承認
「本当にわからない。どうして父は、私をあなたの婚約者になどしたのか。」
それが、この部屋で耳にした最初の一言だった。
声は応接室のいちばん奥から届いた。そう近いとは言えない距離を隔てているのに、濁りも反響もなく、まっすぐ耳に落ちてくる。あらかじめ書いておいた台詞を再生ボタンで流しているだけで、すでにここに立っている私に向けて聞かせているようだった。
この星に連れて来られてから、誰かにこういう言い方をされたのは、それが初めてだった。
私はすぐには顔を上げて、声の主を見ようとしなかった。視線は足元の、少し色の濃い絨毯の縁に止まったまま、その細かく入り組んだ模様を見つめる。ここが重要な客のために用意された場所であって、使用人が間違って立つような場所ではないと、確認しているかのように。
彼女は私の返事を待たなかった。
「こういう立場にまで押し上げられる人間なら、少なくとも少しは興味が湧くかと思っていたけれど。」彼女は平坦な声で続けた。「今のところ、私の期待しすぎだったようね。」
私は理解した。
これは自己紹介でもなければ、礼儀としての会釈でもない。
ラヴィエンヌは、私に何かを問いかけているわけではない。彼女は、すでに判を押されてしまった一枚の書類に向かって感想を述べているだけで、その中の気に入らない一行が、たまたま私だった。
この応接室はとても静かだった。自分の呼吸に合わせて胸の中がわずかに上下する音さえ聞こえてきそうなほどに。
私は顔を上げ、応接室のいちばん奥の椅子に腰掛けている人物を見た。
ラヴィエンヌがそこに座っていた。その椅子は背もたれが高く、普通のソファというより、額に入れて飾られている調度品の一部のようだった。
彼女の体には、だらしなさが微塵も感じられなかった。背筋は伸び、肩のラインは自然で、しかして硬さはない。生まれながらにして、こういう場所に座ることを運命づけられていたかのようだ。
柔らかな天井灯の光が、彼女の全身を包んでいる。肩から背中へと流れる長い紫の髪は、光の下で細かく揃い、丁寧に整えられた束の糸のように見えた。
彼女の顔立ちは、過剰なまでに整っている。輪郭は鮮明で、顎のラインも鋭く締まり、あらゆる角度が設計図通りの「模範解答」のようだった。
その紅玉のような瞳が私に向けられる。好奇心も興味もなく、ただ静かに値踏みするような視線だった。目の前の人間が資料に書かれた数字と一致しているかどうかを、確かめているだけのように。
彼女が身にまとっているのは、濃い紫色の宮廷風ドレスだ。肩のラインにぴたりと沿い、ウエストは極端なほど細く絞られ、生地はそのまま身体の曲線に沿って落ち、腰のあたりでわずかに広がっている。座っている今は、スカートの裾が静かに椅子の前の絨毯の上に広がっていた。
ドレスに織り込まれた暗い文様は、灯りの下でかすかに浮かんでは消えた。その一つ一つのひだが、あたかも角度まで計算されているかのようで、手の動きを邪魔することも、立ち上がる際の妨げになることもなさそうだ。
襟元と袖口には、細やかな刺繍と金属糸の装飾が施されている。意識して凝視しなければ見逃してしまいそうなほど細密で、それらすべてを一言でくくれば、ただ「高価そう」という印象に集約されてしまう。
彼女はこれ見よがしなアクセサリーはつけていない。首筋には細いチェーンが一本だけかかっていて、その金属の光沢が、角度によっては彼女の瞳の色と重なって見えた。
もし地球にいれば、この顔立ちであらゆる雑誌が表紙を争い、どこかのブランドが自社のドレスを着せ、フラッシュを浴びせて笑顔を引き出すためだけに予算を投じるだろう。
けれど、彼女が私に与えた最初の印象は「綺麗」ではなく「危険」だった。一時的に箱の中にしまわれて、外側だけ豪華な装いに替えられた刃物のように、刃そのものは中に残ったまま、たまたま今は抜かれていないだけ──そんな感じだった。
