87聖
「うわー! 凄い! マリヴェルさんって本当に聖女様だったんですね! あ、あのですね! ラダさん、あ、聖女候補仲間のラダ・ルッテンさんなんですけど! その……お家の方が、その、なんだか……あの、ご家族を悪く言うのは駄目なんですけど、その……ちょっと、ひどい、みたい、で……え? 知ってる? あ、じゃあラダさんを助けてくれるんですか!? よかったぁ! 私ずっとそれが心配で! 私の家は町の小さな雑貨屋で、お金持ちとかじゃ全然ないんですけど、家族の仲はよくて、お話聞いたときほんとびっくりしちゃって! うちは、そりゃたまには喧嘩しますけど、両親やお姉ちゃんと弟とも、そんな……全然。そう、そうなんですよ。だからびっくりして……私、ちゃんとラダさんが元気になれる言葉言ってあげられたかなぁ」
「……保護………………………………そう、ですか……そう、ですね。私なんかと仲良くしてくれる人が、家の外には、いたのなら……私はルッテンに、あの家にいないほうが、私にもあの人達にも、いいのかもしれません……きっとそうなのでしょう。そう思える日が、来ると……いいな……」
「あ、貴女本当に聖女で……何が、どうなっていますの…………え? お父様と話した? お父様なんと仰っていましたの? え!? 貴女わたくしのお爺様とお話したことがありますの!? 昔、夜会で? そ、う、なんですの……そうですわよね。貴女が聖女であるのならば、貴族の夜会に出ていてもちっともおかしくありませんもの……え、あ! お爺様がよく仰っていた、ふざけて仕事から逃げているように見えても、その実調和を保つためあえて愚かな振りをしている人間もいるの人間って、貴女でしたの!? あ、嫌ですわ! わたくしいつもお爺様から、お前は一度走り出すと止まらない傾向があり、そういう相手を見ると表面だけで判断してしまいがちだから気をつけるようにと! あ、嫌ですわ嫌ですわ嫌ですわ! わたくし、昔から事があるごとに注意されてきたことを、そのまま、よりにもよって教訓の対象者として教えていただいていた貴女相手にっ、いやぁー! わたくしトファの恥ですわー!」
アノン・ウガール。ラダ・ルッテン。アーティ・トファ。
落ち着いていたのはラダ・ルッテンだけだったなぁと思うけれど、ラダ・ルッテンの反応は落ち着きではなく、虚しさと諦めと不安と、そして安堵に到達しきれていない小さな希望によるものだった。
トファ家は現在、事情が事情なので一族郎党軟禁状態にある。その旨も、アーティには伝えている。アーティはその件については、何一つ取り乱さなかった。
それがアデウスの為に必要ならばと、生真面目で真っ直ぐな礼すらも向けてくれた。その態度は、同様の旨を伝えたトファ家総員と同じものだった。
トファ家は何一つ不平不満を現わさず、神殿と王城を静かに受け入れた。調査にも非常に協力的だ。寧ろ、あれ見ろこれ見ろ、こっちは使えないかそっちも怪しいと、一族上げて屋敷を解体しそうな勢いで協力的らしいので、トファ家はちょっと落ち着いてほしい。
トファ家はひとまず屋敷が無事かどうかだけが心配だが、もっと問題なのはマレイン家だ。
先代聖女派の旗頭とも言えるべき家であり、今回の聖女選定の儀に先代聖女によく似た子女ベルナディア・マレインを投入してきた家。
こちらは当然協力的ではなかったため、籠城される前に突入し、制圧した。強制執行は最初から視野に入れていたので、その辺りは恙なく行われ、屋敷内の人間は全員拘束済みだ。ありがたくも戦闘行為による反抗をしてくれたので、それを口実に全員牢獄に入ってもらった。
問題となったのはマレイン家の対応ではない。マレイン本家屋敷の異様さだ。
何も、なかった。本当に、何もなかったのだ。
