表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

お山さん

 ――満月の日はお山に入ったらいかんよ。


 それは来夢(ライム)がまだ小さな頃、それこそ手のひらが紅葉みたいだった頃からの祖母の口癖だ。普段は笑みを絶やさない小さくて可愛らしい祖母が、その話をする時だけは神妙な雰囲気になるのが不思議だった。


 ここで言うお山というのは、来夢の祖父母の家の裏にある山を指す。代々写楽(しゃらく)家が管理しており、祖父の次は父、父の次は来夢が引き継ぐ土地だ。山頂には小さな社があって、その周辺は自治体の土地だからか、地区のちょっとした祭の会場にもなったりする。

 そんな風に大人にとっては古くから大事にされてきた場所であるのだが、幼い来夢にとっては何て事のない、自慢の秘密基地のようなものだった。

 祖父母の家に遊びに来る度に転がるように山に向かう来夢を見て、いつだって祖母は神妙に繰り返した。


「満月の日はお山に入ったらいかんよ」


 窘めるような、不安そう声。祖母は「嘘を吐いたらいかん」と同じくらいこの台詞を吐いた。

 はぁい、なんて来夢はいつも間延びした返事を返す。祖母の小言より、目の前の冒険に関心が向いていたのだ。

 そうは言っても、言いつけを破るほど祖母の言葉を軽んじているわけではない。来夢は捻くれたところのないとても素直な子どもで、優しい祖母の事が大好きだった。だから山に行く前は欠かさず満月でないかを確認する様にしていた。祖父母の家のカレンダーにはいつでも月の満ち欠けが載っていたから。


 けれどその日はむしゃくしゃしていた。

 家族旅行が妹が急に熱を出したために中止になったのだ。移るといけないからと、夏休みであることもあって祖父母の家に1人で預けられた来夢は、わかりやすく不貞腐れていた。


 妹は体があまり強くない。だからか、両親は元気小僧の来夢より妹を優先しがちだ。

 寂しくないと言えば嘘になる。けれど、その事は別にいいのだ。1人遊びだって慣れている。

 でも、先月は海に連れて行ってくれる約束が駄目になったし、夏休み前の授業参観も来てくれなかった。期待と落胆が交互に来るのはとても疲れる。

 こんな事を言えば、祖父は「お兄ちゃんだろう」と窘めるに違いない。すごく嫌だ。好きで兄に生まれた訳じゃないし。なんてとても言えやしないけど。だって、妹も好きで病気してるわけじゃないんだし。でも、拗ねるくらいは許して欲しい。


 気分の沈んだまま、ふらふらと外へ出た。買ったばかりの麦わら帽子をかぶって、強い日差しの降り注ぐ中をとぼとぼと歩き出す。


 ――あ、カレンダー見てない。


 気づいたのは家を出て暫く歩いた先であった。いつもだったら戻って確認するところだが、今日の来夢は機嫌が良くない。満ち欠けを確認するためだけに戻るのは馬鹿らしい気がした。


 ――暗くなる前に戻れば大丈夫だよね。


 そんな風に1人で納得して、慣れ親しんだ山に踏み入った。





 この時期の裏山は若い竹の葉が生い茂っていて、日陰が多くて明るい。きらきらとした木漏れ日が細かいスポットライトみたいで綺麗だった。中腹辺りには来夢の膝くらいの高さの小さな滝がある。湧き出る水が冷たく澄んでいるお気に入りの場所だ。

 1度遊び始めれば機嫌が直るのも早いものだ。2匹重なった蛙の下あごをのぞき込んだり、藤の花のトンネルをくぐったり、珍しい色の蝶を追いかけたりをしているうちに、あっという間に真上にあった太陽は沈みかけていた。


「あ、やっべ」


 遠くで6時を知らせる鐘がなっている。錆びたスピーカーが奏でる、どこかもの寂しい『ななつのこ』。烏が鳴いたから、家に帰らなくっちゃいけない。やっとこさ捕まえた大きな蝶を空へと放し、慌てて山道を駆け下り始めた。


 異変に気が付いたのは、まさにその帰り道での事だ。


 ――あれ?


