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風琴ねずみと夜の電車 一  作者: 倉沢トモエ


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33/70

山本氏

「あれ、山本さんでねえの」

「よう。通りかかってみたら、名刺交換とは。なにかいい話がまとまったのかい」

 辻氏とともにカフェー・コネコ、いや、カフェー・プティ・シャ・ノワで楽団の一員を勤めている山本氏である。

 博士が、お知り合いですか。それでは、と会釈をして輪から離れ、次の口上の支度をはじめた。

「なあに、実験に感激したので、お近づきの印のご挨拶だよ。

 なんだ、相変わらず目立たない顔をしているんだなあ」

「男前に言われると癪に障るなあ」

 その言葉、自身を男前とは考えていないような風であるのを秀真くん訝しんだ。

「ははは。

 辻くんは、昔から僕よりも持てるんだぜ」

 そういえば、整った顔立ちというものの中には、それがために特徴に欠け、印象に残らないというものがある。マネキンのよう、そうだ、整えられ洗練され、かえって没個性となるのだ。

 よくよく見れば山本氏は確かにそこに分類される。とはいえ惹きつけられる婦人は少なくないのだ。謙遜である。

 先日、休日でくつろぐ秀真くん宅の庭先からひょっこり、

『匿ってくれよ』と、苦笑いしながら現れたことを、よもやお忘れか。借金取りがあるとは聞いたことがないから、ははあ、色男の方面だべか、と、思わず口にして家人に怪訝な顔をされた。

 家人、鈴くんが、先ほどなんだか妙なニヤニヤした男が玄関先を嗅ぎまわっていた、と、気味悪そうに申していたのを聞いた山本氏は、ああ、それを巻こうとしていたんだ、とこれまたニヤニヤして安堵していたものである。

 そういえばあの件、結局、どの方面の追手だったのか、うやむやなままだった。

「いいんだよ、楽士は暗闇に紛れて、腕さえありゃあ。

 藤原義江みたいな艶聞は君、ありゃあ僕の経験上でも、くたびれるだけだぜ」

 切符が三円もするオペラ界のスターを引き合いに出してきた。

「山本さん、今日は店でねがったの」

「うん、うちのが調子を崩してね」

 うちの、と聞いて、秀真くん、おや、と思う。

「ああ、秀真くんにはまだ話していなかった。

 実は、今度、親父になるんだよ僕はね」

 今夜は驚くことばかりだ。

「おめでとうさん」

「色男は免許皆伝で修了するんだね」

 辻氏がまたからかうと、

「ありがとう。免許皆伝とは嬉しいね。確かにもう飽きるほど修業は済ませた。

 とはいえものの順序は前後していてね。祝言はずっと先になりそうなんだが」

「塩梅はもういいの」

「おかげさんで落ち着いたよ。今、僕らが住んでいる所帯持ち向けの寮の空き部屋には、今晩までマダムの伝手の可愛らしい客人が大勢いたもんだからね。うちのは毎日客人たちと顔を合わせるうち親しくなって、みなさん楽しそうだわ、なんて平気な顔をしていたが、気疲れしたんだろう。

 それで、リンゴが食いたい、なんて言うからね。

 こちらの生れじゃないんだ。となると、いつでも新鮮なぱりぱりのリンゴはうれしいものらしいよ」

 抱えている小さな包みから、甘酸っぱい匂いがすると思った。ほら、と、いいリンゴの重みを見せようとしたのか、両手に持ちかえたとたん、ぱりん、と、包みの中から果実が割れる音がした。さすがの博士もこちらを見た。


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