが、引きつっていた。

「な、なにを——」


声が揺れる。

喉の奥で言葉が絡み、うまく形にならない。

それでもなお、玉座の男は顎を上げた。

震えを押し殺すように、無理やり威厳を取り繕う。


「ぶ、無礼であろう……!余の前で——」

言葉が、止まる。


レオニードが一歩、踏み出した。

ただそれだけで、空気が軋んだ。


玉座の男の肩が、びくりと跳ねる。

視線が泳ぎ、逃げ場を探すように左右へ揺れた。


「ひ、控えよ……!近衛は何をしておる!」


声を張り上げたはずなのに、どこか裏返っている。

呼びかけに応じる者はいない。

いや——動けない。

その場にいる誰もが、見えない何かに押し潰されるように、息を詰めていた。


玉座の男の額に、脂汗が滲む。

指先が落ち着きなく玉座の肘掛けを叩き、やがてそれすら止まった。

力が入らないのだ。


「な……なぜだ……」


かすれた声。

威厳も、虚勢も、すでに剥がれ落ちていた。

残っているのは——

ただ、怯えきった一人の男だけだった。


レオニードは、その足を玉座の手前で止めた。

わずかに見下ろす。

それだけで。

玉座の男は、椅子の奥へと身を引いた。

逃げ場はない。

あるはずもない。


レオニードはゆっくり口を開いた。


「……誰に」


低い声。

静かで、だが抗えない響き。


「物を言っている」


空気が、軋む。


「なぜ」


一歩、近づく。

玉座の段差を、踏み越える。


「貴様のようなものが」


視線が、突き刺さる。


「我より、高い位置にいる」


沈黙。

完全な支配。


「退け」


その一言で、すべてが決まった。

玉座の男は、弾かれたように立ち上がる。

足がもつれ、装飾を鳴らしながら、必死にその場を離れた。


誰も止めない。

止められるはずがない。

ただ、道が開く。

王が退き、道ができる。

それが、この場の“答え”だった。


レオニードは、ゆっくりと玉座へと視線を落とす。

過剰な装飾。

金と宝石で飾り立てられた、見せびらかすためだけの椅子。


「……下品だな」


小さく呟く。

だが、座れぬ理由にはならない。


ゆっくりと腰を下ろす。

深く背を預ける。

そして、足を組む。


それだけで。

玉座は、初めて“座るに値する場所”になった。

広間にいる全員が、それを理解した。


もはや誰も、元の王を見ていない。

視線はすべて——

そこにある。


レオニードは、顎をわずかに引いた。

「……説明を」


短く。

だがそれだけで、十分だった。


それだけで広間の空気が強張る。互いに視線を押し付け合うような沈黙の末、一人の男が前へ進み出た。


痩せた中年の男。豪奢な衣を纏ってはいるが、その肩はわずかに震えている。


「……ゆ、勇者殿。私は本国の宰相を務めております」


言葉を選びながら、深く頭を下げる。

レオニードは答えず、ただ視線で続きを促した。


「現在この国は、魔族との戦状態にあり……各地で被害が拡大しております。農村は焼かれ、交易路は断たれ、兵の損耗も激しく……」


「対処は」


遮る声は低く、短い。宰相の言葉が一瞬で止まる。


「は、はい……各領に防衛を任せておりますが……」


「任せているだけか」


「い、いえ……各領主が最善を——」


「統制は」


言葉が詰まる。視線が泳ぐ。


「……と、取れていないわけでは……」


「戦力の再編は」


「そ、それは各領の自主性を尊重し……」


「補給線は」


「……維持が精一杯で……」


「民の避難は」


「……一部、進めてはおりますが……」


淡々とした問いに対し、答えは崩れていく。繋がりのない対応、場当たりの判断。それを自覚しているからこそ、声が弱くなる。


レオニードはわずかに息を吐いた。


「魔族、か。この世界での定義を言え」


宰相は一瞬だけ言葉を切った。

問いの意図を測るように、わずかに視線が揺れる。

だが、すぐに口を開いた。


「……人とは異なる種であり、強大な力を持つ存在にございます。我らの領域を侵し、各地に被害をもたらしている脅威です」


整った答えだった。


「主導はどちらだ」


短い問い。

今度は、わずかに間が空く。


「……主導、でございますか」


言葉をなぞるように繰り返す。

その声には、先ほどまでの怯えがわずかに残っていた——が、

一拍。

理解した瞬間、宰相の目の奥に、別の光が差す。

恐怖に押し潰されていたはずの思考が、ゆっくりと形を取り戻していく。


(——問われているのは、そこか)


「魔族側が突然攻めてまいりました。各地での侵攻が確認されており、我が国は防衛を余儀なくされております」


「理由は」


さらに問われる。

宰相は一瞬だけ目を細めた。

その仕草には、先ほどまでの狼狽とは別種の色が混じる。

——そこまで必要か?