彼女の言うその「婚約者」とやらが、疑いようもなく私のことなのは間違いない。地球から連れて来られ、一晩で姓も血筋も身分も全部更新されたと告げられた孤児──その私だ。
迎えが来る前まで、私の世界はとても単純だった。学校、アルバイト、奨学金、二度と福祉施設に戻らないために必死で掴んでいた学年上位という位置、そして、夜に消灯したあと、狭い寮の部屋に満ちる、静かすぎる空気。
そんなものは、ラヴィエンヌの持つ資料の中では、おそらく一行で済まされている。
彼女が気にするはずもない。
私は応接用の絨毯の中央に立っていた。
絨毯の縁はちょうど私のかかとのすぐ後ろで止まっている。そこからもう一歩だけ下がれば、足裏に冷たく滑らかな床が当たる。逆に一歩前へ出れば、彼女の視線が真正面から落ちてくる場所になる。
彼女は照明がいちばん集中している場所に座っている。
私は影と光が交わる境目の、その内側に立っていた。
この応接室には椅子は一脚しかないが、人間は二人だけではない。壁際には、同じ制服を着た人影が幾人か、ぴんと伸びて立っている。誰ひとり口を開かず、呼吸さえ極力殺している。私に紹介される者もいなければ、名前を必要とする者もいない。
応接室の中が、短く静まり返った。
この部屋で、問いを投げかける資格があるのは一人だけだ。答えを与える資格があるのも、一人だけ。
そのどちらも、私ではない。
ラヴィエンヌは、その静寂に長くは耽らなかった。さっきまでの台本を読み終え、次のページに目を移したかのように、話を続けた。
「結局のところ、あなたがここに立っているのも、あの人の名前があるからでしょう。」
彼女の声は相変わらず平坦で、音量も高くはないのに、一語一語がはっきりと落ちてくる。
あの人。
彼女は名前を口にせず、代わりにそう言っただけだ。だが、この星でその呼び方だけで通じる相手は、一人しかいない。意識して考えまいとしても、その空白のような呼び名の中に、輪郭だけは勝手に浮かび上がってくる。
「あの人がいなければ、あなたは私の前に出る資格すらなかった。」
その言葉は嘲笑というより、既に確定した事実を告げているだけのように聞こえた。
私は指先に力を込めた。孤児院のホール、表彰リストに載った名前、奨学金の入金を告げる携帯の光──そんな記憶が、誰かに雑に引き出しから引っ張り出され、また放り込まれるように頭をよぎった。それらが私をここへ連れてきたわけじゃない。ただ、結果から言えば、ラヴィエンヌの言う通りだ。
ラヴィエンヌは、何かと照合するように、わずかに首をかしげた。その動作は微細だったが、彼女の眼前に分厚いファイルが広がっていて、目線を走らせるだけで記載事項を読み上げているのだろうと思わせるのに十分だった。
「血統はない。」彼女はゆっくりと口を開いた。
私を見ているのに、その声は紙に印字された文字を読み上げているだけのようだ。
「まともな姓もない。」
一瞬、間を置く。
「もちろん、家族も。」
一言ごとに、確かな間が置かれる。その隙間を、吐き出された言葉がゆっくりと進み、壁に当たって跳ね返ってくる。
ラヴィエンヌは、急いで先へ進もうとはしない。資料のページを一枚めくり、適当に一行を指で押さえたかのように、間を置いてからまた口を開く。
「記録に残すほどの過去もない。」
彼女の視線は逸れない。だが、今この場に立っているモイレンを見ているわけではないことくらい、私にもわかっていた。
「元の世界でのあなたは、どこかの片隅に登録された一行の数字でしかない。」
かつての私は、成績とアルバイトで生きてきたことを、少なくとも自分なりの証明だと思っていた。しかし、こちらからすれば、そんな数字は長大なデータ列の中の取るに足らぬ一セルに過ぎない。気が向けば、その後に何行でも追加できるものだ。
