檸檬
甘いと思った。
食べているレモンが。
とても不思議な感覚。
山は、静かだった。
いつの間にか、川の流れる音も、気にならなくなっていた。
僕は、何も考えずに、甘くなったレモンを食べ続けていた。
小学校の数年間。
夏休みには、山間にある母方の祖母の実家に滞在していた。
そこは、自分の家からは遠く、まるで別世界だった。
家の作りも古くて、お風呂は薪でわかして、料理もかまどだった。
当時はそのすべてが新鮮で、その不便ささえも、いとおしかった。
家の前を流れる川には、いつも誰かの野菜や果物が冷やされていた。
そして、どういうわけかアヒルがいた。
そのアヒルは、誰かが飼っているわけではなくて、勝手に住み着いたらしい。
僕は、一目見たときから触れたいと思った。
その白くてプリプリした、かわいらしいおしりを、どうしても触りたかった。
そっと近づいていく。
名前のないそのアヒルは、ガアと鳴いて逃げていった。
毎日が冒険だった。
そのうち、同年代のともだちが出来て。
夏祭りにみんなで参加して。
打ち上げ花火を眺める頃には、すこし気になる子がいたりする。
そんなことを期待していた。
けれど、何も特別なことは、起こらなかった。
山間のその集落は、限界集落で、子供はほとんどいなかった。
山は、いつも静かだった。
苦しかったこと。
つらかったこと。
そのすべてを静かな優しさで包み込んでくれた。
ぶたの入れ物に入っている、蚊取り線香。
まっすぐ延びた長い廊下。
ちょっと怖い能面がある客間。
庭の隅の方にある、離れのお風呂場。
もらった赤い実。
それをかじると、レモンが甘くなるって教えてもらった。
甘くなったレモンを食べていた。
縁側で、ひとり夏に向かって食べていた。
僕は、なぜか特別な気持ちになって、今なら何でも出来ると思った。
今度こそ。
今ならアヒルに触れられる気がした。
そっと近付いていく。
でも、やっぱりアヒルは、おしりをプリプリさせながら逃げていく。
間抜けな感じで川に入ると、僕を小バカにするかのように、遠くでガアと鳴いた。
きょうも、なにもないすばらしい、いちにちでした。
ひまわりが咲いている。
甲子園のラジオが、どこからか流れてくる。
それはやがて、川の流れと重なって、静かな夏の向こう側へと流れていった。