先代聖女との関係、ウルバイと密通していた文書。そんな物は山ほどでてきた。恐らくつかない罪状はないのではないかと思えるほど、わんさか。
出てこなかったのは、その屋敷になかったのは。
生活の痕跡だ。
表面的な、恐らくは来客を出迎えるためであろう空間には、貴族らしい様式が施されていた。
だが、その裏は。その区画以外は。建てられたばかりの家のような、引っ越しを終えた後の家のような。何もない、がらんとした空間がただ存在しているだけだった。
そこはベルナディアの生家であり、今尚家族と暮らし続けているはずの屋敷なのに。住み込みの使用人達は、常駐している私兵達は、ベルナディア達は、どうやって暮らしていたのだ。
マレイン家以外にもまずいことがある。元聖女候補と三人立て続けに話をした結果、一つ確信できた。これはポリアナ相手でもそうだったが、全員、魂がよく見えないのだ。
恐らく聖女候補達は、誰かの中に潜んでいる先代聖女と長く同じ空間にいすぎた。先代聖女が自身の気配で彼女達の魂の表面を均してしまったのだ。
今の私の目があっても気配を探し当てることはできなかったことは痛手である。だがこれは、聖女として彼女達全員の前に立ったときに分かっていた。改めて確認しただけのことだ。
問題だが問題ない。そして私は事実確認できた現実に落ち込むより先に、やらねばならないことがあるのだ。
それは。
「あのような者を聖女と掲げるのであれば、神殿もそれに付き従う神官も、神の雷によって無惨な死を遂げるでしょう!」
違う、これじゃない。
私は予想だにしていなかった音量に仰け反った。
エーレによる私巻き込み宣言。それはアレッタ・ポルストによるものだった。
ポルスト家は家の格上げを悲願としてきた。確かにポルスト家は上位貴族ではあるものの、今朝の会議に出席できる立ち位置ではなく。だからこそずっと、リシュタークとの婚姻を悲願としてきた家だ。昨今は、年頃の令嬢が存在していることで余計にその熱は強まっていた。
そうして育てられてきたアレッタは、例に漏れずエーレにご執心である。軟禁状態であることより、エーレとの謁見を求め続けた。当然受け入れられずそのまま放置となっていたが、身分を盾に脅し始めたので、エーレにまで報告が行く事態となった。
エーレは一人でさっさと解決させるつもりだったらしいが、私が盛大に巻き込まれる運びとなったわけだ。
確かに、聖女が出てきたほうが早く済むかもしれない。問題は選民思想が強いということなので、スラム出身聖女がどこまで効力を発せられるかが分からない点だ。だがエーレが私を巻き込むと判断したのであれば、聖女の権威が有効なのだろう。
そうして私が運搬されてきたのは、聖女候補達を隔離している一棟だ。今は彼女達の隔離にのみ使用している。
棟に入るや否や聞こえてきた叫び声を聞くに、中々に混沌としているようだ。突然軟禁された人々に平静でいろというのも酷な話である。だからこの怒り自体は想定内なのだが、私がエーレによる盛大巻き込みとなった案件対象者はアレッタ・ポルストであって、ドロータ・コーデではなかったはずだ。
「………………なんで各々隔離していたはずの三名が、廊下で向かい合っているんですかね?」
確かにアレッタ・ポルストもいるにはいる。だが他にもドロータ・コーデやベルナディア・マレインまでいるのだから不思議である。
確かに見張り兼護衛の神兵と神官はついているものの、まず部屋から出ている時点でまずいし、廊下で鉢合わせているのはもっとまずい。
隣を歩くエーレを見る。特に驚いた様子はない。
「ドロータ・コーデはベルナディア・マレインに会わせろと暴れ続け、アレッタ・ポルストも同様の内容を要求し続ける。ベルナディア・マレインもドロータ・コーデとの面会を希望していた。よって三者の要求を叶えてぶつけた」
「何で!?」
本当に何で!?