「まして、誰かに期待された人生なんて、最初から存在しない。」ラヴィエンヌは、最後の一文を付け足す。
その言葉が落ちた瞬間、かえって私の頭の中は一瞬だけ真っ白になった。これまでの、狭いながらも一応はひと続きだった光景に、まとめて「取るに足りない」と書かれた判子を押されたような感覚だった。
ラヴィエンヌは、息をつく暇すら与えなかった。
「それを、あなたは『一人の人間として生きてきた』と言うのね。」彼女は言葉を確かめるように、軽く首をかしげた。
私は返さず、否定もしなかった。その問いは最初から答えを求めているようには聞こえなかった。彼女は私の説明などいらない。この場所に、この一文を置きたかっただけなのだ。
「こちらではね、そういう状態にもっと直截な呼び方があるわ。」
ラヴィエンヌは言葉を続ける。
「光の届かぬ場所に潜み、他人の目を盗むことでしか生き永らえられない存在。」
応接室の空気が、少しだけ外へ抜かれたような気がした。温度は変わっていないはずなのに、壁際に立っている者たちのうち誰かの視線が、一瞬だけ私から外れ、次の瞬間には何事もなかったように元の位置へ戻るのがわかる。
この形容は、単なる美辞麗句ではない。様々な事物に適用されてきた表現で、そこから形容詞が一つでも抜け落ちれば、たちまち正確さを失う。
「そうだわ。」ラヴィエンヌは何かを思い出したように、軽く間を置いた。「あなた、地球出身だったわね。」
私は答えなかった。彼女も、私が答えるかどうかなど気にしていない。
「あなたたちのところには、もっとぴったりの言葉があったはずよ。」
応接室は、衣ずれの微かな音さえ聞こえるほど静まり返っていた。
「下水道のネズミ。」
その言葉が落ちた瞬間、私は反射的に腹に力を込めた。胃のあたりが微かに痙攣する。腰を折るような鋭い痛みではなく、不意に拳骨でみぞおちを殴られたような、鈍く重い感覚。
彼女が間違っているからではない。
むしろ逆だ。私がこれまで生き延びてきた方法を、一言で要約するなら、その表現は完璧に正しい。正しすぎて、かえって息が詰まる。吐き出したいのに、吐き出せない。
ラヴィエンヌは私を見つめた。その瞳に余分な感情は微塵もない。
「安心しなさい。私だって、あなたのことをまるで理解できないわけじゃないのよ。」彼女の声は先ほどよりわずかに小さかった。
それは優しさではなく、単に音量を下げただけだ。
「生まれた時から、誰にも要られなかった子。」彼女は淡々と言った。「文明の片隅に潜み、生き延びるしかなかったなんて、確かに大変だったでしょうね。」
文明の片隅。彼女はあの生活を、そう名付けた。
私は彼女を見つめ、唇をわずかに動かしたが、結局何も口にしなかった。その代わり、心の中では、今の「理解」という言葉を置くべき場所をすぐに決めていた。あれは患者を慰める言葉ではなく、カルテに書かれた診断名が正しいかどうかを照合しているだけの確認に近い。
ラヴィエンヌは視線を引き、ここまでの項目に区切りをつけたと言わんばかりに、目を机の上へ移した。
そこには、あの契約書が広げられている。
この部屋にいる誰の目にもそれは見え、何であるかも分かっている。誰も口を開かず、音さえ立てない。全員が、これから当然のように進むべき手順を、ただ待っている。
今の彼女の連続した言葉の中で、「モイレン」という一人の人間の存在感は、ほとんどなかった。読み上げられていたのは、分類しやすい一つのカテゴリーであり、彼女の整理に都合のいい標本でしかない。
私は指先に、ほんの少し力を込めた。
ようやく彼女が、この評価に判を押そうとしているのがわかった。
ラヴィエンヌが手を挙げた。指先が紙の縁で一瞬止まり、それから契約書の端を摘まみ上げる。動作に焦りはなく、ごく普通の業務書類を扱うような、ゆったりとした速度だ。