 人が居る、怪訝そうに首を傾げた。

 駆け足で下る獣道の先に、覚えのない人影が見える。

 光の加減で顔の造形まではわからないが、恐ろしく足が長くてスーツを着ていた。チェーリップを逆さにしたような、古めかしい形の帽子を被った男だった。

 思わず足が止まる。人見知りをする方ではなかったが、この山が祖父のものである事くらいは理解している。それに近所の人間は殆ど顔見知りだ。目の前の男は無断で他人の土地にやってきた侵入者でないか、という予感が働いたのだ。


 男は切り倒された竹の根元をのぞき込んでいた。針金のような長躯を折り曲げて、地面の上に生え残った竹の空洞に目を押し当てて、一心不乱に中をのぞき込んでいる。


「おーい」


 男が声を出した。あまりの声量に肩が跳ねる。竹藪に音が反響しているのだろうか。まるで頭上から声が降ってきたような気がした。


「おーい、おいおいおいおいおぉ~い」


 彼は竹の空洞に向かって呼びかけ続けた。うわんうわんと音が反響する。竹藪が怯えるように震えていた。誰もいないはずの穴に呼びかける様は、男を一層異形めいて見せる。


 ――もしかして、おばけ……なんじゃないか。


 怖ろしくなって近くの岩陰に隠れた。どきどきと心臓が鳴る。岩の向こうからも呼びかける声は暫く続いていたが、やがてぴたりと止んだ。

 おそるおそる顔を覗かせて、ほっと息をついた。もう男の姿はない。


 ――早くばあちゃんたちに知らせないと……。


 そう思って駆け出そうとした時、ふと、なんとなく、男が何に呼びかけていたのかが気になった。

 緊張が解けたせいだ。好奇心がむくむくと膨れあがる。止しておけよ、なんて警鐘を鳴らす自分もいるが、結局抗えなかった。来夢は男がのぞき込んでいた竹の根元の前で足を止める。

 通行の妨げになるからと根本から切られてしまった大きな竹。地面に突き刺さる筒のような姿になっても存在感があった。


 ――ただの竹、だよな?


 中を覗いて「あっ!?」思わず声が出た。

 そこにいたのは自分だった。竹の空洞をのぞき込む自分の後頭部を、来夢は覗き込んでいた。こんな事があるのか。摩訶不思議な現象に胸が高鳴る。そして冷静な部分が、同時にある予感に思い至った。


 ――あの人はここで竹を覗く自分に呼び掛けていたのかな? ……だとしたら凄く間抜けだけど。


 でも、もしかして、あの人が見ていたのは。

 ぞわ、と嫌な予感が背筋を駆け抜けた。じわじわと嫌な予感に侵食されていく脳がガンガンと揺れる。下腹のあたりがきゅっとしめつけられるような気分になっていた。

 音を立てないようにして、ゆっくり、ゆっくりと振り返る。


 先ほどまで来夢がいた岩陰に男が立っている。今度はその顔立ちが良く見えた。

 一言で表すと異様だった。真っ白な瞼も真っ赤な唇も、太い麻紐で縫い留められている。

 縫われた口でどうやった声を出していたのだろう。

 縫われた目で何を見ようとしていたのだろう。


「おーい」


 男が呼ぶ。

 縫われた目と目が合う。見つかった。

 縫われた口が大きく歪む。笑っている。

 そこにいたのかと、笑っている。


 彼は最初から、来夢を呼んでいたのだ。





  気が付くと祖父母の家の布団の中にいた。ゆっくりと目を開けると、手を握る両親の顔がある。

 今にも泣きそうな2人の顔を交互に見ていると、母親は泣き出し、父親の方は弾かれるように立ち上がって誰かを呼びに出ていった。

 どうやら、来夢は裏山の麓で倒れていたらしい。それから2、3日ほど高熱を出して生死の境をさ迷ったという。


「お兄ちゃん、よかった……よがっだ……!」


 お腹の上にはぺしょぺしょと泣きじゃくる妹が乗っている。冷えピタを貼った妹の顔は真っ赤で、熱があるだろうに頑なに自分の布団に戻ろうとしない。


「満月の日にお山に入るなんて馬鹿なことを。夕方だからまだよかった。夜なら死んでいたぞ」


 父親に連れられてやってきた祖父に額をこづかれる。


 ――そんなに危ないことだったのか。


 ふと、脳裏にあの異形の男の姿が甦る。ぞっと背筋がこわばった。


「ねえ、じいちゃん。あれ、なんだったの?」


 来夢の問いに、祖父は気まずそうに顎を掻いた。白い髭の残る骨ばった顎がじょりじょりと鳴る。


「あの山には、昔、銀が採れるなんていう噂があってな。本当はそんなものはない。根も葉もない噂話さ。だが、噂は人を呼んで、山には人が集まった。無遠慮な外の人間に山は荒らされるばかりだったよ」


