私と君と日のあたる場所で
その場所にいるのは私でなくてもいいのだろう
その場所にいたいと思うのは俺の意思だから
譲ることも奪うことも自由
ただ、その選択から逃げることは許されない
私と君と日のあたる場所で
とても眩しい光で目が覚めた。
あまりにも眩しくて、涙が溢れてしまうほどの。それは此方を見ていて、手を差し伸べて笑うのだ。
貴方の名前は。
それを聞いて、ああそうかと納得する。何を言っていたかは分からないのに、その言葉が自分を指すのだとその時初めて理解した。誰かが言っていた。名前がついた瞬間にそれはその名前の存在としてしか認識されない。それは呪いだと。もしそれが本当に呪いだと言うならば、祈りと何が違うのだろう。
「……い、紫音。おーーい、生きてるかあ?」
「死んでる」
「ボクがいるのにキミが死んだとなれば、御当主様はさぞ長々と嫌みを言ってくださるんだろうね。嗚呼想像するだけで吐き気がする」
「あんまり器用なことしてその苛立ちを俺にぶつけられると困るんだけど」
「ならさっさと立ちなよ。ボクは本当はこんなところについてきたくなかったんだから」
背を丸めているせいか前にだらりと流れている髪の間から、ぎょろりと大きな目が逸鬼と紫音に向けられる。隈を作ったその目は異様に迫力があるが、背が低く細柄故にそのバランスが怖さよりも気味の悪さを生み出していた。
「俺、結局どうなったんだ?」
「御館様の盾にはなりましたわ。その後、元々屋敷にかけられていた術式でわたくしたちと当主様は分断されましたの」
「……そっか。此処にいないってことは、兄貴はあっちだな」
「ええ」
紫音が逸鬼の手を借りて起き上がる。体の様子に特に問題はない。倒れる前の記憶には、化け物以外に術式の発動による閃光、そして何かが体をすり抜けた感覚が残っていた。
「体に異常はないよ。ボクも確認したからね」
「サンキュー、蛇の目が言うならば間違いないだろ。しかし妙だな、多分それだけじゃない」
「目眩ましだけではない、ということですわね。ええ、わたくしたちもそう考えています。複雑な術式、指向性のある敵の行動、そして」
「狙ったのは御当主様じゃないだろうね。ついでに言えばキミでもない。おそらくは柊だろう」
神無の言葉に繋げるように、蛇の目が半笑いで意地悪く言った。神無も特に反論するでもなく頷く。へーそうなのか、と頭の後ろで手を組んでいる逸鬼は紫音に確認するように視線を向けた。
蛇の目の指す柊とは皎夜のことである。
紫音も状況を頭の中で確認し、同意の意味で頷いた。
「でもよ、皎なんて狙ってどうすんだ?」
「殺害を想定した威力ではなかったでしょう。ということはそれ以外の目的があった、とするのが妥当です」
「てえと、皎になんかすることで条件が満たされる術式とか?」
「あら、察しがよろしいですのね」
神無が珍しそうに感心した。少々の嘲りを含んだ言葉だが、逸鬼はそれに素直に胸を張った。当然よ、と鼻高々な逸鬼に、蛇の目が図太さも美徳になるんだね、と呟いた。
「あの感じだと、兄貴を想定してるけど、兄貴以外にも発動したみたいだな。というと、やっぱり俺に何かが起きてるってことだけど」
紫音が確認するように蛇の目の方を向くと、蛇の目は眉間に皺を寄せて紫音を睨み返した。少しヒステリックな声音で、ボクの目に見逃しがあるとでも言いたいの、と噛みつく。
「いや、そうじゃないって。蛇の目の診療なら間違いない。だから何処か他で、何かが起きてるってことだ。俺を通り抜けたあの感覚、どっかで覚えがあるんだよな」
「此処は百鬼の属だよ。本家に出入りしている百鬼から似たような術を受けたんじゃないの」
「あり得るな……」
「どちらにせよ、考えていても仕方がありませんわ。御館様を探しましょう」
「さんせー。どうせあっちはこっちを探してねえだろうからよ。このままだと置いてかれんじゃね」
それは確かに。紫音は苦笑いで同意した。
ぎしぎしと軋む廊下を進む。外からはただの日本家屋のように見えるが内部構造は改築されているのか随分複雑になっていた。
