第十二話 抜け殻
響詩と別れた後、僕は一人電車に揺られて、家の最寄り駅に到着するのを待った。
偶然、一人分の座席が空いていたから腰を下ろして、スマホを弄る気持ちにもなれず、僕は車窓の景色をぼんやりと眺めて時間を潰した。
……まさか、彼女にあそこまで自分の気持ちを正直に打ち明けることになるとは思っていなかった。
響詩と出会ったのは先日の入学式。
出会ってまだ一週間も経っていない。
それなのに……医者を志す理由まで。
そんな話、花蓮にさえしたことがなかったのに。
そもそも彼女、未来の僕から、医者を志した理由を教えてもらっていたのではないだろうか?
どうやら未来の僕達、相当仲が良かったみたいだし、それくらいのことは話していそうなものだ。
まあ、そこらの真偽はともかく、どうしよう?
『お父さんに、小説家になりたい気持ち、ぶつけてみよう?』
悩みの種は、響詩と去る直前、彼女が僕に課した課題のせい。
父に、小説家になりたい夢を伝えること。
……いつもの僕なら、絶対に応じない課題だ。
でも、今の僕の気持ちは揺らいでいた。
ほんの少しだけ……彼女の言う通り、父に全てを打ち明けてしまえばいいと思う気持ちがあった。
「どうしよう」
電車が家の最寄り駅に到着して、ホームに降りた僕は、項垂れていた。
電車の中で答えを出すつもりだった。
でも、答えは出なかった。
家までの道を歩きながら、僕はまた考えた。
父に伝えるべきか否か。
でも、やはり答えは出せそうもない。一生答えなんて出ないのではないかと思うくらい、僕は迷っていた。
ただ、まあいいさ。
家でゆっくり考えれば……。
「お、ハル。おかえり」
そんな時に限って、父は間が悪く帰宅してきていた。
「ただいま」
「うん」
「……き、今日は早いんだね」
「そうだね。……どうかした?」
「え?」
「いやなんだか……気まずそうな顔をしているから」
「……あー」
僕は天を仰いで言い訳を考えた。
「遅めの反抗期かな?」
「そうか。それなら仕方がない」
冗談にも気付かず、父は家事をし始めた。
……基本的に、この家での家事は父が一任している。
子供である僕は勉強に精を出すべきだから、と、どれだけ家事を手伝うと告げても聞いてくれやしないのだ。
……多分、父なりに気を遣っているのだ。
早くに母を亡くした僕に、家事なんかで自由時間を減らしたくないのだ。
だから、多忙を極める仕事の合間を縫って、こうして家事にも勤しむ。
本当に、一時は嫌ったことが憎ましいくらい、出来た父親だと思う。
将来、大人になり子供を授かったとして……僕は今の父と同じことを、我が子にしてあげることが出来るだろうか?
無理に決まっている。
……僕は、そんな父をまた悲しませることをしようとしていやしないだろうか?
本当に、正直に話すべきなのだろうか?
迷いが深まる。
どうしたらよいかわからない。
『……正直ね、わかるよ。ぶつかることが怖いことも、怖いことからなるべく逃げたい気持ちも』
……違う。
答えを出したくないんだ。
父の気持ちを知るのが怖いから。
父がどんな反応を示すか恐ろしいから。
……僕は逃げようとしているんだ。
自分でもわかっているはずだった。
日に日に小説家になりたいと思う気持ちが肥大していることに。
このままなあなあにしてはいけないことに。
逃げ出してはいけないことに。
なのに僕は、また逃げようとしている。
響詩の言う通り、このままなあなあで医者を目指して、将来抜け殻になろうとしているのだ。
どうしてそこまで逃げようとするのか……?
多分、僕は心の奥底で、抜け殻になっても構わないと思っているんだ。
僕が将来、抜け殻になったって……別に誰かが困るわけじゃない。困るのは僕だけ。僕だけ痛い目に遭うだけ。
そう思ったら、気持ちが楽になる。
だから、抜け殻になることをいとわなかった。
でも、本当にそうだろうか?
僕が抜け殻になって苦しむのは本当に僕だけだろうか?
僕だけに違いないと思っていた。
でも、そうじゃない。
『君は大人だね』
だってそうじゃなきゃ、響詩はタイムスリップ後、僕にここまで親身に接するはずがないんだからっ!