「神官長には許可をいただいている。一般的に精神支配などの術は、対象の精神が乱れている場合が最も円滑だ。しかし乱れすぎた結果、支配者が表出しすぎる事例がある。だからその可能性を検証するため、試している最中だ」
一理あるが、せめて私にも教えておいてもらえないだろうか。そしてそれだと、最初から私の目が必要だ。それなのに内々に済ませる予定だったとはどういうことなのだろう。
とりあえず私を運搬してくれていた神兵に下ろしてもらい、エーレの腕を支えに自分の足でかろうじて立つ。
「当初は俺への面会要求を通すために、アレッタ・ポルストが監視を脅す件を収拾するだけだった。だがどうせお前を巻き込むのならば、ついでに仮説を試そうと急遽決定した。よってマレイン家に出した戦力の回収が間に合わなかった」
成程。何故かいつの間にか結成されていた配偶同盟で、アレッタ・ポルストへ断わりを入れる手伝いをしろと引っ張り出されたが、こちらが本命なのだろう。たぶん。
確かによく見れば、廊下の周囲あちこちに神兵と神官が配置されている。騒ぎに乗じて集まってきているように見せているが、ここだけで王城とそれなりにやり合える戦力が揃っていた。
エーレは戦力の回収が間に合わなかったと言ったが、あっちの陰とそっちの陰にヴァレトリとサヴァスがいる。神官長の姿は見えないけれど、対応できる距離にいるはずだ。ならば、エーレもいるここが神殿の最大戦力と言っても過言ではない。
この面子でどうにもならなかったら、正直どうしようもない。
長い金髪を持った十代半ばほどの少女、アレッタ・ポルストへと視線を向ける。真っ直ぐな背中は頑なさよりも美しさに重点を置いた柔らかさがある。同じ真っ直ぐな背中でも、アーティのほうはどちらかというと騎士に近い背をしていた。
あのお嬢さんがエーレを口説き落としたいポルスト家である。
エーレから選民思想が強いと聞いていたが、確かに話したことは一度もない。忘却していた過去を含めて、一度もである。
顔を見たことはあった。明け方まで続いた王城との協議への参加権こそなかったが、ポルストは上位貴族の一員だ。夜会だの何だので、顔を見る機会はそれなりにあった。だがしかし、真っ当な命である大多数の人々でさえ下賤という思考を持っているらしいので、スラム出身の塵などと言葉を交わそうとするはずがないのである。
でもそう言われてみると、確かにエーレが随伴している仕事で顔を見たように思う。あれはエーレがいたからゆえの希少な邂逅だったらしい。つまり私はいま、希少生物と一緒の空間にいる貴重な経験中というわけだ。
「エイネ・ロイアー様の正当なる後継者であるベルナディア・マレイン様を蔑ろにするなど、神官は能無しの集まりですか!」
ドロータは髪を振り回し、このままでは泡を吹いてもおかしくないほど興奮している。流石に対応していた神官が口を開こうとしたとき、それまで沈黙を保っていたアレッタ・ポルストがくるりと横を向いた。
「ベルナディア様」
マレイン家も名家であり旧家の一つなので、彼女が話す相手として相応しいのだろう。しかし名を呼ばれた当人は、廊下に飾られている絵を見つめている。
「ベルナディア様」
再度世界に放たれた己の名に、ベルナディアはようやく反応を示した。ゆっくりと首を傾げ、視線をアレッタへと向ける。
「わたくしを呼んでいるの?」
「マレイン家のお世継ぎはあなたしかいらっしゃいませんでしょう?」
「そうだったかしら。ええ、そうね。皆がそう言うのなら、きっとそうね」
ふわふわと微笑んでいるのに、まるでここにいないかのような話し方を、ベルナディアはする。楽しげに、歌うように、軽やかに。私とはまた違った意味で地に足が着いていないような。
浮かれているわけではない。私のようにつける地を持たないわけではない。
だが何か、どこか。危うい雰囲気を、纏っている。
今だって、微笑んでいるのにどこかぼんやりしているように見えるのだ。
