第二十三章:天馬派の芽吹き
名古屋場所を目前に控えた六月初旬。
名古屋市郊外の巡業稽古場には、すでに真夏のような熱気が漂っていた。土俵の砂が焼けるほどの陽射しの下、各部屋の力士たちが滝のように汗を流してぶつかり稽古をしている。
天馬の姿も、その中にあった。
無駄のない動きで回しを取っては、重たい相手を投げ、押し返し、受け止める。
その眼差しは鋭く、だがどこか静けさを湛えている。
「……あいつ、変わったな」
控えから見ていたある幕下力士が、ぽつりとつぶやいた。
「前はもっと派手に見せる相撲だったのに、今は地道で堅実だ。それでいて、投げが速い」
「“見せる相撲”から、“魅せる相撲”になった、って感じかもな」
そんな会話が、いつしか若手力士たちの間で交わされ始めていた。
天馬の土俵入りが「ショー」と揶揄されたあの日から、わずか二ヶ月。
だがその間に、彼は黙々と稽古を積み重ね、写真集やインタビューには必要以上に出ず、言葉よりも“勝ち星”で自らを証明し始めていた。
ある日、稽古後に風呂上がりの天馬のもとへ、若い力士がそっと声をかけた。
「……天馬関。あの、僕、あの化粧まわしにすごく憧れてて。勝手に真似したら怒られそうなんですけど……」
「やってみなよ。怒られたら、俺の名前出していいよ」
「えっ……!」
「伝統ってのは、守るもんだけど、育てるものでもあるって、俺は信じてる。若い奴が、格好つけたくて何が悪い?」
その言葉に、少年のような瞳が輝いた。
同じ日、別の部屋の若手からも、「天馬さん、どうやって表情を保ってるんですか?」という質問が飛ぶ。
稽古中も、土俵上でも、彼はいつも凛とした顔をしている。写真映えだけでなく、精神面の強さがそこにあると噂されていた。
「写真撮られるのに慣れてるだけかも。……でも、相撲も写真も、結局“残すもの”だろ? 一番の瞬間を切り取るのは同じ」
彼の言葉には、派手さではない“芯”があった。
気づけば、数人の若手力士が彼の稽古の後をついて回るようになっていた。自発的に、天馬の取り組みを観察し、彼の技や所作をまねる。
稽古後のシャワー室や食堂では、「俺、来場所から桜の刺繍入れてみようかな……」「あの型、真似したいけど体がついてこない」と、まるで部活のような会話が交わされていた。
そんな空気の変化を、風間親方は黙って見守っていた。
「“天馬派”……か。名前が先に歩き始めてるな」
ある夜、親方はふとつぶやいた。
「……でも、派閥じゃなくて、流派になるなら、それもまた一興か」
一方、舞の和菓子店「まい堂」では、ある新作が話題になっていた。
それは、天馬の化粧まわしを模した「桜舞う練り切り」。
薄紅色の餡で作られた美しい桜の花びらに、黒胡麻で描かれた小さな力士のシルエット――。
「これ、まいちゃんが考えたの?」「うん。天馬くんの“頑張る姿”を、お菓子で応援したくて」
老若男女が、そのお菓子を頬張りながら語るのは、力士・天馬の話。
土俵の外でも、彼の相撲は“響き”を生んでいた。
やがて夏。
名古屋場所の取組表に、天馬の名前が堂々と前頭筆頭として記される。
その下には、同じく「桜」の意匠を施した若手力士の名が、いくつも並び始めていた。