この家の持ち主は三年ほど前に他界しており、その後放置されていたようだった。暁の系譜の末席に連なっていたが、暁の才の子が途絶えた辺りから、百鬼の一族に鞍替えした者たち。何故死んだのかは知らされてはいないが、百鬼の実験台になったともっぱらの噂だった。
これが百鬼の本家筋でないのが幸いだな。紫音は周囲を警戒しながらそんなことを考えていた。百鬼であれば複雑さに加え、ありとあらゆる未知の術式がそこかしこに散りばめられていたはずだ。逸鬼であればその身ひとつで乗り切れるだろうが、神無や蛇の目、紫音ではそうはいかない。敷居ひとつ踏み越えるだけで命懸けになっていたことだろう。
「紫音、そちら、右方障子の隙間、気をつけなさい」
「ん、オッケー」
神無に指示された方向をじっと見つめると、ぼんやりと何かが空間に書かれているのが見えた。
理切りは皎夜に教わった技だ。集中力の必要な技だが、紫音は比較的それが得意だった。糸を断ち切るように、水面を揺らさず線を引くように、すうと一筋刀を振る。保護されていない単純な術式は、それだけで形を失い消え去った。
「お見事」
「はー、結構ドキドキするなあ」
「失敗すればわたくしたちも道連れですものね」
「怖いこと言うなよ。まあ、そうならないように頑張ってるんだけど」
「あら、できて当然でしょう?貴女は柊ですもの」
「そう言われるとプレッシャーだな」
紫音が肩を竦めると、神無が口許を袖で覆いながら笑った。見惚れるような綺麗な笑みだが、数秒しないうちにキッと元のつり目に戻り、あちこちを覗いている逸鬼を叱りつけた。
「だってよ、なんか変な臭いがするんだよ」
「しないよ。凩は犬にでもなったのか? 嗅いで回ってみっともない」
蛇の目がうろんげな目で逸鬼を見る。逸鬼はその臭いを形容する言葉が見つからなかったようで、頭を乱暴に掻いて分からないと言った。進めど進めど古びて朽ちかけた部屋ばかりで、中途半端な術式が仕掛けられているだけだった。濁った池のある中庭に出て、四人は一度状況を整理しようと鴉の用意した地図を広げて現在地を確認した。
「えっと、今は……」
「此処だろ」
「逸鬼さんよく分かるな……」
「まーな。龍は何処に向かってんだ?」
「此処か、此処ですわ」
「真逆じゃん」
「事後処理を本家に任せるなんて、いい性格をしているんだね、暁の末席は」
「既に他家に下っておりますもの。家名と品格はその際に捨てられたのではなくて?」
「はいはいそこ喧嘩しない。たぶん家の中じゃないな。というと有力は此方だ」
「蔵の方ですわね。何故?」
「意図的に家の構造がそっちを避けるようにできてる。うっかり迷っても辿り着けないように。一部の術式に細工があって、強度が段違いだった。方向的にも蔵側で間違いない」
「おん? その術式の位置、臭いが強いとこと一致すんな。てことは、あれが相手さんの残り香か」
四人は蔵の方に目標を移すと、複雑な間取りに迷うこと無く進み、木製の仕掛けをいくつか解いて回った。ひとつの大きな部屋に辿り着き、逸鬼と紫音が両側に控えて同時に戸を開く。中には大きな棚が三方向に置かれており、それぞれ四段構造になっていた。端から端までびっしりと並べられた人形は等間隔に綺麗に置かれているにも関わらず、一部が欠損したり焼け焦げていたりと一体たりとも完全な状態のものはなかった。
「うえっ、俺人形苦手」
「逸鬼さんは陰気なものが軒並み苦手だよな」
「あら、壊れているだけで十分綺麗なものもありますわよ」
「目が合うから苦手なんだよ」
「幽霊ならわたくしたちは何度も見てますでしょうに。何が怖いのかしら」
「雰囲気だろ」
「陽気な人間は雰囲気だけで怖がれるんだからすごいね」
「お前は同族だから分かんねえと思うけど、普通は怖いんだぜ、こういう雰囲気」
「なんだよ同族って!ボクが陰気だって言いたいのか!お前のような能天気で無神経な奴にそんなふうに言われる筋合いはないんだよ!」
