コーヒー十二銭
「なんだい、荒唐無稽は止したのかい」
急にそわそわし始めた秀真くんを、片手に商売道具のバイオリンケース片手の辻氏がからかう。休日でも片時も身から離さぬ。
「いやあ、なんでだべ、話しているうちに落ち着かねぐなった」
「たま君のせいだな。君に電車の話なんかはじめた。自分の仕送りや通勤の話まで。女給の話にしちゃあ興ざめだろう」
仕事のことならまだしも仕送りの話題など、秀真くんとて毎月他人事ではない。郷里の義兄夫婦らが一念発起し共同でウサギを飼いはじめた。まだ村の負債を清算し軌道に乗るには遠いが、仲買人も見つかり軍に売れることが堅いとわかっているので踏ん張っているようだ。
義姉は数日町へ出て、仲間とウサギの毛で糸を紡ぎネクタイなどを織る、その教習を受けたそうで、冬の内職とすることを目指しているのだが、どうなることやら。
凶作続きで貧しい農村は借金を解消せねばならぬ。助成金を得るには事業を自らひねり出し申請せねばならぬ。自力更生が求められている。
「あの子が噂のたま君なんだ。顔は覚えてくれたかい。
どうだい、話してみて。とりあえず悪いかんじは受けなかっただろう。
彼女、僕がいるのを見つけてわざわざ声をかけてくれるような、そんな子なものだからね。同じ時期に店に入ったものだから、なにかと気を使ってくれているんだな。
もちろん人柄で朋輩にも好かれているんだが、カフェーの女給には不向きだとも言われているんだ。美貌はあの通り、申し分ないんだがね」
「んだなあ。あの話しぶりでは、おらいの鈴みてく小鳩堂くれえの方が向いてるべなあ」
チップをお気に入りの女給にたっぷりはずむなど思いもよらない辻氏と秀真くんに、あら知り合いが来ている、と、気さくに声をかける。いかにも不向きであることを裏付けている行動のような気がした。
とはいえ、プティ・シャ・ノワは、チップを荒稼ぎする、小説に登場するようなふしだらな女給とは縁の薄い、酒の出ない店ではあるので、割り引いて考えるべき話ではあるのだが。
「でも、小鳩堂は誰でも来られる食堂だ。コーヒーなんぞ一杯五銭だ。女給といってもほんとうに給仕の仕事だけだべし、尋常を出たばかりの顔もいて、服は制服、孫みてえにめんこがられるだけだ。エロとは縁がねくて安心だどもカフェーほど稼がんねえからなあ。ここ、コーヒーは十二銭だべ。仕送りなどしておれば……」
さらに冷静に職場二つの賃金比較までして、頭脳が醒めてきた。
「はは。たま君は本来は帳簿の仕事をしているからね。じつは女給は副業なのさ。マダムのお眼鏡にかなった猫さんは、時々そんな稼ぎ方が許されている。鷹揚なのはそのせいかな。僕らの給与計算は彼女の手腕にかかっているんで、丁重にしなければね。
ひらひらとフロアを飛び回ってチップをどっさり稼ぐ方面じゃないんだ。堅実に稼ぐ性分なんだねえ。女給の身なりではわからないが、思いがけない特技も多くて器用な人でもあるんだ。器用だからといって、仕事を増やして申し訳ないことがたびたびあるが、頼りになるんだよ。
ああそれと、鈴。鈴くん。
そうだ、巡り合わせもよくなかったよ。どんな女給が来ても、鈴なんかつけていたらね、君は一発で里心がついてしまうんだから」
小鳩堂というのは、百貨店、藤崎から少し南の通りにあるキネマ館、その隣にあるパン屋兼食堂である。
水色のワンピースに白いエプロンを着けた女給仕が居て、学生やご婦人にオムレツやチキンライス、ビーフシチュウを給仕している。
あんパンやクリームパン、焼き菓子も評判がよく、どん太という名のロバがひく馬車で移動販売もしている。




