81聖
先代聖女の記録を探ろうと潜った先に女がいた。だから私は首を傾げた。
女がいる。女が、いるのだけれど。
知らない女なのだ。
少し焼きすぎたパンみたいな髪色をした女が何故、先代聖女の記録の先にいるのだろう。
身長は平均より高いが痩せすぎていて、年齢の判断がしづらい。おそらくは二十代だろうが、それより幼くも年上にも見える。髪は長く足首まであるものの、艶を失い、泥や砂にまみれていた。
身に纏っている服の意匠にも馴染みはない。少なくともこの近隣の国ではない。それどころか、近代のものでもないと思われた。縫製技術が拙く今の時代よりずっと簡素な造りだ。だが、刺繍だけはきっちり施されている。
これも文化というよりは技術の問題だろう。刺繍は勿論、縫製に使われている糸は、私が知っているものに比べれば随分太い。しかし、刺繍自体は繊細で細やかだ。
彼女の生存圏内の貧富の定義は分からないが、服自体は悪いものには見えない。荒れているのは女の身と、その土地だった。
女は靴を履いていない。剥き出しの足で、荒れた大地を走っている。
大地も酷い有様だ。地は割れ、どす黒い雲が渦巻く雲から夥しい数の雷が地上へ降り注ぐ。雨も風も、上下左右、天地を失ったかのように荒れ狂っている。山は数え切れない命を飲みこみながら谷を埋め、その谷を黒に覆われた赤が覆い隠していった。
そんな大地を見下ろすこともせず、髪を振り乱し、女は走っている。女の進む先にだけ道がある。これは尾根だったのか、それともそこだけを残して大地が崩れ去ったのか。
女は走っている。周囲の様子をまるで気にすることなく、ただひたすらに裸足の足で。その様は、軽やかでさえあって。
その瞬間、けたたましい笑い声が轟いた。
鳥が発した渾身の警戒鳴のような、吹き荒れる嵐が叩き壊した扉のような、穴の空いたバケツに止めどなく叩きつけられる雨のような。それは、およそ人が出していい音ではなかった。
女の声は、この世の災害全てを詰め込んだかのような世界の中、どんな轟音よりも響き渡る。
女が走る。荒れ狂う世界の中、けたたましい笑い声を上げながら、まるで踊るように。
息が、続くはずはないのだと。
そう気付いたのは、私自身の呼吸が止まっていると気付いた瞬間だった。
息を、しなければ。これは記録だ。記録の中に私という個は存在しない。けれど、息を、しなければ。そう思った。
思った瞬間、私の身体は反射的に呼吸を開始していた。
その瞬間、あれだけとどめなく続いていた笑い声がぴたりと止まり。
ぐるりと。
女の顔が、私を向いた。
私自身、この世界のどこに意識を置いているか定かではないのに、確かに女の目は私を捉えている。
再開したはずの私の呼吸が、引き攣り、止まる。
首の角度が、おかしい。人が生命を維持できる角度はとうにこえていて。斜めにねじ切られたかのような角度で私を見ている女の口ががぱりと開き、再びけたたましい笑い声が響き渡る。
これは、誰だ。
そう思った自分の正常稼働を疑った。だって、どうして。
どうして。
私はこれを、人だと認識しているのだ。
けたたましい笑い声は続いている。それなのに何故。
「お前だ! 最後はお前だ!」
女の言葉が聞こえているのだ。
「待っていろ、ハデルイ神!」
転がり落ちそうなほど見開かれた女の目玉が、ぎょろりと動き、再度私に固定される。
「お前達の存在は、最早人には必要ない! そこで滅びを待つがいい!」
私を創造した神の残滓に向け、女が笑い声を撒き散らす。
おかしい。何かがおかしい。
何もかもがおかしいのに、何かが。
思考が、働かない。赤黒い世界の中、まるで凍り付いたかのように。呼吸すらうまく、できなくて。この場では必要かどうかも分からない呼吸が。
「人を解さぬ神など存在自体が害悪なのだから!」
女の言葉に私の目が見開かれたのと、女の顔が目の前に現れたのは、同時だった。
蛇のようにがぱりと開かれた大きな口の中に、並んだ歯が見える。喉の奥まで見えてしまう程大きく開かれたそれは、最早人が開閉可能な可動域をとうに超えていたのに。歯はどこまでも人のもので。
それが、おかしいのに。
違和を感じなかった自分の判断が、どこまでも苦しかった。
反射的に頭を傾けようとして、踏みとどまる。頭を動かせば首に食らいつかれる。それだけは避けなければならなかった。
ろくに動かない腕では到底間に合わない。頭蓋骨の強度にかけるしかない。
