マダム
髪にはいつも鏝を当て、近づくとよい匂いがする。仕立ての上等なドレスをさらり、まとい、口元には貴婦人のような付けぼくろ、肘までのレースの長手袋、肩には同じくレースまたは毛皮のショール、首にはエメラルドのネックレス、指にも同じくエメラルドの指輪だ。
『Café putit chat noir、看板は掛け替えたのですから、そうおっしゃって』
カフェー・プティ・シャ・ノワ。
ダンスホールも同じく、ダンスホール・プティ・シャ・ノワである。
プティ・シャ・ノワ、とは、黒い子猫を意味するらしい。
なるほど。春と夏には絹や麻、秋と冬にはびろうど、いずれも黒の衣裳をお召しの印象があるあのマダム、女給仕の子猫たちをよくよく監督する、だいぶ育った大姐御猫であらせられる。尻尾が何本あるのやら。
「カフェー・プティ・シャ・ノワ、そう言いたまえ」
辻氏は自分の勤め先をもったい付けて申した。カフェー、が、キャフェー、に聞こえた。
プティ、小さな、とは、さてはモンマルトルのほうの本家に遠慮をしたかね。感心する御仁もあったが、なに、何処すか、モンマルトル。
とまあ、さまざまな批評があるが、そこまでやかましく申すものでもない。これら意匠はマダムのみの責ではなく、そもそもは「もはや他人」の、先代のご主人による意向であるという。店を残されたマダムは鉛筆なめなめ、店内改装をあまりせずに済むふさわしい名前をひねりだそうと苦心したまでのこと。
世間と当局の冷たい視線の中で一階のダンスホールを維持することだけでも経営はぎりぎりなのだ。二階にあまり予算をつぎ込めなかった。そのため雰囲気が変わらず、秀真くんのように、古くからの市民になかなか新しい名が浸透しないのが悩みだとか。改名より三年は経つというのに。