「お、お待ちください、アレッタ様! ベルナディア様へのご用は私が仰せつかります!」
神官に凄まじい剣幕で食ってかかっていたドロータが、今度は泡を食ったように飛んで戻ってきた。忙しい人だ。
アレッタは、自身とベルナディアとの間に滑り込んできたドロータに、一切の反応を向けなかった。
「ベルナディア様、躾のなっていない犬を連れ歩いては、あなた様の品位に関わりますわ」
選民思想が強いとエーレが言っていただけある。目の前にいるドロータの存在を完全に無視し、その肩越しに見えるベルナディアにしか話しかけていない。流石だ。ここまで来るとあっぱれである。尚更私とは話したくなかっただろうし、同じ空間にいるのも嫌だっただろうなぁとしみじみ思う。
「まあ、アレッタ様。わたくし、犬を飼ったことは一度もないの」
「はぁ……あなたはいつもそうやって、誰とも会話をしないのですね。それならそれで構いません。ただ、あなたの子飼いの無礼は見過ごせませんわ。下賤な犬には相応の態度を取るよう、きちんと躾けておいてくださいまし。躾のなっていない犬を我々の前に連れて来てはいけないわ。それが貴族の務めです。神殿には、下賤な犬ではその名を口にすることはおろか、視界に入れることすら許されない御方がいらっしゃるのですから。この犬はそのどちらも犯したのですよ。きちんと罰してくださいませ」
ドロータは顔を真っ赤にしていたが、言い返すことは立場上できないのだろう。
どんどん険悪になってきた空気の中、アレッタの背へ向けて、はっきりとした機敏な声が別の方向から飛んできた。
「アレッタ様、確かにわたくし達は貴族であるけれど、だからこそ果たすべき義務と散らしてはならない礼儀がありますわ」
アレッタは、声の方向へゆっくりと振り向いた。私とは逆の方向ではあるが、さっきまで私と一緒にいた人がそこにいた。
再び軟禁状態へと戻されるためここに戻ってきたアーティは、生真面目なほど真っ直ぐに背を伸ばしている。
「トファ家は下賤贔屓が過ぎませんこと? お家の格に関わりますわ。お気をつけあそばせ」
「貴族であろうが平民であろうが、同じアデウスの民ですわ。義務による責の違いはあれど、それだけでしょう」
そもそも命に貴賤はない。選民思想とは、自分達が選ばれる側であり、選び弾く側だと思いたい人間だけが作り出す夢想だ。
「そのようなことを仰っていては、貴族の血が泣きますわ」
アレッタは再びゆっくりと身体の向きを変えた。視線の先は、エーレだ。
「……神官様、お話がございます。どうかお時間をいただけないでしょうか」
優美な礼は、幼い頃より培ってきた美しさだ。呼吸のように、意識せずとも崩れぬ形。それは確かに生まれが作り出したものだろう。正確には、教育、だけれど。
「要件は自身の担当神官へ告げていただく。どの神官へ告げようと結果は変わらない。神官へ告げた言葉は全て神官長へ上がる。初めに説明があった通りだ」
「わたくしはあなた様個人にお話がございますの」
「ならば尚更、時間を割く理由はない。担当神官へ告げていただく」
「エーレ様!」
アレッタ嬢、粘るなぁと思う。貴族以外を人とは見做さない思考の持ち主らしいので、貴族以外は観客として捉えていない可能性が高いが、それにしても凄い。
エーレは眉一つ動かさず、更に抑揚のない声で対応しているのに、何一つ怯んでいないのだ。……もしかして、いつもこの対応をされているのだろうか。
その上で求婚を繰り返しているのだとしたら、彼女の肝は屈強なる戦士の形をしている可能性がある。きっと筋肉質な肝だ。神兵と気が合うかもしれない。
エーレ曰く、アレッタは聖女の立場にはそれほど固執していないとのことだ。エーレとの邂逅機会を狙っての参加だというのが、エーレ以外の皆も含めた見解である。
