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第十話 約束

『ハル君は大人しくしていて偉いね』


 母の通夜の日、僕は名前も知らない、目尻に涙を蓄える親戚のおばさんに頭を撫でてもらった。

 おばさんの手は、母より少し硬く感じた。

 頭を撫でられたことは嫌ではなかった。特段、嬉しくもなかった。


 通夜が執り行われる会場の至る所で、誰かのすすり泣く声が聞こえてきた。

 こんなにもたくさんの人が泣く場所を他に知らなかった僕は、通夜会場での光景を未だに鮮明に記憶している。


 大切な母の弔いの場。

 坊主がお経を読み、父は参列者に頭を下げる。

 ……僕は涙を流さなかった。

 母が死んだその日に散々泣いたせいで、通夜の日まで取っておく涙がなかったのだ。


 ただ、あの通夜の日、涙を流さなかった人は、僕だけではなかった。


『本日はお忙しい中、ご参列ありがとうございます』


 参列者に頭を下げる父もまた……涙を流していなかった。

 いや、少し違う。

 父は、母が亡くなったその日から、一滴たりとも涙を流していなかったのだ。


 大切な妻の死を、悲しむこともしなかったのだ。

 ……当時の僕には、そんな父が酷く冷酷な男に見えていた。


『ハル、ご飯出来たよー』


 母の葬儀が終わった後、父は以前よりも家にいる時間が多くなった。

 母がいないため、父は仕事だけでなく、家事もしなくてはいけなくなったのだ。


『お父さん、僕に何か手伝えることはある?』


 僕が家事の手伝いを申し出たのは、別に父の負担を減らしたいと思ったからではない。

 父に何も出来ない子供だと思われたくなかったのだ。


『ありがとう。でも大丈夫だよ』

『……でも』

『大丈夫。ハルは勉強を頑張りなさい』


 父は優しく微笑むばかりで、僕の申し出を聞き入れてはくれなかった。

 子供扱いされていることが、少し腹立たしかった。


 当時の僕と父の間には、それくらいの溝があったのだ。


 父への疑念が解消されたのは、母が亡くなった二カ月後くらいだった。

 その頃の僕は……恥ずかしい話だが、母を失った悲しみを、まだ乗り越えられていなかった。

 一週間に二度程、母の夢を見て、涙を流して目を覚ましてしまっていたのだ。


 その日も、草原の向こうで微笑む母の夢を見て、僕は夜、目を覚ましてしまった。

 いつもならすぐにもう一度寝ることが出来るのだが……その日は、中々寝付くことが出来なかった。


 僕はキッチンで麦茶でも飲もうと、自室を出た。

 時刻は夜中二時。

 リビングには、明かりが灯っていた。


 明日も仕事だと言うのに、父はまだ眠っていなかった。


『……あんた、大丈夫なの?』

『大丈夫。大丈夫だよ』


 父は、スマホをスピーカー状態にして、誰かと電話していた。


『心配しないでくれよ、母さん』


 電話の相手は祖母だった。

 気付いたら、僕はリビングにつながる扉の前で、二人の会話を盗み聞きしていた。


『でも……晴海さんを喪って、仕事に家事にって、大変でしょう』

『……まあね。それだけ、家事を彼女に押し付けていたってことだね。よくわかった』

『今はそんなこと言っている場合じゃないでしょ? ……この前の話、考えてくれた?』


 祖母の声は、どこか辛そうだった。


『……この前話した通り、ハルちゃんを連れて、実家に戻ってきたらどう?』

 

 ドキッとした。

 祖母の実家は隣県にあるから、祖母の申し出を受け入れることはつまり、この地から離れることを意味するから。

 

 ……この地から離れることは、絶対に嫌だった。

 花蓮がいるからだとか、そういう事情もあるにはあるが……一番の事情はそれではなかった。


 この土地には。

 この家には……。


 母とのかけがえのない記憶が、たくさん残っているのだ。


『僕は大丈夫だよ。ここに残る』

『……でも』

『この家には、晴海との思い出がたくさんあるから』


 ……正直、僕は驚いた。

 父が、僕と同じ感情を抱いていたことに。

 父は冷酷な人だと思っていたから。

 家庭のことなど、顧みない人だと思っていたから……。


 でも、そうではなかった。

 思えば当然のことだった。

 父は僕より母といる時間が長かったのだから。

 父は僕が物心つくより前に、僕と出会っているのだから。


 ……そんな父が、冷酷な男なはずなかったのだ。

 父はただ、僕達家族の生活を豊かにするため、仕事を優先していただけだった。

 

 そんな父を一時でも冷酷な人だと思った自分を、僕は呪った。

 そして、自分と同じように未だ母を喪った悲しみに暮れる父を、何とか励ましたいと思うようになった。


 父を励ますにはどうしたらいいか。

 父を喜ばすにはどうしたらいいか。

 

『こんなに勉強が出来るのなら、将来、お父さんのようにお医者様になったらどうかな?  お父さん、きっと喜ぶよ?』


 思い出したことは、いつか母が僕に言ったセリフだった。

 

 当時の僕は、安直だった。


『お父さん』


 翌朝、僕は出勤前の父を呼び止めた。


『何かな、ハル』

『僕、将来はお父さんと同じお医者さんになる』


 ……先程、僕は響詩に、父に医者になると約束をしたと伝えたが、少し違った。

 実際は……僕は、医者になる、と父に宣言したのだ。


 これまでの父への非礼を詫びるため。

 これまでの父への扱いからの罪悪感のため。


 ……僕は、父に喜んでほしかったのだ。

 僕の宣言を聞いた父は最初、目を丸くしていた。五歳の僕の突拍子もない発言に、困った様子だった。


『そうかい。頑張ってね』


 ただしばらくすると……父は優しく微笑みながら、僕の頭を優しく撫でてくれた。


 父が微笑んでくれた事実は、僕にとっては救いの瞬間だった。

 許された。

 許してもらえた。


 それだけで良かった。

 それだけで……宣言通り、愚直に医者になることを目指すことが出来たのだ。


 でも僕は、あのファンタジー小説に出会ってしまった。

そろそろ読者からラブコメ要素がどこにあるのか聞かれそうでビクビクしてる

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