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一年

  掌が冷たくなっていた。


  この部屋から、さらに下の階層へと突き落とされたような感覚。光を消され、背後で扉を閉ざされ、狭い隙間からしか空気が入ってこない、そんな場所へ。


  視線は勝手に足元の紙へと落ちる。


  契約書の表紙は、さっきまでと同じ体裁を保っていた。家の紋章ははっきりと印刷され、その上にはラヴィエンヌの名前が、手馴れた綺麗さで並んでいる。文字の間にはあの赤い印章が押されていて、それら全部が、今だけ私という人間と仮に結びつけられていた。


  胸の奥を、重いものが一瞬、ぎゅっと押しつぶすようだった。膝を折るほどの激痛ではない。ただ、一呼吸分、肺の空間の一片を奪われたような、奇妙な虚脱感。


  ラヴィエンヌは、礼儀正しい手順を踏みながら、私を「下水道のネズミ」たる居場所へと突き返した。あの印章を押すことが、つまりはその手のひらで私を押し下げることにほかならない。


  今、ここで背を向けて去れば、彼女が今日吐いたすべての言葉は、この赤い印によって絶対の正しさを獲得する。


  私はゆっくりと息を吸い、腰を折り、手を伸ばして契約書を拾い上げた。


  紙の縁が指に触れる。ほんのり冷たい。絨毯の上から紙を持ち上げる動作は、滑らかで、遅く、外から見ればあたかも結果を呑み込んだようにしか映らない。あとは踵を返し、歩き去るだけ──そんなふうに見せかけるための所作だ。


  視界の端で、ラヴィエンヌの口元がかすかに動いたように見えた。


  それは笑みではない。むしろ、すべてが彼女の想定どおりに終わったことを確認する仕上げのようなものだ。背筋は相変わらず真っ直ぐで、姿勢も変わらない。ただ、その肩に乗っていた目に見えない重さが、ほんの少しだけ外れたように見えた。


  壁際に立つ誰かが、かすかに体重を移した。足を動かしたわけではない。ただ、張り詰めていた緊張が、ほんの一線、緩んだ。それにつられるように、部屋の空気までが幾分か弛んだ。この面会が最終行に達したのだ、と皆が無言で了解し合っているかのようだ。


  私は上体を起こした。


  契約書は私の手の中にあり、紙は指先の下でわずかにしなっている。けれど、私は背を向けない。扉へ向かって歩き出すこともしない。


  応接室が再び静寂に包まれた。先ほどまでのそれよりも、ずっと深く、重い静けさだ。燈火は同じ位置を照らし、家具は微動だにしない。ただ一つ、本来ならば為されていなければならない「退出」という行為が、いつまで経っても開始されない。


  ラヴィエンヌは催促しない。


  ただ、視線を上げ、再び私を見た。その赤い瞳は光を湛え、鮮烈な色を放っている。視線は一度、私の手に握られた紙束へと降り、それからゆっくりと私の顔へと這い上がってくる。壁際の従者たちの目が、僅かに揺らぎ、すぐに固定される。


  彼らはきっと、不思議に思っているのだろう。なぜ私が、まだここに立っているのか。


  私は手にした契約書を見下ろした。


  紙の端には、私の掌の中で刻まれた細かい皺が寄っている。赤い印章は文字列に押し込まれ、輪郭はくっきりとし、色はなお鮮烈だ。このまま誰も手を出さなければ、この印は何十年も紙の上にその権威を保ち続けるだろう。


  私は手を挙げ、契約書を真っ二つに折り曲げた。


  中央に折り目を強く押しつけると、紙がくしゃりと軋んだ。指先でその峠を押さえ、ぐっと力を込めた。


  紙を引き裂く音が、この静謐な応接室に鋭く、不協和音のように響き渡った。


  最初の裂け目が中央を走る。一体だった紋章と名前が、無理矢理に引き離される。二度目に力を入れると、紙は完全に二片になる。もう元の整然とした長方形には戻れない。三度目、その二片をさらに、無様に引き裂いた。


  白い紙片が指の間からこぼれ落ち、ふわふわと暗い色の絨毯の上に舞い落ちていく。


  何枚かは、ちょうどラヴィエンヌのスカートの裾の近くに落ちた。暗い文様と刺繍の間にとどまり、家の紋章は見るも無惨に引き裂かれ、かろうじて残った一角だけが色を保ちながら、元の形はもう判別できない。


  私は顔を上げた。


  ラヴィエンヌの表情に、初めて微かな裂痕が走った。


  大袈裟な驚愕ではない。勢いよく立ち上がることも、目を見開くこともない。ただ、完全に掌握していたはずの状況に対する確信に、ほんのわずかだが、明らかな歪みが生じた。一直線に引かれた軌道が、ほんの少し、予期せぬ方向へずれたような。