そうまでしてここにいるのに、目的であるエーレは、私が咲いたり焼けたり襲われたり砕けたり終了しかけたりで、ほとんど聖女候補の前に姿を現わしていない。つまりは私も聖女候補の中に全く混じれなかったわけだが、それにしても何だか申し訳ない。怒りは是非とも先代聖女へ向けてほしい。
そんなこんなでここまで来たのだ。やっと到来した機会に粘る彼女の行動も理解はできた。
「どうか今一度、わたくしとの婚姻を考えてはくださいませんか?」
粘る行動は理解できるけれど、衆人環視の前で求婚するのは予想がつかなかった。……ちょっとエーレを思い出したが、エーレはそういう言葉を恥とは感じないだけで、観客を人として捉えていない結果ではないのでだいぶ違う。
「ポルストは必ず、必ずあなた様に相応しい生をお約束致します。リシュタークの名に傷をつけることも決して致しません。わたくし達は良家の格を高め合う、良き夫婦となれるはずです」
熱のある、それでいて艶やかなアレッタの声に、アーティはただひたすらに驚愕し、ベルナディアは画の額縁をぼんやり見つめ、ドロータを慌てさせている。
一人の女性の求婚が、この場に混沌を生んでいる。私はずっとこの中に潜んでいると思われる先代聖女の痕跡を探ろうとしてきたわけだが、そんなこと全く関係ない場所で混沌が幅を効かせている現状はどうしたものだろう。
「既にリシュタークより回答済みだ」
「それでも今一度機会をいただきたいと願う女心を、どうか汲んでくださいまし。お願いいたします。それともわたくしに、この場で恥をかけと仰るの?」
「それを望まれるのであればそうしよう。だが、断る以前の問題だ」
……何だか嫌な予感がしてきた。
エーレと目が合った瞬間、私は慌てて距離を取ろうとした。別の神官に支えとなってもらいたい。しかし当然ながら、今の私が移動するよりエーレが言葉を発するほうが早い。何だか私の行動を見てから、若干喋る速度を速めたように思えるが、気のせいのはずだ。
「私は先日婿入りを果たした。よって婚姻相手としての要件を満たしていない」
「――――――は?」
アレッタの言葉が、静まりかえった空気の中、やけにはっきりと響き渡った。
私が室内にいる神官達へ視線を向けると、皆一様に視線を逸らす。巻き込まないでほしい。そんな気配をひしひしと感じる。味方がいない。
なので階段の隅からこっちを見ていたペールを見てみた。こっち見んなと、瞳でも手信号でも告げられた。見てほしい。これが読書仲間だった人が私へ向ける現在の対応である。
忘れられる前と何一つ変わっていない。
……手信号は咄嗟に出たのだろうが、記憶は本当に戻ってないんですね? 面倒事に関わりたくないから、まだ思い出せていない振りをしておいて、他の人が思い出した状況で自分も名乗り出ようなんて思っていませんよね!?
別の意味で若干寂しい。しかしペールへ疑念を向けている暇はなかった。
「き、希少な経験を、させていただきました。よもやあなた様が、ご冗談を仰るだなんて」
アレッタの声は最初こそ僅かに震えていたが、言葉を紡ぐにつれ平静さを取り戻していった。それが本心なのか矜持から来るものなのか、私には分からない。エーレには分かったかもしれないけれど、きっと教えてくれないだろう。
「私とあなたは冗談を言い合う仲ではない。状況が状況ゆえ周知してはいないが、リシュターク家三男の縁定めは終了した」
「いつの、間に」
アレッタの気持ちに全面同意したい。この人、本当にいつの間にか結婚していた。
「……どなたか、伺ってもよろしくて?」
「話す必要性を感じない」
「…………リシュタークがお選びになるのですから、さぞや高名な家名の、素晴らしい方、なのでしょうね」
エーレは私を見た。私はペールを見た。ペールは壁を見た。壁はエーレを見た。たぶん。
「いや、隙あらば離縁しようとしてくるわりと最悪な部類だ」
「なっ」
どうもすみません。
そこは本当に申し訳ない。だがエーレは私を見ないでほしいし、アレッタも私を向かないでほしいし、全員私を見ないでほしい!
