帽子の奇術
「いつからあるんでしょう、あの帽子」
ソファに、幅広の縁のついた黒い帽子が置かれていた。
誰の忘れ物かといぶかると、帽子が誰も触れぬのにふわり、と浮き上がった。
浮き上がったのではない。帽子の下から黒い塊がひょっこりと飛び出して、天井に向って真っ直ぐに伸びあがっている。
帽子はその先端にちょこんと載っているかたち。
ばさり、という音がして、黒い塊が実は黒い布で覆われたなにものかであったとわかった。
「ごきげんよう。失礼いたします」
布を取り去ると、中から何者かが現われ帽子を取った。紳士のマネキンのような、背広姿である。
「和久里」
そして、なつかしい名を呼びかけた。たま君の本名である。
「いつ、そんなソファが据えられたんでしょうか。普通のソファに戻していただけるものなのかしら、黒猫の琴さん」
琴さん、と呼ばれ、彼女もまたなつかしさをおぼえたのか、笑った。
近隣の劇場に、奇術団が出ていたのである。いつ何時、どのようなことが起こるか、じつに油断ならない。
琴はもとはこの店にいて黒猫と呼ばれていたのだが、数年前天堂嬢に見いだされて団員となったのである。このたびは『青い鳥』にご出演ということで、なんとも出世をされたことなのである。さらに申すとこちらのカフェー勤め以前は浅草で玉乗りをしていたということで、それより前は誰も知らぬ。たま君とどのような知己であるのかも。
「師匠が、お店の様子とマダムのご機嫌を伺って来いっておっしゃるの。
でも、あまりうるわしい雲ゆきではなさそうね」
このダンスホール、カフェー・プティ・シャ・ノワ。実は現在の持ち主は淡雪天堂嬢なのであった。マダムは形の上では雇われマダムなのである。
天堂嬢は、奇術団のほかアパート経営で手腕をふるっている。今回の仙台公演の逗留先が、このプティ・シャ・ノワの、寮母と楽団員の夫婦一組のみが住んでほかは空いている第二寮であるのはそのためだ。
「公演の評判は上々で、千穐楽おめでとうございます。
でも、当店では毎日、いつものうわさ話がされていたところよ」
「まあ、どんな」
「天堂さんがいらっしゃると、いつも言われる話よ。
またきっと、話がこじれていくんでしょうか、って」
カフェーの女給がささやく『こじれる話』、とは。
「このお店の以前のご主人に未練がおありなマダムと、そのご主人とご縁浅からぬうちの師匠とのご関係の件かしら」
「そんな話があるのは確かですし、あれこれ想像が膨らむのに夢中になるのも仕方ないけれど、この店の女給は低級な話のほかにも興味はあるのよ。
ステージの一件よ」
「ああ、新入りたちがお世話になる話ね」