  「あな──。」


  彼女が口を開き、最初の音を紡ぎだしかけたその瞬間、


  「その憐れみは、いらない。」


  私の言葉が、彼女の声を寸断した。


  自分の声は思っていたより落ち着いて聞こえた。声を張り上げることも、無理に抑え込むこともなく、喉からそのまま外へ出て、私と彼女の間の空間に落ちていく。


  私は彼女を見据えたまま、ゆっくりと手を下ろす。


  「それを『承認』と呼ぶなら。」私は言った。「あるべきは、正面からの承認だ。」


  指先にまだ小さな紙片が二、三枚ぶら下がっている。それを指ではじき、他の破片と共に絨毯の上へと散らした。


  「こんなふうに、一度泥の中まで踏みつけてから投げ与えるものじゃない。」


  誰も動かない。空気さえ、流れを止めた膠のように凝り固まり、ただ私の声だけがその中を切り裂いて広がっていく。


  「あなたは言ったよね。私は下水道のネズミだって。」私は続ける。「その点については、否定しない。」


  光の射さない場所、階段裏の闇、寮の裏口、スーパーの特売コーナーに群がる人々──そんな記憶の断片が一瞬、脳裏を掠め、私はそれを自らの意思で押し潰した。


  「少なくとも、私は自分がどこに立っているのかを分かっている。」私は言う。「どんな場所にいるのか、骨の髄まで理解したうえで生きてきた。」


  視線をラヴィエンヌへと向ける。


  「他人が用意した高みに登って、それを自分の実力だと勘違いしている人たちとは、違う。」


  ラヴィエンヌは言い返さない。ただ私を見ている。姿勢は相変わらず端正なままだが、その赤い瞳は、さっきよりもわずかに強い光を帯びていた。


  「それと、あなたたちが崇める『あの人』だ。」私は続けた。「あいつが宇宙最強かどうかなんて、私にはどうでもいい。」


  『父親』という二文字を口にした時、自分の声は想像以上に冷たかった。幾重にも隔てた他人事を、ただ音として発しているような軽み。


  「生まれた時から、私は独りだった。」私はラヴィエンヌを真正面から見据える。「父親なんて元々いなかった。今さら湧いて出てきた箔付けなんて、要らない。」


  応接室の光は同じ方向から同じように降り注いでいるはずなのに、さっきより冷たく、そしてはっきりと視界を洗い出していく感覚があった。


  「その肩書に縋りたいのは、そっちの自由だ。」私は言う。「でも、私にその代役をさせようとは思わないでほしい。」


  足元には契約書の残骸が散らばっている。あの赤い印章はもはや形を成さず、無数の紙片にその色の破片を散らしただけだ。もはや、何者をも証明するものではない。


  「だから、あなたの不満を。」私は一拍置いて、言葉を継いだ。「あたかも私が何か借りを作ったかのような前提で、ぶつけないでくれ。」


  彼女の肩のラインは変わらずまっすぐで、礼装の布地は光の中で静かにそこにあるだけだ。その赤い瞳だけが、一瞬たりとも私から逸れなかった。


  「人生を勝手に決められるのが嫌なのは、分かる。」私は言った。「認めるか認めないかは、あなたの自由だ。」


  一息つく。


  「でも、私がここに来た理由は。」ゆっくりと、言葉を継ぐ。「あなたに値踏みされるためじゃない。」


  壁際で、誰かが無意識に肩に力を込めたのがわかった。それでも、沈黙は破れない。


  「私を、そっちの遊びの駒みたいに扱うな。」最後にそう付け加える。


  「いきなり現れた父親なんて、必要ない。」その数語を、はっきりと口にする。「まして、その証明のために、あなたの裁きを受ける必要なんか、どこにもない。」


  そこまで言って、一度言葉を切った。


  喉の奥に、まだ一文がせり上がってくる。その一文を出してしまえば、もう二度と引っ込めることはできない。


  私は大きく息を吸い込んだ。


  「一年。」


  口を開く。


  今の声は、さっきより半音低い。


  「一年、時間をくれ。」


  視線は逸らさない。ラヴィエンヌを、まっすぐに見据える。


  「一年後、私はあなたを正面から倒す。」宣言する。「そして──あなた自身の口で、皆の前で、私を認めさせる。」


  聞こえ方は彼女への要求だが、実態は私自身への宣告に等しい。声が平静であればあるほど、その言葉の重みは増す。


  一年後、私に何ができるかは分からない。


  ただ一つ確かなのは、もし果たせなければ、今日ここで吐いた言葉の全てが、笑い話にもならない惨めな戯言になるということだ。


  応接室の中に、長い一瞬の静寂が降りた。


  ラヴィエンヌはすぐには口を開かない。ただ私を見つめ、その瞳の光を少しずつ変えていく。さっき契約書を破られたことで生まれたひびは完全には消えないまま、そこへ新しい何かがじわじわと流れ込んでいく。


  彼女はふいに笑った。


  それは形式だけの礼儀笑いでもなければ、侮辱への冷笑でもない。ようやくまともな相手を見つけたときにだけ浮かぶ、純粋な愉悦。けれど、その愉悦そのものに優しさはなく、むしろ危うい興味に近い。


  「上等だわ。」彼女は言う。


  声にはさっきよりほんのり熱が籠もっているが、優しさなど微塵もない。


  「そもそも、私が認める気など最初からない。」ラヴィエンヌは微かに身を乗り出し、視線で私を釘付けにする。「自分の人生さえ他人に勝手に書き込まれたような男なんて、ね。」


  その口調には、冗談の余地など一切ない。心底そう信じていることがひしひしと伝わる。


  私は何も返さなかった。


  胸の内に沸き上がったのは、たった二字だった。


  「望むところだ。」


  私は視線を外し、足元に散らばっている紙片に目を落とす。私の行き先を決めるはずだった文字たちは、もう原形をとどめていない。かろうじて、いくつかの紙片だけが、「文字だった」名残を辛うじて残している程度だ。


  私は背を向け、応接室の扉へと歩みを進めた。


  足音は絨毯に消される。掌の冷たさはまだ残っているが、一歩、また一歩と進むにつれ、その重みは足の裏を通して地面へと沈められていく。


  扉の前に立ち、心の中で、たった今己に課した呪いを反芻した。


  一年。


  その時までに果たせなければ、その時私が引き裂くのは、契約書などという生易しいものではない。


  背後には、紙屑の海と、微動だにせず美しく座るラヴィエンヌの姿があった。扉が閉じる音。全てが向こう側に遮断される。


  胸の奥に、今しがた刻み込まれた〈一年〉という時限爆弾の、秒針の音だけが、これからも鳴り続ける。

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