第7話‐①
クレイツの部屋から戻ってきた葵は電気も付けず、月明かりだけを頼りにテーブルの上に置きっぱなしになったままの生ぬるくなったコップに入った水を、血がべっとり付いている掌に豪快にぶちまけた。
それだけでは落ちきれないのを分かっていた葵は、絨毯の上に水が滴るのを視界の隅で確認しながら、追加で魔法の力を借りて水を掌に当て続けた。
魔法によってもう片方の手から流れ続ける水は、ボタボタと絨毯に鈍い音を響かせながら落ち続ける。月明かりしかない暗闇の部屋の中に響き渡る音としてはとても不気味である。
そうして、数十秒間後べっとりと掌に付いていた真っ赤な血は綺麗に洗い流されていた。それに満足をしている葵だがすぐに現実に引き戻された。
葵の周りの絨毯に視線をやると絨毯は見事にびしょ濡れになっていたのだ。まぁ考えずともここで水の魔法を使った時点でその惨状はお約束されていた訳なのだが。
葵は「はぁ…」とため息を付いた後、今度は風の魔法を発動し濡れた絨毯を乾かし始めた。
のだが…風の魔法だけではびしょ濡れになった絨毯はすぐには乾いてくれず、葵を苦しめていた。
「ぐぬぬ……早く横になりたいのに…」
発作をしたばかりの身体はとても重く、今すぐにでもベッドにダイブしたいのだが、流石の葵も借りている部屋をこのままにはできないと頭を悩ませる。
部屋の中を温かくしようか、それともどこからか火を貰ってきて火を近付けて乾かそうか…いやでも万が一にも絨毯に火が燃え移ったらシャレにならないと頭をぶんぶん振る。
このままではあと何時間こうやっていればいいのかと葵が頭をガックシと俯かせた時、葵の頭に閃きの神様が降ってきた。
「これだっ…!」
葵は左手で風の魔法、右手で火の魔法を発動させた。
今まで葵は片手で一つの魔法を発動させるか、両手で一つの魔法を発動させるかのどちらかしかやった事がなかった。
ただ、クレイツはたまにそれぞれの手で同じ魔法を発動させていた。前から来る獲物と、後ろから来る獲物にそれぞれ火の魔法を放っていたのを葵は覚えていたのだ。
だったら、その応用でそれぞれ右手と左手で違う魔法を発動することはできないのかと思い、試しにやってみたら見事に発動に成功した。
これなら風の魔法で火の熱風を絨毯に当て続ければ風の魔法単独よりも乾かすのがめちゃくちゃ短縮できる。
「我ながら頭がいい」
と、自画自賛しつつものの数分で絨毯は綺麗に乾いたようだ。
途中、少し火が絨毯を焦がしたのは見なかった事にしよう。
そして、葵は絨毯が乾いた事を確認すると、一直線にベッドにダイブした。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああ……」
盛大なため息を漏らし、その声は闇の中へと消えていく。
ベッドにうずめていた顔を起こし、姿勢を仰向けに正す。
暗闇の天井を見つめながら、葵の頭には先程起きた出来事が思い出されていた。
自分から発作になり得る引き金を引いたとはいえ、まさか二度も続けて発作が起きるとは思いもしなかった。
クレイツには何とか誤魔化せたはずだが、知られるのが一番面倒くさいアイルに知られるとはとんだ誤算である。
(まぁ……何とか口封じには成功したけど……………したよね?)
アイルの性格上、そう易々と言ったりはしないだろうけれども。
一応、クレイツはアイルにとっては師匠であるのは違いないし、師匠には嘘が付けない人ならあの口封じも意味がない。
(でも…)
何故だろう。アイルはきっと言わないだろうと思ってしまう。決して、アイルを信じている訳ではないが、心の奥の自分が言っている。アイルは決して自分の嫌な事はしないと。
どうして、そう思うのかは分からないけれど、今はその直感を信じたい。
(とてつもなく不安ではあるが…まぁでもそれもあたしがここを出るまでの口封じなんだしそんなに思いつめることも無いか…だってあたしには……)
「もう…後がない」
クレイツの前で発作を起こした時点で、次に葵がとる行動は決定していた。どんなに嘆こうが喚こうがもうここには居られないのだ。
(クレイツおじさんには元居た時代に戻りますとでも言えばいいかな……すごく礼をかいたやり方だけど……)
葵は目を閉じながらどうやってクレイツに言い訳しようか考える。
「…いや……それもそれでやめた方がいいか?」
例え、それが葵にとって嘘でも、クレイツにとってそれは本当の話になる。
元の時代に戻りますとか言って、万が一にでもどこかで再開したら流石のクレイツでも激怒するだろう。それはそれで普通に面倒くさい。
ならいっそ、何も言わずアンデッドを倒してそのまま消える……しか方法は無いように思える。
何も言わず消えるとか人として最低なのは十分承知しているが、その方が後腐れがない気がすると葵は思う。
クレイツ達には迷惑かけるけれど、どの道もうここには居られないのだ。なら、気持ちが楽な方で居なくなりたい。
自分自身で招いてしまったこの事態、元々は元居た日本での出来事に彼らを巻き込みたくはないのだ。
でもそれは、葵のわがままで自分勝手な行動に変わりはない。
(やっぱり…一人でいる方が楽なんだ……)
最初から一人だと周りの目も気にしないし、巻き込むとかも考えなくていい。最初から一人で居ればよかったんだ。
これでいいんだ。
そしたらもう何もかも元通り。
クレイツおじさんが消えることもないし、その事で悲しむ人もいない。
居なくなっても漫画の内容に戻るだけだと思うから何も心配はいらない。ていうか元々葵の存在自体、この漫画の内容には無かった。
だから、消えても問題ないだろうし、むしろ葵はこの世界に居てはならない存在だったのかもしれない。歪な存在。
(歪……)
葵は暗闇の中、静かに目を閉じた。