僕が抜け殻になることで悲しむ人が、僕以外にもいる。
響詩だけじゃない。
僕が抜け殻になって最も悲しむ人……。
それはきっと……。
「父さん」
自分の声が上擦っているのがわかった。
「ん?」
「あのさ……」
父に話しかけてこんなに緊張した経験は今までなかった。
「あの……あのさっ」
今にも逃げ出したかった。
「僕、将来、小説家になりたいんだ」
でも、自分の気持ちを言い終えた後、今までずっとくすんでいた視界がクリアになった気がした。
医者になりたい。
いつか父にそう宣言したにも関わらず。
裏切り行為なのにも関わらず……。
僕の気持ちは晴れ渡っていた。
……もう、父の反応はどうでもよかった。
例え、小説家になるのなんてやめろと怒られても。
例え、医者になるって約束は嘘だったのかと悲しまれても。
……もう、後腐れなく先へ進める。
でももし……父が許してくれるのなら。
万に一つも可能性がないことはわかっている。
でも、もし……もしも、父が寛大な心をもって認めてくれるのなら。
僕は、小説家になりたい。
父はしばらく呆気に取られた顔をしていた。
当然の反応だ。
久しぶりに早く帰宅したら、息子から小説家になりたいだなんて唐突に宣言されたのだから。
戸惑うのだって当然だ。
腹が立ったっておかしくない。
僕は俯いた。
まっすぐ、父の顔を見るのが怖かった。
自らの心臓の音がよく聞こえた。
心臓の音は、どんどん早くなっていく。
こらえ切れなくなって、僕は目を閉じた。
「いいじゃないか」
父の声に、僕は目を開けて、顔をあげた。
……父は。
父さんは、笑っていた。
「小説家。小説家かー。なるほどなー。いい夢じゃないか、ハル」
嬉しそうに、誇らしげに……笑っていた。
「どうして……」
声が震えた。
「どうして、医者になってほしいんじゃなかったの……?」
「え? あー、そういえば昔、君、医者になりたいって言っていたね」
父さんは照れ臭そうに頬を掻いた。
「正直、君に医者になってほしくなかったんだ、僕」
「え?」
「勿論、君の意思は尊重するつもりだったけどね? ただ、子供の頃の話だし、心変わりしてもおかしくないとは思っていた」
「……どうして」
「え?」
「どうして、医者になってほしくなかったの?」
「……あー」
父さんは俯いた。
「……長らくこの仕事をしているからこそかな。辛い経験をする機会も少なくない仕事なんだよ」
「……そんなこと」
「あるよ。たくさんの人を救うことが出来なかったからね、僕は。……それこそ、最愛の人さえも、僕は救うことが出来なかった」
……そうか。外科医をしている父さんにとって、母の死は……自分の無力さを実感させられる辛い体験だったんだ。
だから、父さんは本心では僕に医者を目指してほしくなかった。
『そうかい。頑張ってね』
……医者を目指すと僕が宣言した時、父さんは最初呆気に取られて、少しして微笑みながら僕の頭を撫でてくれた。
自分と同じ医者を、息子が志してくれたことを喜んでくれたと思っていた。
でも、本心は……。
思い返せば、あの時の父さんの顔は……微笑んでいたけれど、どこか寂しそうでもあった気がする。
ずっと僕の意思を尊重してくれていたんだ。
ずっと……僕の気持ちを汲んでいてくれたんだ……っ。
「は、ハル……?」
涙がこらえ切れなかった。
嗚咽が漏れた。
泣き出した僕を慰める父に気付いて、申し訳ない気持ちになった。
……これっきりにしようと心に誓った。
くだらないことで悩むことも。
独りよがりになることも。
一人で抱え込んでふさぎ込むことも。
こんな惨めな思いはもうたくさんだ。
「父さん」
泣き終えた後、しゃがれた声で、僕は言った。
「僕、絶対に小説家になってみせるから」
「うん。頑張って」
そして今度こそ、父を裏切らないように、結果を示そう。
心に誓った僕は、同時に一人の少女に心の底から感謝した。
これにて一章完結です。
我ながら暗い一章になりました。とりあえず一章の内になあなあで主人公に小説を書かせようと初めは思っていたが、この主人公の性格的に、父への相談なしに小説を書き始めることなんてないなと思い、説得に十二話を要した。
まったく、主人公をこんな面倒な性格にしたやつ誰だよ。
まさか俺か……?
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