第9話‐②
この国、アルスタント王国の文字はとても難解で難しい。
葵は何とかして自分の名前くらいは書けるようになったが、それ以外の文字はとっくに諦めていた。
比較的、覚えられそうな字は文脈に限らず関係の無い単語達をいくつか覚えたが、それでも覚えていないに等しいほどの少なさであった。
これ以上は無理だと考えなくてもわかったからだ。
心が折れそうな程の難解文字で、英語が嫌いであった葵も英語の方がマシだと思うほどだった。どの字くらい難しいのかと言われたら、日本の現代人が昔の江戸時代のあのミミズ文字を解読するほどの難しさだ。中にはそのミミズ文字を読める人はいたが、それは余程好きを突き詰めないと無理だと思われる。
葵自身、一度はクレイツから見せてもらった手紙の一例を見て、書けなくてもいっかと諦めたのだが、クレイツにせめて自分の名前は書けるようになれと言われたので渋々頑張って覚えた記憶がある。
自分の名前を書けるようになるだけでも一週間はかかり、他の簡単な単語を覚えるのに数週間も要したのだからまさに地獄である。
この少ない文字を覚えても意味ないよなぁと思ったのはクレイツには秘密だ。
そして早速、その時思った事が現実になった。
この国の文字が書けないのであれば書置きをするのも意味ないし、したとしても誰も読めないだろう。
名前と数少ない単語しか書けなくて、後は日本語しか書けない事に葵は「はぁ…」と溜息を付いた。
(こんな所で息詰まるとは……)
何も言わず出て行く事に躊躇いを感じた葵のせめてもの打開策が書置きを残す事だった。それなのに、その打開策すら砕け散るとは…。
この国に日本語を知っている人なんていないよな……と思った時、ふとある人物の顔が思い浮かんだ。
「…いるじゃん…この世界で日本語を知っている唯一の人が…」
葵の脳裏に浅倉椿という女性が思い浮かんだ。
この国の魔物を討伐するために召喚されて、葵と同じ元日本人で日本語を知っている人。
聖女となった浅倉椿とは一度しか会っていないけれど、今になってその存在が葵にとって救いだった。
この行為によって葵が異世界人だと分かってしまうが、初めて会った時の彼女の様子から察するに恐らく葵が異世界人だと薄々気付いている。
それに、もう二度と会う事がない予定なので今更である。
そうと決まれば普通に日本語で書く事にした。
この置手紙を最初に見つけた人物が例え読めなくても、椿が通訳してくれるだろうと勝手に決めつける。いや、読める人が椿しかいないのであれば自ずと自然な流れで椿が読むことになる。決して押し付けるのではないと自問自答しながら、何を書こうかと振り出しに戻りつつ、ゆっくりと羽根ペンを走らせた。
そして数分後
「……出来た!」
ついに置手紙が完成した。
まぁ完成と言ってもたったの五文字なのだが。
頑張って覚えた数少ない単語の中に書きたかった文字はなかったので落胆したがもう何も考えまい。
最初は感動的な感じに書こうかとか、拝啓から始まる手紙を真似ようかとも思ったが、これは手紙ではなく置手紙なのだ。そんな感動的な文も拝啓も必要ないざっくりとした短い文章で十分じゃないかと考え直した。
そして、葵らしくそっけない短い文、たった五文字の後に一週間かけてかけるようになったこの国の文字でアオイと書いた。
これなら、葵が書いたと信じてくれるだろう。
葵は結構時間が掛かったなと反省しながら、出来立てほやほやの置手紙を目立つであろうテーブルの上に置いて立ち上がった。
まだ完全には朝日は昇っていないようだ。
それ安堵しながら葵は無言のままバルコニーに出て後ろを振り返った。
(クレイツおじさん…良くしてもらったのにこんな別れ方になってしまってごめんなさい…)
葵は泣きそうな顔で心の中で呟いた。
それと同時に、今までの楽しかった思い出が脳裏に蘇る。その思い出を脳裏に焼き付けながら奥歯を噛み締めた。
溢れ出してしまわないように、流さないように。
少しして気持ちが落ち着くと、バルコニーから見える部屋を軽く見渡した後、また前に向き直った。
「……さようなら」
消え入りそうな声で呟いた言葉は涼しい風によってかき消された。
葵は誰も居ないのを確認してから、風の魔法でバルコニーから飛び降りた。
もう一度、誰も居ないのを確信してから今度こそ邸を後にした。