 祖父が語りだしたのは、来夢が生まれるより前の話だ。祖父がまだ年若い青年であった頃の話。来夢は困惑しながらもつい聞き入った。


「ある雨の日、大きな事故が起きた。地盤が緩んでいたんだろう。土砂に巻き込まれて山にいた大勢の人間が犠牲になった。……山頂の社はな、この事故で亡くなった人たちの霊を慰めるために建てたものだ」

「知らなかった……」

「昔の話だからな。子どもに聞かせる話でもなし。……事故が起きたのは満月の日の夜だった。だから、満月の日はお山に入っちゃいかん。良くないことが起きる」


 神妙な顔で額を撫でてくる祖父に「わかった」と頷けば、彼は安心したように銀歯を見せて笑った。

 まだ熱があったため、そのまま休んでいるように言われた来夢は、天井をぼんやりと見上げた。ふわふわと熱に浮かされながら、山で出会った男の姿を思い返す。


 ――土砂崩れに巻き込まれた人が、あんな風になるのかな。あの人、あんな格好で何をしてたんだろう。


 ふわりと窓から吹き込む風が頬を撫でた。ごろんと寝転がると、開け放たれた窓の奥の縁側に祖母が座っているのが見えた。


「なー、ばあちゃん」


 来夢は布団を蹴飛ばしながら祖母を呼んだ。祖母は振り返って「あらあら、布団はちゃんと被りなさい」と柔和に笑った。


「普通、銀を探しに来るなら動きやすい格好で来るよな?」

「そうだねぇ。あの時来てた連中も、みぃんな作業着だったなあ」

「俺が見たひとスーツの男の人だったよ」


 その瞬間、「は」と祖母が息を詰めるのが聞こえて思わず息を止めた。小さな目が零れそうな程大きく見開かれて、布団に包まれた来夢をのぞき込んでいる。


「それ、誰にも言うとらんね?」


 冷たい声が降って来て、来夢はこくこくと素早く頷いた。鬼気迫る祖母の様相は、山で会った男を彷彿とさせて恐ろしかった。


「内緒にしとっておくれな。誰にも、何にも、聞かんでな」


 そう言って手を握ってきた祖母に、来夢は頷く他無かった。



 ◆ ◆ ◆



 写楽さん家の夢子(ゆめこ)さんといえば、お転婆娘として有名だった。

 十歳になったばかりのこの少女は、じっとしている事が苦手で、裏山を駆け回ったり、近所の庭の木に登ったり、村人にくだらない悪戯をしかけるのが大好きだった。


「総ちゃん、来たよお」


 中でもお気に入りは、村の外れに住む総司(そうし)という男だった。

 彼は最近東京から村に越してきた若い男で、研究のためにやってきたと言っていた。さらさらの黒い髪の毛を短く整えた色白の青年だ。村では珍しい洋服を着ていて、口さがない大人は「気取ってる」だの「田舎をばかにしている」なんてひどい事を言ったが、夢子は物識りな彼が大好きだった。


「夢子さん、またお稽古を抜け出してきたの?」

「ちゃんと言ったわ。大岩さん家の牛が産気付いたから手伝ってくるって」

「またそんな嘘をついて」


 呆れたようなため息が返ってくる。大岩さんの家が飼っているのは牛ではなく馬だ。夢子は、すぐばれるような、くだらない嘘を吐く癖があった。


「嘘つきはためになりませんよ」

「ごめんなさーい」


 総司の苦言もどこ吹く風だ。

 今までも幾度となく虚言癖について注意されていたが、家の人間は末娘の夢子に甘い。彼女の嘘はまったく巧妙でなく、くだらないものであったので、誰も本気で叱らなかった。なので、夢子は己の虚言について、まったく懲りる様子がない。


「そんな事より、今日も面白いお話して」

「……まったく、もう」


 ため息をつきながらも、総司はどこか嬉しげだった。

 余所者ゆえに村の人間から遠巻きにされている。懐いてくる無垢な幼子の存在は、彼にとっても嬉しいものだったのだろう。

 総司は夢子に請われるまま、色んな話をした。

 それは東京に新しくできたカフェーの話であったり、最近出来た赤い電波塔の話であったり、自分の研究する地質学に関するものであったりした。どんな話も夢子は楽しそうに聞いて、聞き終わるとあれこれ質問してくる。年の差もあり、まるで生徒と先生のようだ。