いや、全員は言い過ぎた。神官達はエーレ以外全員顔を逸らしている。高潔なる神官達が皆、壁やら床やらを見つめ続ける空間ができあがってしまった責任を、エーレは取ってほしい。
「ま、さか」
わなわなと震えるアレッタを前にして、エーレは私の左手を持ち上げ、そこに唇を落とした。大きく口を開けていたら噛みつく前兆だが、今回は噛みつかれなくて何よりだ。しかし状況は全く何よりではない。
持ち上げられた私の手には指輪がはまっている。これだけの価値ある指輪だ。二つをすぐには間に合わせられなかったと言っていたはずのエーレの手にも、いつの間にか同じものがはまっていた。今朝はまだはめていなかったはずだが、流石リシュターク。全てにおいて超特急。
アレッタはあまりのことに、貴族の血筋以外に認識を示さないという自身の戒律を破った。
「聖女の権威でこの方に婚姻を命じるなど、浅ましい。そんなものが十三代聖女だというのですか」
嫌悪感たっぷりの視線をいただいたところ大変申し訳ないのだが、この件に関して私は悲しいほどに関われていない。聖女の権威は凄まじいほどに無視されている。
「口を慎め、アレッタ・ポルスト。我が主に対する暴言、二度目はないぞ」
「ですがエーレ様っ。それ以外の理由で、貴方様がこんな、こんな、ものとっ! 貴方様が神官であらせられる。それ以外の理由など……あり得ません!」
「ならば一個人として答えよう。俺はこれまでの生において、物事の達成でこれほどまでに苦労したことはない。その苦労をないものとされ業腹だ。この女は俺が落とした。俺達の婚姻に、それ以外の理由はない」
アレッタの驚愕と絶望と憤怒が入り混じった顔を見ている人は、極少数だ。ベルナディアは相変わらずどこかを見ているし、ドロータはそんなベルナディアへ必死に話しかけているし、神官達は壁やら天井やら虚無やらを見ているし。
そんな中で、そっと頬を染めたアーティだけが救いであった。この空間、絶望と虚無を浮かべている人が多すぎる。
そして私がここにいる意味がだんだん分からなくなってきた。とりあえず、感情が激しく乱れてもそれぞれの魂がよく見えないことに変わりはなかったので、帰っていいだろうか。
全員部屋に戻ってもらいこの場はお開きにしようと口を開けたとき、歌うような声がした。
「ドロータ、ねえ、ドロータ。素敵ね。沢山の人がお話をしているわ。ねえ、ドロータ。素敵ね」
「ベ、ベルナディア様、お待ちください! どちらへ!?」
浮いているように、ふわり、ふわりと、ベルナディアが歩を進める後を、ドロータが慌ててついていく。その腕を掴んだドロータを、ベルナディアは振り向き、微笑んだ。
「ドロータ、あなたまるで、乳母のよう」
その言葉は彼女が発した安定感のない声の中、唯一何らかの温度がこもっているように思えた。
その思考が、最後だった。
凄まじい奔流が視界を覆う。それが先代聖女が散々差し向けてきた呪いの色だと気がつけたのは、奇跡に近い。
だって全く違うのだ。規模も威力も桁違いなまでに跳ね上がり、まるで呪いの大樹のようだった。そんなものが何の予兆もなく間欠泉のように噴き出した。巨大すぎて力の出所が見えないどころか、触れているはずのエーレの姿すら視認できない。
