2話 優しい契約
私はコンコンコン、と三回、執務室の扉をノックし、
「アルメリアです。あの、よろしいでしょうか?」
と、声を掛ける。
「ああ、入れ」
「失礼します」
少しの間、部屋で休ませてもらった私はフィンガロン邸、執務室の場所を侍女のケイトリンさんに教えてもらい、そこへやって来た。
(……ええ? これが執務室なの?)
思わず声に出そうになったのを堪える。
ディアブルス様が邸宅内にいる時、ほぼ常駐しているのはこの執務室だと教えられ訪れてみたものの、私がよく知る執務室とは大きく印象が異なっていた。
「身体はもう平気なのか?」
第一に私の身体を気遣ってくれている。
こんなこと、故郷の実家でも王宮でもほとんどなかったからそんな気遣いの一言でも思わず感情が込み上げそうになった。
「あ、ありがとうございます。もう問題ありません」
「そうか。無理だけはするな」
「は、はい」
優しい。けれど、これは罠よ。
油断しちゃダメ。何と言っても彼は残虐非道の悪魔卿なんだから。
私は自分にそう言い聞かせる。
「散らかっていてすまない。キミが扉を開けたところから前へ3歩進み、そこから左手側4歩の所にある椅子へ腰掛けてくれ」
散らかっている、というよりは色々な物があちこちに置かれているという感じのその執務室は、当然たくさんの書架や紙束、ペンなどはある。
しかしそれよりも奇妙な形をしたフラスコやシャーレ、不可思議な色の液体が入った瓶が多く並べられており、まるで研究室のようにも見えた。
――人体実験場。
そんな嫌な言葉が頭をよぎる。
「あ、あの……ディアブルス魔導卿……」
「私のことは呼び捨てで構わないと記載してあったはず。とはいえ、まだ書類全てには目を通してはいないか」
「え? ええ、先の契約書類にはそうありましたが、それはさすがに……。ではせめてディアブルス様とお呼びさせてください」
「わかった」
「それでなのですが、椅子に座る前にこちらの書類をお渡ししたいのですが、近づいてもよろしいでしょうか?」
ディアブルス様は私が執務室の扉を開けた時から、私に背を向けて話をしている。
彼が目を通せと言った契約書類にも『不必要に私の半径2メートル以内に近づくな』という一文があった為、私は今こうして確認をしているわけだ。
「それは何の書類だ?」
「えっと、ディアブルス様が目を通せと仰られた書類の、私に対する質問の回答をまとめたもの、ですが……」
「馬鹿を言え。まだ二時間も経っていない。あの量の書類の読了とそれに関する回答全てができるわけがないだろう」
「あ、あの……本当に終わっているのですけれど……」
私の言葉に彼は思わずこちらを振り向きそうになったようだが、慌ててまた私に背を向け、何かを胸ポケットから取り出してそれを顔に取り付けているのが窺えた。
アレは何かしら……仮面?
「……私のデスクに持って来て、それを置いてからその椅子に座ってくれ」
「わかりました」
私は言われた通り彼のデスクの上に書類を置き、そして少し離れた位置にある先ほど指定されて椅子へと腰掛けた。
すると彼は片手で顔を隠すような仕草をしつつ、私が置いた書類の束を手に取り、再び私に背を向けて書類に目を通し始めた。
「……綺麗な字だな」
「え?」
「アルメリア。キミの文字はとても流麗で読みやすい」
そんなこと、初めて言われた。
思わず顔がカアッと熱くなってしまって、お礼を言うタイミングを逃してしまった。
「……アルメリア。まさかとは思うが、本当にあの書類の束全てにもう目を通した、のか?」
「は、はい」
「そうか。なるほど」
ディアブルス様はそういうと、私が渡した書類をペラペラとめくり、最後の一枚のページだけを少し長めに読み込んでいた。
そして彼は衝撃の言葉を私にぶつけてきた。
「アルメリア・リインカーネル嬢。可能ならばキミを我が妻として迎えたい」
「え、ええ!?」
「書類に目を通したならばわかるだろう?」
「そ、それはそう、ですけれど、まさかこんな、突然……。それに私は使用人として、こき使われるのだと思っていたのに……」
「使用人は使用人としての仕事を与えているだけで、私は見合った対価を渡しているし、それに対するフィードバックも行ない、万が一彼らからの不満があるならば可能な限り譲歩するよう心がけている。よって、彼らを下に見てこき使う、という表現はあまり好まない」
「も、申し訳ありません。ですが、その……」
「確かに私は契約書類に、これらの契約内容を完全に理解し、遵守し、そして納得できるなら、いくつかの選択肢を与える、と書いた。その内容のひとつに我が妻となる、という内容もあっただろう?」
「ありました。が、それはディアブルス様の特別な条件を満たした場合、とも記載されておりました」
「キミは本当にあの細かな契約書類をあの短時間で読破しているのだな。その通りだ。キミはそれを満たした。だから私はキミを妻にしたいと思った」
「わ、私なんかがどうして……?」
「なんか、という自分を卑下するような言葉は好まない。人にはそれぞれ敬うべき特技や知識がある。特にキミには類い稀なる技量があることがわかった。だからだ」
「それってつまり、契約結婚、みたいな感じ、でしょうか?」
「そう思ってもらっても構わない」
「そ、そうすると私は……し、死ななくても良かったりする、のでしょうか?」
「は? 何故キミが死ぬ?」
「わ、私は……王宮に居られなくなって、ここに連れてこられました。追放された私は……そ、その……わ、私はきっとここで殺されるか、それよりも酷い目に合わされるんだと……私は、わた、しは……ッ」
ポロポロと涙が溢れ出てしまって言葉がうまく紡げない。もしかしたら、という微かな可能性が現実味を帯びて来てしまったせいで。
「ふむ。キミは何か大きな勘違いをしているな」
ディアブルス様の声のトーンが低くなった。
やっぱり私の勘違いなんだ。
そうよね、私なんか――。
「どうやらあちらとの契約と情報に大きな齟齬があるようだ。キミは死なないし、キミを奴隷のように扱うこともしない。そして私がキミを虐めるようなこともない。キミはキミらしく、健やかに安全にこの屋敷で過ごせることを約束する。例えキミが私の妻にならずとも、だ」
――ああ、神様って本当にいたのね。
ディアブルス様の言葉がまだ私には真実か嘘か判断はできなかったけれど、彼の優しさ溢れる言葉に私は思わず、その場で泣き崩れてしまったのだった。