 夢子はこの時間が大好きだった。




 ある春の終わりの事だ。

 村にまた一人、若い男が住み着いた。住み着いた、という表現は間違いではない。冬に家主が亡くなった空き家にいつの間にか住んでいたのだ。言葉も荒く、態度も横柄で、いつすれ違っても酒とたばこの匂いがした。

 佐竹というその男は、どうやら別の場所で怖い仕事をしていたらしい。左手の指がいくつかなかった。


「なあ、お嬢ちゃん」


 だから声をかけられて、夢子は飛び上がりそうになるくらい驚いたのだ。総司の家から帰る途中だった。門限を過ぎた言い訳を考えていたから、近づいて来たことに気がつかなかったのだ。


「あの、いけすかねぇ若造は、この村で何をしてるんだ?」


 顎で示したのは総司の家だ。

 佐竹は同じ余所者でありながら、村の人間に受け入れられている総司を快く思っていなかった。総司とて村の人間に歓迎されているわけではないのだが、佐竹にはそう思えないらしい。佐竹がこういうどうしようもない男だったから、相対的に穏やかな方の総司への態度が軟化したともいえる。


「総ちゃんはお山を調べているのよ。地下深くに銀が眠っているかも、なんて」


 ここで夢子の悪い癖が出た。

 総司の研究はたしかに地質に関することだったが、あの小さな裏山から貴金属の類が採れないことは誰でも知っている。村の人間にとっては、わかりやすいお粗末な嘘だ。


「……へえ」


 だが、佐竹にはそうではなかった。




 それから暫くして、村にはならず者が出入りするようになった。村の山から銀が採れるという噂を聞いて、人が集まってきたのだ。

 他所からやってきては、勝手に山に入る男たちに、村の人間は辟易していた。


 そんな日が何日か続いたある夏の日に、その事件は起きた。突然の大雨と、地盤が緩んだことによる地滑り。その時山に入っていた人間の殆んどが土砂に埋もれて死んだ。

 報せを聞いた夢子は震え上がった。――ああ、なんてことだ。自分の吐いた些細な嘘が、大勢の人を殺してしまった。

 どうしようか、父に、母に、相談してみようか。ああしかし、もう大勢が死んだ後である。今さら何を言ったって、彼らが助かるわけでもない。夢子は悶々と考え込むばかりで、何も告げることができなかった。


 そんな事をしているうちに、もう1つ死体があがった。年若い、洋装姿の青年。――総司の死体である。


 裏山の入口に吊るされた彼は、いつもの黒い背広を着ていた。惨いことに瞼と口が太い麻紐で縫い留められており、『法螺吹き』と貼り紙がされていた。

 それは、土砂で流された者たちの遺族、もしくは生き残りによる私刑だった。法螺話を掴まされたと思った佐竹が、言い逃れのために総司を槍玉にあげたのだ。


 夢子はそこでやっと両親に自分の吐いた嘘を告白することができた。だが、家族はそのことを口外することを禁じた。発端は子どもの嘘だが、人死にが出るほどの大事になってしまった。今更真実など告げても何も救われない。こちらの肩身が狭くなるだけである。

 それが年端もゆかない娘の将来を守るための判断であったのは想像に難くない。だが、罰せられもせず、償うこともできず、大好きな人を嘘つきにしたまま死なせてしまったという事実は、夢子の心に深くつきささった。


 それから夢子は人が変わったように大人しくなった。必要以上に口を開かず、外にも出ず、薄い笑みを浮かべてひっそりと暮らした。それはお見合い相手と結婚し、子どもを生んで一人立ちさせ、孫を抱いても変わらなかった。


 彼女が取り乱すのは、お山で死体があがった時だけだ。


 あの事件以来、満月の日にお山に入ると幽霊を見るという噂がたった。その幽霊を見ると、瞼と口を縫われて木に吊るされる、そういう噂だ。


 実際、何人かの男がそのような死に方をした。どれもが他所から来た男で、その中には佐竹の姿もあった。彼らは土砂崩れが起きた後も、何かと理由をつけて山に出入りしていた。