「ほんと、蛇の目って煽るけど煽られることへの耐性がないんだよな……落ち着け」
紫音が一度端から端までしっかりと確認する。特に危険はなさそうだと思い近づいて観察した。形は様々で、おそらく性別も様々なのだろう。
配置以外に特に法則性はなく、本当にただ並べられているだけのようだった。
「大きなお部屋……此処で全てこの人形を管理していたのかしら」
「此処をどうにかしたら蔵への道が……」
「あれ、紫音」
自分を呼ぶ声に紫音は勢いよく振り返った。入り口に立っていたのは皎夜と龍慶と、紫音自身だった。
「は?」
皎夜がよかった、と普通に会話を続けるので、四人とも流されるように適当に相槌を打つ。しかし視線だけは龍慶の隣に立つ紫音に集まっており、そしてその紫音も困ったように苦笑いをして返すだけだった。
「えーっと、俺、何かしたか?」
「紫音、だよな」
「まあ、そうだな」
「本物ですの?」
「うーんまあ、たぶん」
「こんなのが二人もいられると困るんだけど」
「それは傷つくなあ。でも、確かにそうだな。俺が二人もいるのはちょっと、嫌だ」
「……まあ、こっちも同感だ」
紫音は相手を面倒そうに睨み付ける。相手も警戒するようにじっと睨み返してきた。ほんの少しだけ沈黙が流れ、そして誰かが小さく笑う声が響いた。
「滑稽だな」
「御館様、ご無事でございますか?」
「問題ない。さて、お前たちはどちらが本物だと思う?」
龍慶はいつものような傲慢で不敵な笑みを浮かべて問う。既に自分は解を得ているという雰囲気に、紫音ふたりは同時にため息をついた。
「何を考えているのかと思ったらこれか……」
「面倒なことをわざわざ此処まで引き延ばしてきたのかよ……」
頭が痛くなる。そう考えて頭を抱えたが、それも同時なので何だか妙な気分になった。
「僕としては、義妹がふたりでも構わないけれど。でも呼ぶとき困っちゃうね」
「違うぞ兄貴。もっと困るべきところがあるだろ」
「まあいいや。さて、俺はどうしたらいいんだ?」
「生き残った方が勝ちでいいんじゃない? ひとり減ればいいんだろ」
「蛇の目、それは短絡的すぎないか……?」
腕を組み、互いが互いを見つめる。容姿は完全に一致している。行動や思考もどうやら似せてきているらしい。いくつか質問を投げ合ってみるが、驚くべきことに過去の話ですら答えられるようだった。
「困りましたわね」
「どっちも紫音でいいんじゃね」
「ふふ、うちが賑やかになるね」
「どうやら此処に先に繋がる扉があるようだな」
「ああ、じゃあ斬ろうか?」
「全員他人事ォ! 協力してくれって本当に!」
さっさと攻略を始めている他の仲間を見て、紫音は自分と相手を指差しながら叫んだ。
「お言葉ですけれど、わたくしたちはもう見抜いておりますのよ」
「あー、やっぱり?」
「あとは本人同士の問題だって龍が言うからよ」
「ああ、なるほど……」
「興味ない」
「だいぶ正直に言われたな…結構傷つくんだぞ……」
「だから何」
ふん、鼻をならして蛇の目は扉の周囲を探り始めた。
紫音は増援を諦めて、自分で解決しようと相手に向き直る。
あれ、というか、皆分かっているなら別に遠慮無く斬っていいのでは。
紫音は刀を抜き、ぐっと間合いを詰めて切り上げる。それと同じ速度で、相手も刀の間合いぎりぎりに飛び退き、そしてすぐに跳ね返るように跳躍すると紫音に更に重い一撃を叩き込んだ。
「っ、なんだこの辺も互角か」
「残念、一番手っ取り早い証明方法かと思ったんだけど」
構え方も、呼吸も、歩法も、間合いの読み方も、癖も同じ。試すように何度か打ち合いをするも、感じることは“自分自身”を見ている感覚しかなかった。
紫音は呼吸を整えて、相手が何を基準に自分を真似ているか考えた。そしてふと、自分を通り抜けた何かのことを思い出す。自分の肉体か魂の情報を、一部抜かれたのだろうか。しかしそれでは、この違和感は何だろうか。想像している自分をなぞるような、見たままの自分。
「紫音」
龍慶の声がして、視線だけをちらりとそちらに向ける。
