鈴くん
「いやあ、鈴の音の方は気にならなかったけっとも」
おらいの鈴。
秀真くんの細君は名を鈴くんと申す。尋常小学校を卒業してから、菅原家の奥方となったこんにちまで、週に二度、小鳩堂に四時間ほど働いて、生活費用や仕送りの足しなどにしていたのだ。
なんだ、たま君は我が家とおそらく額面は違えど、同様の暮らしぶりなのではないか。親しみがわいて、ますます美貌の女給のまぼろしが醒めるようではないか。それとも、そこがかえって贔屓がつく理由なのか。
とにかくサイダーの泡のふわふわした心地から、たま君の堅実ぶり、さらに連想が小鳩堂、細君までつながって、秀真くん、すっかり普段の心持になってしまった。
「それだけではねえんだ。今朝、鈴から帰りは何時だべかと聞かれて、用もねえからそんなに遅くはならねえべと言ったんだけっとも、そうしたらな、」
「なんだい」
「『まあまあ。どうせ辻さんにつかまるんだべ、そうとなったら、つきあってあげらいん』」
「あきれたなあ、そこまでお見通しなのか。さすがの鈴くんだ」
「いや、そうとなれば向かいの房枝くんでも呼んでなんだりかんだり喋ってお茶っコ飲みしてるんだべ。若先生も来て。いつもそうだおな。
かえって助かるべ、交通局の嫁の辛抱、たまにはないほうがいいべ。一人で留守番は物騒だしよ」
荒唐無稽、あきらめるには早いようだ。
まだまだ心はおどる。心がおどるうちなら二人は速めた足をゆるめずに進んでゆける。
「発車します」
いつものように発すれば、鐘が胸の奥でふたつ鳴る。
車両庫に電車を置いてきたところだが、これから誰も知らぬ時刻に滑り込んでくる夜の市内電車に乗りこむ心地がする。