 だから、お山は満月の日に入ってはいけない。その正確な理由を知る者はもう殆んどいない。だが、老人たちの鬼気迫る態度から、皆が律儀にその決まりを守っていた。



――まさか来夢ちゃんが、あの人に会ってしまうなんて……。


 年老いた夢子は、昨日まで熱を出していた孫を思ってため息をつく。賢く素直な子どもだと思ってが、やはりまだ小学生。もっと気をつけて見ていれば良かった。


 黒いスーツを着た背の高い男性の幽霊。

孫が見たのは、総司だろう。そうとしか考えられなかった。

 夢子の嘘のせいで濡れ衣を着せられたあの青年は、佐竹の率いるならず者どもに、痛め付けられて殺されたという。そりゃあ、化けて出たくもなるだろう。無念で仕方ないだろう。今も共連れを探しに満月の日の山に化けて出ているのだと思っていた。


「おーい」


 呼ばれて顔を上げた。裏山の麓に誰かいる。小さな人影。あの黄色のシャツは来夢が着ていたものだ。先ほどまで客間で寝ていた筈の孫が、どうしてか山の入口に立っている。


「おおい」


 手を振る孫の瞼は固く閉ざされていた。麻の糸で縫い付けられている。こちらへ呼びかけている筈の唇もぴったりと縫われていた。総司の死に様と同じように。


 ぞっと夢子の背筋が凍った。彼女が慌てて立ち上がったのを見計らって、来夢は軽やかな足取りで山の中へと入っていく。


「ああ、待って……その子は、その子は関係ないのです……!」


 木々の奥に消えていく小さな背中をよろよろと追いかける。年老いたとはいえ歩き慣れた山だ。夢子が来夢を見失うことはなかったが、子どもらしい身軽さで獣道を駆ける来夢に追いつくことはできなかった。


 どれだけ進んだろうか。気が付けば山の中腹にいた。咳き込む夢子の目の前に、ぼんやりと立ち尽くす来夢の背中がある。


「来夢ちゃん……?」


 彼は崖の前に立っていた。

見上げる先には縄がある。木の枝からぶら下がる、先が輪になった太い縄。あの日、総司がぶら下がっていた縄にそっくりだった。


 振り返った来夢が無言でこちらを見つめている。

 塞がれた何も見えない筈の目で。


「夢子さん」


 縫われた唇からは総司の声がした。ゆっくりと手招く小さな手。


――ああ、呼ばれている。


 恐ろしくなってぎゅうと胸を押さえた。彼は……総司は夢子を誘っている。共に来なければ来夢を連れて行く、そう言っているような気がした。


 さく、さく、と地面を踏み分けて縄の前に立つ。じわじわと麻糸に縫い付けられる瞼によって視界が狭まっていく。不思議と痛みはない。目的のものを手に取り足を踏み出す。

 がくん。息の詰まるほどの衝撃と、浮遊感。


「……おばあちゃん?」


 落ちていく暗闇の中、最期に聞いたのは孫の声だった。



 ◆ ◆ ◆



 ざわざわと聞こえる喧騒の中、来夢は座布団の上で大人しくしていた。


 目の前でほほ笑む祖母の写真。肌に染み付くような線香の香り。祖母の死を嘆く者たちの啜り泣く声。

 そのどれもが遠く、現実味がなかった。ひどい耳鳴りを感じながらぼんやりしていると、父に肩を抱かれてはっと呼吸を思い出す。


 あの夜、お山で首を括った祖母を見つけたのは来夢だった。

 すぐに大人を呼んで来たが、祖母は搬送先の病院で息を引き取った。異様な死にざまであるにも関わらず、早々に自殺と断定されて警察は引き上げていった。昔からこの土地ではよくある死に方なのだと、誰かが言っているのを耳にした。


――あの人が、ばあちゃん連れて行ったんかな。


 お山に現れた黒いスーツの男性。

 彼はどうして山の中で死んだりしたんだろう。祖母は彼に一体何をしたんだろう。

 気にならないと言えば嘘になる。けれど、来夢は「どうして今更」と小声で囁き合う老人たちの横を通り過ぎた。


 祖母が聞かないでくれと言った過去の話を、今更掘り起こすような真似はしたくなかった。


 嘘を吐いてはいけない。

 満月の日にお山に入ってはいけない。


 祖母の繰り返した言葉に、すべてが詰まっている。そんな気がした。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