「お前は何を示すつもりでいる?」
龍慶の言葉に、紫音はその意味を読み取ろうと頭を回転させる。何をなど決まりきったことだ。自分が本物であるという証明。それが生き残ることだと思うからこうして戦っているのだ。皆が分かっているのなら無視をしてもと思うが、これだけ戦えるのであれば放置して背後をとられるのは困る。
「違うよ」
それは笑う。刀を持ち上げてその切っ先を紫音に向けた。
その表情には覚えがない。けれどぞっとするほどにその感情が理解できた。
これは拒絶だ。
笑っているけれど、その目に光はない。それは普段の紫音の表情ではないけれど、紫音はその表情をよく知っていた。何度も鏡で見ていたのだ。ずっとずっと昔から。
「殺して奪いたいわけじゃない」
その言葉が、酷く癪に障って紫音は強く鋭い一撃を叩き込んだ。大きな音が響き、風だけで襖がばっさりと斬れた。
「どうしたよ、俺。怖い顔して」
「何言ってんだ、同じ顔だろ」
「俺はちゃんと笑えてるよ。余裕のないお前と違って」
紫音は相手の武器を弾こうと手元を狙う。強く弾こうとも、懐に踏み込もうとも、それを見切っているかのように上手くいなされる。
「どうした? ちゃんと俺は理想通りに見えているか?」
自分の声に煽られるのは酷く苛ついた。足技で武器を蹴り上げるが、相手には投げ技で返されて、体勢が戻る頃には相手も手元に武器を戻している。面倒だという気持ちと焦りが混ざり、それが舌打ちとして出てしまった。
「焦ってんなあ。やっぱり俺だ」
はっはっは、と笑われ、紫音は近場にあったものを適当にぶん投げた。それに注意が向いた一瞬、紫音は相手の背後に回り首を狙って薙いだ。かがんで避けた相手にそのまま袈裟に斬りつけるが、これまた身軽に前にくるりと宙返りをされて避けられた。
「あれよお、なんで連れてきたんだ?」
逸鬼がしゃがみながら龍慶に尋ねた。当たり前だが、あの程度であれば皎夜なら一瞬で片がつく。紫音がベースになっているとしても皎夜なら迷いもなく斬り捨てるだろう。
「通り抜けた……と紫音は言っておりました。魂の一部があの中にあるのであれば、本人以外で殺すのは少々問題があったということでしょうか?」
「確かに、その類いの術式ではあった。あの様子だと、皎夜の複製を作りコントロールするのが目的だったのだろう」
「あー、皎のコピーならちっときついかもな」
「幸いなことに、それがあれで済んだ。奪われた魂は取り戻す必要はないが、せっかくだ。あれの中身を観察する。奪われたのが“どれ”だったのか、それを引き出すには本人にやらせるのが一番いい」
龍慶は口角をほんの少しだけ上げた。神無も逸鬼も、まだよく分からないと言った様子で、とにかく二人の様子を見ている他なかった。
龍慶曰く、相対しているのは紫音の魂の情報を一部抜いて増幅した人形だ。この部屋に並んでいた人形たちはこの術式の実験となった者だろう。どれもこれもが、増幅された魂、複製された自分自身に耐えられず殺し合った結果、こうして“負けた方”が此処に並べられている。
「じゃああんまり長時間やらせたら不味いんじゃねえの。紫音の精神、ぶれぶれだろ」
「さすが凩、よく分かっているね。そういう揺さぶり、魂の引き合いが勝手に起こるみたいだよ」
「おーん、よくできてんのな。俺も一瞬紫音かと思った。まあまあ、よくよく見てりゃあ違うのは分かるけどよ」
「それに騙されないのは、お前たちもあれの本質を見ているということだ」
「あったりめえよ!仲間なんだからよ!」
逸鬼が豪快に笑う。それを横目で見ながら、神無は少しだけ案じるように眉尻を下げた。
これで龍慶が何を見ているか、それが神無にはようやく察しがついたのだ。
紫音を構成しているのは紫音だけではない。いつか紫音という個を食らう、誰かの存在もその魂に宿している。あの人形の中身がそちら側の複製だったとしたら。
(御館様は、その存在を気になさっていた……だからこの機を逃さず、紫音に対処させようとしている)
