第二十九章:和菓子の音、ふたりの距離
海外公演の準備が本格化し始めたある日。
稽古を終えた天馬は、久しぶりに浅草の老舗和菓子店「千春堂」を訪れた。
この街の風情が好きだった。昭和が息づくような店構え、道端に置かれた招き猫、のれんをくぐると漂ってくる、ふわりとした甘い香り。
「……いらっしゃい」
顔を上げた店の奥から、舞が出てきた。
白い割烹着姿に、額に流れる一本の髪。変わらないはずなのに、どこか大人びた彼女の姿に、天馬は一瞬、言葉を忘れた。
「お、お久しぶりです」
ぎこちなく頭を下げる天馬に、舞はふっと微笑んだ。
「相撲、見てるよ。テレビで。土俵入り、すごく綺麗だった」
「ありがとう……でも、ちょっと賛否あるみたいで」
「あれは、ちゃんと“覚悟”がある動きだよ。うちの父も感心してた」
奥からは、職人肌の店主――舞の父の声が「天馬か!」と響いてきた。
天馬は昔、この店の裏でこっそり相撲を取っては舞に叱られていた。あの頃の甘くてほろ苦い記憶が、胸の奥でふっと揺れた。
「実は……今度、パリに行くことになって」
天馬が切り出すと、舞の目が驚きに見開かれた。
「え? 相撲で……?」
「うん。文化庁が主催で、土俵入りや型を演出として見せる。伝統と美を世界に伝える試みなんだって。僕が選ばれたのは、たぶん“元モデル”っていう異色さもあるけど……でも、相撲で伝えたい」
舞は黙って天馬の目を見ていた。
その視線に、何かを測るような静けさがあった。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……きっと、あなたにしかできない。相撲って、“型”と“心”の芸術だから」
そう言うと、舞はふいに厨房のほうへ戻り、一つの小箱を持ってきた。
「これは、新作の和菓子。名前は《風土》。“風”と“土”を感じてほしくて作ったの」
天馬がそっと箱を開けると、中には淡い青と薄紅の和菓子が並んでいた。
見た目は花のようでありながら、中心には黒糖あんが包まれている。
一口食べると、やさしい甘さが口の中に広がり、ほのかに塩が効いていた。
「……なんだろう、懐かしくて、でも新しい味がする」
舞は微笑んだ。
「それ、あなたの相撲と似てるなって思って」
その言葉が、胸にしみた。
自分はずっと、“変わり者”だと言われてきた。
モデルを経て、化粧まわしに個性を出し、SNSでバズって、伝統を壊すと批判された。
けれど、こうして一つの和菓子が“新しさと懐かしさ”を同時に届けるように――
相撲もまた、そうあっていいのではないか。
「ありがとう、舞。……帰ってきたら、もう一度、話せるかな」
天馬がそう言うと、舞は少しだけうつむいてから、ふっと微笑んだ。
「うん。待ってる。だけど――勝って帰ってきてね。土俵でも、あなたの中でも」
外に出ると、春の風が街を包んでいた。
天馬は、和菓子の箱を胸に抱きしめながら空を見上げた。
――この風が、土俵を越えても、ちゃんと自分を繋いでくれる気がした。