「マリヴェル!」
「損傷軽微! 問題ありません!」
折角修理してもらった腕に、改めて罅が入り直した。しかしどうでもいい。今はこの呪いの奇妙さが先だ。
悲鳴と怒号が入り混じる声を聞きながら、呪いが覆い隠した世界に意識を向ける。
囂々と立ち上る呪いの奔流。これに比べれば、神殿を破壊した際の威力が小枝のように思える。そんな威力の呪いがこの場を覆った。ここにいる命全てが、一瞬で溶け堕ちても、瞬き一つも許されぬ、短い、間に、絶命していても、不思議ではなかった。
それなのに、生きている。エーレが生きている。皆の声もする。神官長の声も、だ。
皆が生きている。無事だ。それは叫び出したいほど喜ばしい事態のはずなのに、心が弾むことはなく、安堵も訪れない。
砕け散りそうな胸を撫で下ろすことはできなかった。だって神官長の結界が作動していない。あれだけ、意識の外で反射よりも早く取り出せていたエーレの炎が、今ようやく立ち上るほどに、異常が蔓延している。
「マリヴェル! 絶対に離れるなよ!」
私を掴むエーレの力が強くなる。その手はいつだって温かい。この異常の中であっても、いつだって正常に命を紡いでいる。
「エーレ!?」
「神力がおかしい!」
ざっと血の気が引いた。エーレの声がする方向へ向けていた視線を、再び呪いへと戻す。
これは、まさか。
「何、何か、わたくしの、中に……やめて、やめなさい! わたくしの中で、話さないで!」
「何、が……お黙りなさい! 高貴なるポルストの血に触れるなど許すものか! 恥を知れ!」
アーティとアレッタの声が聞こえる。
サヴァスとヴァレトリが互いに背を預けているのであろう応答をしている。
神官長の指示が飛び交う声がする。それに応える声がする。
沢山の声がしているのに、誰もが持つはずの神力による術を、エーレしか発動できていない。
私達を覆っているこれは、呪いではない。アデウス国民より徴収された、今尚され続けている、神力の塊だ。
アデウス国民の中に散らばっていた十二神の力が、いま一所に集約しようとしている。回収され凝縮された神力が濃すぎるが故に、視認してしまうほどの濃度だ。
先代聖女が、本格的に決着をつけようとしているのだと一目で分かってしまう。
「これ何だ!?」
「何かの根っこ……枝か!?」
「植物にしては、色がっ! くそ! 成長が早すぎる!」
私でなくても見えるほどに、その力が異様だった。
凄まじい速度で、大樹が育っていく。強制回収されている神力が呪いと同等の色をしているのは、食われた神の怒りであり憎悪だ。それら全てをねじ伏せ自らの力とした女によって、神の憎悪が一所に集約し、実体化した。
神の憎悪で彩られた大樹が、ここで花開こうとしている。
何故、いま? 今できるのであれば、今の今までだってしようと思えばできたはずだ。しなかったのは、できなかったからだ。できたとしても、代償があったからだろう。
それなのにいま行った理由は? いまこの場で、無理を押してでもすべきと判断した理由は?