そう言いたげな、わずかな間。


「……明確なものは不明にございます。もとより人外の思考は計りがたく、散発的な衝突が拡大したものと考えられております」


肩をすくめるような響き。


「ただ——」


ほんのわずかに、口元が歪む。


「彼らは人に仇なす存在にございます。理由など、さしたる問題ではないかと」


軽い。

まるで、そこに価値を置いていないかのように。

レオニードの視線が、わずかに落ちた。


「把握せずに、戦っているのか」


その一言に、宰相は小さく息を吐く。


「……必要があれば、把握いたします」


顔を上げる。

先ほどまでの“従順な官僚”の仮面の奥に、わずかな本音が覗く。


「ですが現状、我が国に必要なのは“理解”ではなく“対処”にございます」


その一言に、空気がわずかに動いた。


「……そうだ、対処が先だ」

「理屈など後でよい!」

「魔族を退けねば意味がない!」


堰を切ったように、貴族たちが口々に言い募る。

先ほどまで押し潰されていた声が、形を取り戻していく。


玉座の脇で縮こまっていた王も、小さく頷いた。


「う、うむ……その通りだ。我らには時間がないのだ」


その様子を横目に、宰相はごくわずかに息を整える。

場の主導を取り戻すために大仰に指し示す。


「幸いにも——それは、すでに手に入っております」


視線が、ゆっくりと動く。

玉座——いや、そこに座る男へ。


「勇者殿という、十分すぎるほどの“力”が」


言葉は丁寧だった。

だが、その実。

この場の責を、すべて預けるための一手。

ざわめきが、肯定へと傾く。


——そのとき。


「把握せずに、戦っている、と」


落ちた。

低く、短い一言。


それだけで。

広間の音が、消えた。

宰相の喉が詰まる。

返す言葉は、ある。

先ほど自分が整えた理屈も、周囲の後押しもある。

だが、それを口にした瞬間、すべてが崩れる。

そう理解してしまった。


沈黙が落ちる。

逃げ場のない静寂だった。


宰相は、わずかに視線を落とす。

思考は回っている。

どう答えれば、この場を凌げるか。


だが——

結論は、ひとつしかなかった。


「……そ、それでも!」


絞り出すように声を上げる。

先ほどの勢いはない。

だが、今度は別のものが乗っている。


「このままでは国が持たぬと判断し、我々は勇者召喚の儀を執り行いました!」


声は震えている。

それでも、言い切る。


「異界より力ある者を招き、魔族を打ち払う——それが唯一の打開策であると!」


言葉を重ねるごとに、わずかに前へ出る。

退けない。

ここで引けば、すべてが崩れる。


「多大な犠牲と資源を投じ、ついに成功したのです……!」


最後は、ほとんど縋るようだった。

だがその目には、まだ消えきらない光がある。

——これだけは、正しいはずだと。

静寂。

レオニードは、しばらく黙ってそれを聞いていた。

やがて、小さく息を吐く。


「……なるほど」


短い相槌。

それだけで、すべてを聞き終えたとわかる。


一拍。

そして——


「愚かだな」


静かに、言い切った。

今度は、誰も声を上げなかった。

宰相の肩が、ゆっくりと落ちる。

わずかに取り戻しかけたものが、音もなく潰された。


「統制も、補給も、避難も整えぬまま、外から力を引きずり込む。それで維持できると判断したか」


誰も答えない。沈黙が重く落ちる。宰相はかすかに唇を引き結んだ。

——反論はある。

だが、それを口にすることの無意味さも理解していた。ゆえに、別の道を選ぶ。


「……古き文献には、勇者召喚により“魔王”を討ち果たした例が記されております」


静かに、だがはっきりと告げる。広間に、わずかなざわめきが走った。


「異界より招かれし力は、人の手に余る災いすらも退けた——そのように伝えられております」


言葉は整っている。事実かどうかではない。“使える理屈”として、差し出している。


レオニードの指が、肘掛けを一度、軽く叩いた。


「……ほう」


わずかに視線が動く。


「魔王、とな」


その響きを、確かめるように繰り返す。

広間の空気が、わずかに揺れた。先ほどまでの圧とは違う——興味。それが、初めて滲んだ。


「……フム」


短く息を吐く。


「我が手を貸してやる義理も、道理も見当たらんが」


誰もが息を呑む。その言葉は拒絶に等しいはずだった。

だが——


「少々、興味が湧いた」


宰相の目が、わずかに見開かれる。


「三日やろう」


短い宣告だった。


「その“魔王”とやらに至るまでのすべて——洗い出せ。歴史、戦況、勢力、思惑。飾るな。削るな。歪めるな。事実だけを持ってこい」


視線が宰相を射抜く。


「出来ぬなら——不要だ」


静かな声だった。だが、それが何を意味するかを理解できぬ者はいなかった。

沈黙。やがて、宰相が深く頭を垂れる。


「……承知、いたしました。勇者殿」


震えは、まだ消えていない。だがその奥に、別の光が宿り始めていた。

——この男は、使える。

そう判断した者の目だった。


玉座の上で、レオニードはわずかに目を閉じる。

静寂。

かつて自らが終わらせた世界とは違う、歪な気配。


「……退屈は、しばらく遠のきそうだな」


誰にも聞こえぬ声で、そう呟いた。


その日、かつてすべてを焼き尽くし、“灰燼王”と呼ばれた男が、座したまま異世界で再び動き出した。


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