術式だけであれば、百鬼の本家にやってもらえばいい。しかし、紫音の魂の不安定さで、百鬼の術を使えばどうなるかは分からなかった。既に本人に知らされず何度か試しているようだったが、実のところそれらはほぼ未遂の形で終わっている。無防備な紫音とは裏腹に、その魂は何者をも拒絶するように干渉を許さなかった。術式越しの軽い接触ですら、術者を数日間再起不能にさせたのだ。
あれは怒らせたらまずいね。百鬼の当主が笑いながら報告していたのを思い出し、龍慶は目を細めた。
今回魂が削られたのは、それが紫音本人のものであったからか、他の条件が満たされたからに違いない。同行していたときの複製体は表情こそ真似ていたものの、今のように喋りはしなかった。ついては来るものの何もせず、本人に会って初めて興味を示した。
中身が何なのか。それを見るためには、この状況は必須だった。
「……おかしい」
「ん? 何かあったか?」
「いや本当俺の言葉に返すの止めてくれ、頭がおかしくなる。お前の動きは、俺の動きじゃない」
「それはおかしいな。俺はお前なのに」
「あと言動もだ。なんかずれてる」
「お前が普段からずれた話してるんじゃないか」
「自分に言われると余計に腹立つな。そうじゃない。何となくだけど、お前は俺じゃないし、俺になりたいわけじゃないよな」
「俺が俺になりたいと思うこと自体おかしいし、俺は別に何処もおかしくない。どちらかというと、おかしいのはそっちだろ」
「何がだよ」
複製体はにこりと笑った。目だけが冷めていて、心底馬鹿にしたような笑みだった。
「俺は私。私は弱い。お前はそれを知っている」
ぞわりと肌が泡立った。恐怖ではない、この、見たくないという拒絶感は。
「私なら分かるはず。だって貴女はまだ、そこから一歩も進めていないのだから」
悲しみか、哀れみか、諦めか。その表情は酷く複雑だった。
けれど紫音がそこに感じるのはたったひとつ、強烈な自己嫌悪だけだった。
「あれが紫音の中身?」
「もうひとつの紫音の魂ですの……?わたくしにはそうは見えませんが」
「……どうやら、やはりあれは違うようだな」
「そうなの? じゃあ僕が斬ってしまおうか。紫音が可哀想だ」
「止めておけ。あれは自分で対処させる。皎夜」
「はーい」
キン、と微かな金属音が鳴り響く。壁がバラバラに崩れ、その奥に道が見えた。おお、と拍手する逸鬼が、何かの視線に気づき振り返ると、人形たちと目が合った。並べられたものが全て、じいっと此方を向いている。
「うおわっ、龍、見られてんぞ!」
「だからどうした。最早朽ちるしかない残骸だ。相手にする必要はない」
「帰りに燃やしていこうか。お焚きあげってことで」
「祈祷も言もなくそんなことをしては、土地に穢れが残りますわ」
「じゃあ、ひとり残らず僕が斬るね。今日は巫も持ってきているから」
ね、と首を傾ける皎夜に、神無はひとつため息をつく。本当に不思議な男だ。
一度だけちらりと紫音の方を見る。複製体の方が気づいて手を振ってきた。口元が音もなく動き、すぐにその視線は紫音へと向き直る。
「またな、だって。あの複製体、まるで自分が生き残るとでも言いたげだね」
蛇の目が不快そうに吐き捨てる。神無はそうですわね、と呟いて、皎夜たちの後を追った。
「皆普通に置いてったな……」
「まあそうだろ。お前に構っても時間の無駄だ」
「そっか。じゃあ私は普通に話しましょう。随分気難しくなりましたね、私」
残念そうに眉尻を下げる複製体を二度斬りつける。しかしそれは綺麗に弾かれ、相手には傷ひとつつかなかった。
「私が何だか分かりますか?」
「別に、知る必要はない」
「ええ、そうです。そうして目を瞑ることは必要です。ひとつひとつ、全ての過去を拾い上げていたらきりがないのですから」
「ああそうだ。だから余計な話もするつもりはないんだよ」
「私は、彼らから見た貴方の模倣品であり、貴方から見た貴方自身の複製体でもあります」
複製体は紫音の言葉を無視して、自分のことを話し始めた。紫音は一度舌打ちをして、それを止めようと刀を振るう。