もう一方の手で紙束を軽く押さえ、慣れた手つきで特定のページへとめくり、ほとんど視線を合わせることなくそこで止めた。
どのページに署名欄があるかなんて、とっくに承知しているのだろう。
伏せた視線が、そのページの内容を撫でるように掠める。睫毛が燈りに照らされ、頬に淡い影を落とす。ページをめくる動作に躊躇も、改めて確認する気配もない。
彼女の中で、私の処遇はとっくに決まっている。今ここでしていることは、単にその結論を書面に転写する作業でしかない。
私はその場に立ったまま、彼女の手元にある印章が見えていた。
それはこの一族の紋章であり、同時に今この瞬間ラヴィエンヌが私に「ひとつの答え」を与えるために使える道具でもあった。
彼女は手を伸ばし、印章を取った。その動作は呼吸と同じくらい無造作だ。手首を軽く返し、印面を紙の空白部分に正確に重ねる。
「あなたを認めてあげる。」
印章を押し下ろす時、その声は静かだった。
声は、判が紙に刻まれる音と重なるように、きっぱりとしていて、翻意の余地など微塵も与えなかった。
彼女は顔を上げず、視線を紙面に落としたまま、さらに言葉を続ける。
「別に、あなたにふさわしいからじゃない。」
印章が離れた時、赤い印影は既にその行の上に鮮明に刻まれていた。彼女は印章を置き、傍らのペンを取り、自らの名の横に簡素な署名を記す。
「あなたに何か価値があるからでもない。」
ペン先が紙を擦る音は、かすかでほとんど聞こえない。だが、彼女の言葉だけは明瞭に届いてきた。
彼女はペンを元の位置に戻し、指先を紙の上で一度、ぴたりと止めた。
「ただ──。」
小さく息を吐く。その決定に、対外的な理屈を一つ添えようとしているかのように。
「弱い者に、ほんの少しの憐れみを施すくらい、私は厭わないのよ。」
彼女が「認める」と言った時、その言葉はまだ中立だった。しかし今の一言で、その言葉の下地には新しい色──憐れみという色が塗り込められた。
ラヴィエンヌにとって、「承認」とは施し同然の軽い行為なのだろう。手を挙げればでき、一言で撤回できる。
そして今、私はその施しを請う乞食として扱われている。
「契約書には、認める印を押しておいてあげる。」
と、彼女は改めて言葉にして、たった今自分が行ったことをまとめるようにした。
視線が紙面から離れ、再び私へと戻ってくる。その瞬間でさえ、彼女の目の冷たさは少しも変わらない。ただ、この結果を正式に私の前へ突きつけてきただけだ。
「ただし、私はあなたとは結婚しない。」
その言葉は、書類の末尾に追記された免責事項のようだった。冷静かつ明快で、そこに私の意志が介在する余地など最初からない。
彼女は契約書を閉じた。
指先の下で紙が小さく唸り、整然と束ね直される。彼女の指が一度、表紙を撫でるように掠め、家紋の上でほんの一瞬止まり、そして離れた。
ラヴィエンヌは立ち上がらない。
ただ手首を軽く上げ、それから何げなく前方へ押しやった。
契約書は机の縁を滑り、空中でページがひらりとめくれるように反転し、絨毯の上に落ちた。紙が床に叩きつけられる鈍い音。それは数センチ滑り、ぴたりと私の足元に収まった。
その瞬間、私の名前と、彼女のサインと、真紅の印章が並んで、私の足元に転がっているのが見えた。
「さあ、帰りなさい。」
ラヴィエンヌが口を開いた。
声に抑揚は一切ない。それは単にある手続きの終了を告げる、事務的な確認に過ぎない。
「あなたの本来の場所へ、戻りなさい。」
その言葉が落ちた時、応接室の空気がさらに引き締まった。壁際の者たちは微動だにしない。しかし、その中の誰か一人の視線だけが、一瞬、鋭い刃のように私を切り、そしてすぐに鍛え上げられた無表情の中へ消えていくのを、私は感じた。