鼓動が、命に似せて作られた身体の中で、偽物の生が鳴り響く。
「あ」
息、が。
身体がよろめく。どこにも力が入らず、左側へと倒れ込む。
川の中に落ちた。そう思ったほど、床が水浸しだ。水が。水が溢れている。だってアデウスは水の国だ。どれだけ災難に見舞われようと、水が枯渇したことはなかった。神殿も王城も、アデウスは常に水と共にあった。だから、おかしな話ではない。その、はずなのに。
瞬き一つできない私の視界が急速に晴れていく。全ての力が小さな器、人の中へ収まろうとしている。その先を見なければならない。その先を知らなければならない。
そうと分かっているのに、私の身体は動かない。
だって、私が倒れ込んだのなら、私の左側にいた人は。
「――エーレ」
私の前に横たわるその美しい人は、自らが流す赤い命の海で、既に絶命していた。
「カグマっ――!」
サヴァスの絶叫が響き渡る。血相を変えたカグマが、駆けつけた神官長達を押しのけるように飛び込んでくる。血の海で泳ぐように倒れ込み、エーレにしがみつく。素早くその身体に手を這わせ、傷口を特定し、息を飲んだ。
「何やってんだよ、カグマ! 神力が使えなくても治療はできるだろ!?」
利き手とは逆の左手で頭を抑え、片目を固く瞑ったサヴァスが泣き出しそうな声を上げる。
「カグマ!」
「……駄目だ。もう、死んでる」
「カグマぁっ!」
「心臓が砕かれたのに、どうやって蘇生しろって言うんだっ!」
カグマの悲鳴のような絶叫が、どこか遠くで聞こえた。ヴァレトリもカグマもサヴァスも、神官長も。皆が何かを言っていて。皆が、自分がやるべきことを、自分がすべきことをやっていて。やり続けていて。
泣きながら、叫びながら、痛みと悼みを隠しきれず、それでも今ではないと堪え、為すべきことを。どこか、頭痛を堪えるように頭を抑え、目蓋を揺らしながら。
それなのに、大好きな神官長の声すら、どこか遠い。意味として、把握しきれない。
だってエーレがいないのだ。
私の前にいるエーレは、まるで眠っているようだ。けれどその胸には穴がある。大きな大きな穴だ。この穴に落ちれば、赤い海に落ちるのだ。エーレの命が作った、赤い海。
エーレは、その命を失ったときでさえ空っぽにならない人なのだなと、ぼんやり思った。
肌が重なる音がする。決して強くはない、ともすればただ手を合わせているだけ。その程度の力で打ち合わされた掌が作り出した音が、混沌とした世界の中、やけに響いた。
音のするほうへ、どうしてだか意識が向いた。糸で繋がっているかのように引っ張られた身体ががくりと起き上がり、頭が傾いた。その拍子に、エーレの命の中へ私の破片が降り注いだ。
美しい彼の命で、私の破片が泳いでいる。好き放題な方向へ向け漂っているのに、エーレはちっとも怒らない。
エーレが音を発さない。いつだってあれだけ明るく鮮やかに、苛烈な美しさを持つ優しさで、生の音を紡いでいた人なのに。さっきからずっと静寂を保っている。
どうして?
どうしてどうしてどうして?
そんなの簡単だ。
死んだから。
エーレが死んだから。
死んだからですよ。
ゆっくりと手を打ち鳴らしながら現れた少女は、無邪気な顔で笑っている。
少女は、アノン・ウガールの形をしていた。この地に立つ少女は一人だけなのに、その姿が重なっている。金の髪が広がり、重なりを解くかのように完全に一つの姿を作り出す。
「ふふ」
アノンが口を開く。けれどそこから聞こえてくる声は全く違うものだった。
ああ、でも。もう全てが、遠いのだ。
「そうして人形は、美しい人間の男の命と引き換えに、人の心を得たのでした」
めでたしめでたし。
うっそりと笑う女の唇が吊り上がると同時に、全てが。
砕けた。
「あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
人の子への憎悪は、人形には許されぬ。
禁忌ですらない。これは、ただただ許されぬ。そういう法則の下、積み上げられた理だ。
私が砕ける。表皮の私だけではない。私の核である神の器までもが砕け散る。
人形は人を憎んではならない。神は愛と無関心以外の何かを抱いてはならない。
私は人形の領分を超えた。私は神の器としての資格を失った。
故に、廃棄は妥当だ。
「自壊しろ、人形!」
分かっていた。分かっていたのだ。
それでも。
どうしても。
許せなかったのです。