「言っている意味が分かりますか。今、過去の貴方を私が顕在化させているということは、貴方にとって私は現在と変わらない……貴方はそこからまだ踏み出せてもいないのです」
複製体の反撃に、紫音も体術で応戦する。動きを見ていてなるほどと理解した。他者目線での自己の模倣品だから、自分では気づかなかった癖も、技の完成度も一定なのだ。それが違和感だった。
皎夜と紫音が手合わせするときは常に紫音は全力だった。それでも全然足りないくらいで、最早自分に何が足りてないのか、できているのかの判断もつかなくなることもあった。しかし皎夜の目は当然のように冷静で、全てを明らかにする。
あの姿はまさしく、皎夜の記憶した紫音の戦い方なのだ。
「弱いのは怖いですか」
「当たり前だろう、が!」
「そうですね。私がこんな魂を持つために両親はいなくなりました。生きているのか死んでいるのか分からない。死んでいるかもという気持ちが強いのに、生きていると思っていないとその罪の重さに耐えられないからずっと信じている」
「本当によく喋るな。俺は語りたがりか何かか?」
「弱いのに力を持ったから失った。弱いから誰も守れなかった。弱さを認められないから私は俺になった。今の俺が、生きることを許されれば、私が、弱い過去の私が否定されると思ったから。否定できるとおもったから!」
複製体は叫ぶ。先程までの冷静さはなく、感情的な声だった。
「それが一番の弱さだと、どうして私は分からないの!」
重い一撃だった。紫音の体がふっ飛んで、襖を何枚かぶち抜いた。
紫音は追い詰められれば追い詰められるだけ、その力を発揮する。本人は知らないが、それを皎夜や他の人間はよく知っていた。
「いや俺より威力あんのはおかしいだろ!」
「私は弱い。何もかもが怖い。生きていることも、過去が積み上がることも怖い。どれだけ他人が手を差し伸べても、どれだけ多くを得ても、貴方にとってそれは、置いていく過去でしかない。誰かの世界の延長に自分がいることを想像できない」
いくら部屋が広いとはいえ、壁も障害物も多い。何より相手が自分への攻め手を的確に打ち込んでくるのが辛い。他者目線の、皎夜の情報を元にしているのだからそれは当たり前なのだが、正確過ぎて紫音も攻めあぐねていた。
「貴方が壊しているのは、貴方と貴方の世界そのものでしょう」
「会話にならないとこ、本当俺っぽいな。言いたいことだけ言って。それは何でだか分かるか?怖いからだよ、返ってくる言葉が」
複製体が大きく跳躍して真っ直ぐに飛んでくる。まともに受ければ足場の悪い自分の方が押し負ける。紫音は一瞬だけ悩んだ。そして一番強気な笑みで、真っ直ぐに複製体を見た。
心臓を正確に狙う一撃。殺したい自分と、死にたい自分が合致する。それでも、と抵抗するように自分の刀の刃を当てる。僅かにずれた切っ先は、左肩を深々と貫いた。
「……死にたいのでしょう」
「ああ。でもまだ死ねない」
「その道の先に、救いはあるの?」
「あるから行くんじゃないんだ。無くても行かないと。だって俺は、俺たちは、こうして生きることを選んだから」
「私は報われたい。許されたい。愛されたい。私は、誰かのために生きれるほど強くはない」
「それは俺が、一番よく分かってるよ」
泣きそうな顔をする自分の複製体に、憐れみと惜別の笑みを向ける。こうして弱い自分が外に居続けていてくれれば、何度も迷うこともないかもしれない。紫音は自分の中の葛藤に、もう一度蓋をする。乗り越え方が分からなくて、背を向けるしかできないのだ。昔も、今も。
「ごめんな」
複製体から色が消える。目に宿っていた光が消えて、上半身と下半身がずれて床に落ちた。
先程まで生き生きとしていた姿とはうって変わって、朽ちかけでぼろぼろの陶器の体になった。あちこちに皹が入り、そして腹部から広がるそれはやがて左胸へと到達した。組み込まれていた術式の核があったのだろう。それはもう完全に動かなくなった。
「はあ……最後のお前は、俺だけの情報であってほしいよ」
紫音は刀をしまうと、龍慶たちを追おうと奥へ繋がる道へ向かった。
「貴方はどうか、彼女と同じ道を辿らないで」
驚いて振り返る。知らない声だった。誰もいない室内は、風の音もなくただ静まりかえっている。
紫音は小さく唸ったが、すぐに切り替えて奥に向けて走り出した。
地下に向かっている階段をどれだけ数段飛ばしで走り抜けて、石室へと辿り着いた。ひょいと入り口から覗き込むと、全員が何かを囲んで立っているのが見える。
何故か皎夜だけが、龍慶とは反対側の壁際に立たされていた。
「おっ、来たのか」
「ああ、ただいま」
「さすがにあの程度で死なないか……って、ねえキミ、その怪我は?」
「刺された。その方が手っ取り早く捕まえられるからな」
「下手すれば左腕が使えなくなる怪我を? 軽率にもほどがある。なんて馬鹿らしい。ボクは呆れて言葉がでないよ。平和な顔をして本当に、さすが柊の人間だ」
「言葉がでないわりに結構喋ってるんだよな……悪かったよ、手間を増やして。あっちには仲間のアドバンテージはないからさ、こっちはそれを使ったんだ。蛇の目がいるなら多少の深手は想定内ってね。頼むよ」
「ふん、好きで怪我をして死にかけて、助けてくれなんて医者を馬鹿にしている。都合のいい話だ、心底不快だよ。ボクはそういう人間が殺したいほど嫌いだ」
「はは、分かった。覚えておく」
紫音の左肩に蛇がまとわりつく。蛇の目が怪我をあちこちから見て回り、蛇にいくつかの薬を飲ませた。ごぽん、ごぽん、と蛇の内臓が動くたびに液体の動く音がする。
「応急処置だ。それ以上はこの仕事が終わってからだよ」
文句はないね、と睨み付ける蛇の目に、笑顔で問題ないと返す紫音。それと同時に蛇が紫音の肩に食らいつき、左肩から指先にかけて、焼かれるような熱が走った。
紫音の様子を見て、それから蛇の目は石室の中心へ視線を移した。中央には皎夜が破壊した術式と、素焼きの壺がある。その中に手を突っ込むと、何かに手を噛まれてすぐに手を引き抜いた。
「毒虫だ」
「毒なら問題ねえか。どうする? 俺が代わるか?」
「そうだね、こういうのはキミが適任だ」
自分の治療をしながら、蛇の目は逸鬼に指示を出した。逸鬼はその壺に無遠慮に手を突っ込むと、いてっと言いながら何かを引き抜いた。
腕を振り上げるといくつかの毒虫が辺りに飛び散った。神無が扇を振ると、それらが青い火で焼き尽くされる。
「これか?」
逸鬼の手には胎児が握れていた。透ける肌の内側で蠢く心臓は、未だに脈打っている。
「それ、生きておりますのね。いいえ、この屋敷の稼働している術式は全て、その胎児によって維持されている……ということですのね」
「ご明察。これは胎児ほど純粋な生命じゃないよ。ちゃんと意思をもって此方を殺しに来ている……呪いだ」
「死んだとされているこの家の方ですの?」
「そうだろうね。性質がとても近いけれど、本人じゃない。あの人形と同じだ。魂の一部を剥ぎ取り増幅し、また剥ぎ取って増幅を繰り返す。乱暴な濾過構造だ。でも、蛇の目でもこういうことはするんだ。特にこれは、いい毒になる」
皎夜に見せるように、蛇の目は逸鬼の手から摘まんで拾い上げた。うううう、と蜂が羽を震わせた時のような音がする。
「誰を殺したい?さあ、教えてよ。こんな姿になってまで、殺したい相手はいたのかな?」
きひ、と薄気味悪い笑顔を浮かべて、蛇の目はそれを床に落とした。ずり、ずり、と這いずるそれは龍慶の前に辿り着くと、まだ膜の張ったその目を開き、ぎょろりと龍慶を見た。
「お前だ」
それはおよそ人間の発する声ではなく、そしてねっとりと脳にこびりつくような声だった。
「そうか、それはご苦労だったな」
龍慶が笑って見せる。びち、びち、と胎児から体積以上の液体が広がっていく。龍慶の足元に流れ着く前に、その液体の中に皎夜が歩いて行き、巫を胎児へ突き刺した。
「うっわ、皎。それ入っちゃ駄目なやつだろ」
「大丈夫、靴履いてるから」
「いやそういう問題じゃねえだろ……神無、祓わなくていいのかよ」
「ええ。皎夜は呪えませんわ。その方との縁が、繋がっておりませんもの」
「マジかよ……」
「わたくしたちでは殺せば“殺し”が成り立ちますけれど、彼ではただの天災、まさしく不運にしかなりません。わざと御館様と距離を置いておりましたのは、そういうことでしたのね」
「そういうことだね。ふふ、びっくりした?」
「いやびっくりはしねえけど。その靴気持ち悪くねえ?」
「そう? 新しいのを買うにはまだちょっと早いと思うんだけれど……」
「その靴はうちで処分しますわ」
「分かったよ。紫音、あとで家の人間に連絡しておいてくれるかな」
「りょーかい」
胎児を中心に広がっていた液体は、胎児が真っ白に固まるのと同時に固体化した。用は済んだとばかりに龍慶は地上へ向かって行き、それを追うように全員がその場を後にした。
焼け落ちる音がする。
青い炎が建物を飲み込んでいく。何も残さないようにと、手当たり次第に全てを燃やしていく。
話し合いの結果、やはり全て処分ということになり、神無の指示のもと後処理が行われた。
「禊と祓は我々にお任せを。終わり次第御報告に上がります故」
顔を四角い布で隠し、全身を白い布で覆った人間が龍慶に深々と頭を下げた。その様相からは性別すら判断できないが、しゃがれた声からかなりの年嵩であることが分かる。
「帰宅帰宅~!帰ったらさっさと寝るか!」
「ちゃんとお風呂に入りなさい。貴方あれを掴んだんですのよ」
「わーかってるって。紫音、大丈夫か?」
「疲れた……本当に疲れた」
「大丈夫紫音、気晴らしに手合わせでもするかい?」
「それはたぶん俺が死ぬと思う」
紫音が自分の鞄をあさり、一本のペットボトルを取り出した。新しく開けたそれはプシュと軽い音を立て、心配していた吹き零れはなく、紫音はそのままぐいっと飲んだ。
「おっ、炭酸! いいな、俺も飲む」
「ん、はい」
「ばっ、紫音、なんてことをなさいますの!はしたないですわ!」
「えっ何が?」
「回し飲みは不衛生だからやめなよ」
「そ、そうです。わたくしもそう思いました。紫音、そういった品に欠ける行動は止めなさい」
「あ、ごめん……」
「いいだろ別に。もう全部飲んだし」
「貴方も少し遠慮なさいな! 全く、御館様がおりますのよ!少しは気を配りなさい!」
「あれを一瞬で全部飲んだのか逸鬼さん……まあいいや。龍慶、って炭酸飲むんだっけ?買ってくるか?」
「不要だ」
「僕はお茶がいいなあ。蛇の目様は何か要りますか?」
「急須で淹れたお茶」
「また無茶な話を……」
「えっ、そんなCMやってなかったかな、その話じゃなくて?」
「残念蛇の目、兄貴にそういうのは通用しないらしい」
「チッ」
誰が買いに行くんだ、と逸鬼が尋ねると、全員が当然のように紫音を示した。ですよね、と紫音が乾いた笑いを浮かべ、この怪我で買いに行ったら不審がられないかと返すも、そこは上手くやれと言われるのだから仲間たちは本当に容赦がないなと紫音は諦めるしかなかった。
「収穫がなかったのは残念だったね」
走っていく紫音に手を振りながら、皎夜が龍慶に囁く。
「いいや、あった」
微かに唇を動かして皎夜にだけ聞こえるように龍慶は呟いた。皎夜が少しだけ目を見開いて、龍慶の顔を覗き見る。
「予想通りではなかったがな」
小さく笑う龍慶の表情が少しだけ楽しそうで、皎夜は何度か目を瞬かせて、そう、と返した。肩の力を抜いて、皎夜もふふっと笑う。
「普通に不審がられました!」
元気よく走って帰ってくる紫音に、逸鬼が馬鹿笑いし、神無が頭を抱える。蛇の目がさんざん馬鹿にして、皎夜が代わりに皆に飲み物を配った。
龍慶はそれを飲んで、無言になる。
「一応言っとくけど、それでも高い方だからな、それ」
やっぱり口に合わなかったね、と皎夜が言った。それを無視して歩いて行く龍慶に、皎夜と紫音は一瞬視線を合わせて、こっそりと笑った。
(何度でも戦える。今の私が出す答えを知るために。私のいる今に向き合うために)