せめて視界を守れたらと、顔の真っ正面は外した瞬間、あれだけ響き渡っていたけたたましい女の笑い声がぴたりと止まった。
ついで響き渡ったのは絶叫だった。
眼球はあったほうがいいと閉ざしていた目蓋越しでも分かる明るさには、覚えがある。ありすぎるほどに。
目蓋を開いた視界の中、私は私から噴き出している炎に叫び出したくなった。
同じ光景を見た。かつて、この女と同じ言葉を吐いた女を焼いた炎が、今もここにある。
温かで、鮮やかで。穏やかで、苛烈で。
容赦なく女を焼いていく炎は、こんなにも優しくて。
絶叫を上げ悶える女の姿が遠ざかっていくのは、誰かが私の身体を引いているからだ。掴みかかるよう強引に掴まれた身体が、急速に浮上していく。
その温度と怒りに、泣き出しそうになる。だって、呼吸ができるのだ。こんなにも簡単に。
どうしていつも、この人はここにいるのだ。どうしていつも、私と繋がれているのだ。
どうしていつも、私は一人ではないのだろう。
この世に創り出された時ですら、私の傍にはこの人がいた。私が初めて見た人間であり、命だった。私という個体を初めて認識したのもこの人で。この人は、あの日からずっと私の中にいた。色んな形をして、ずっと私の中にいたのだ。
どうしよう。神様、どうしたらいいのでしょう。
私、ただでさえ欠陥品だというのに。神の器を覆う表皮として、許されない変質をしているのに。
どうしてなのだ。どうしたらいいのだろう。
神官長達の願いを守りたいのに。エーレの幸いを祈りたいのに。
そう頑張れば頑張るほど、私はどんどん脆くなって、怖がりになって。世界は恐ろしいものばかりになっていく。
最早姿も見えなくなった女のけたたましい笑い声が再び聞こえてきたのに、私はそんなことばかりを考えていた。
「マリヴェル!」
鼓膜が切り裂かれそうな大声に、意識までもが浮上した。
目の前には沢山の顔が合った。見慣れた人々が私を覗き込んでいる。その多くが切羽詰まった顔をしている。その中で最も落ち着いた顔をしているのはカグマで、最も怒り狂っているのは当然エーレだ。
「このっ、馬鹿が! 俺の上で呼吸停止する奴があるかっ!」
記録の中で呼吸ができないと思っていたが、実際に止まっていたらしいと、エーレの怒りによって知った。けれど、思考がうまく感情へと繋がらない。感情が直結している思考はもっと別のことで。さっきからずっと、そればかりで。
手を伸ばしたのは無意識だった。
エーレの顔を見たら、無意識にその服を掴んでいた。
「エーレ、私」
「…………マリヴェル?」
私はよっぽど変な顔をしているのだろう。いつもなら怒りのまま続いたはずの怒声が、戸惑いの音に変わっている。
「私、あなたのいない世界で、息を、したことが、ない」
神の愛は確かに私達に忘却を齎した。けれどその間もエーレの精神はずっと私の中にいて。精神が私の中から出た後もずっと、私の中にいて。
私は、エーレを知らない世界で稼働したことがない。
だから、どうしよう。
「あなたは神が私を創ったその場にいたから、私本当に、あなたのいない世界を知りません。どうしましょう、エーレ。私、あなたがいないと息もできなかったら、個体としても不完全に」
自己を維持する術を持たないだなんて、人間としても人形としても欠陥品だ。誰かがいないと自己を保てない存在は、最早個ではない。そんなもの、個体としてすら成立していない。
私は、この温かさを知らず稼働したことがないのだ。
どうしよう。こんなこと、考えたこともなかった。
気付いた事実に愕然としたのに、エーレは拍子抜けした顔をする。そのまま顔を近づけてきて、私の頬に口づけた。
「何の問題もないだろう」
エーレが言うならそうなのだろう。……そうなのか?
「………………問題ない……わけではないのでは?」
「……遂に知恵をつけてきたか」
「エーレさん?」
私達、猛烈に話し合う必要があると思うのだが、どうだろう。
意識がはっきりしてきてようやく、自分の体勢が分かってきた。サヴァスの腕から下ろされて、地面に横になっているらしい。何か柔らかい感触があるので、地面にそのまま寝転んでいるわけではなさそうだと、見慣れた人々の顔で見えない空を探しながら考える。
癒術を纏ったカグマの右手が私の首元に触れながら、左手が私の下眼瞼を引っ張った。しばしの沈黙後、重たく切れのいい息を吐くと同時に身体の力を抜いた。
「落ち着きました」
神官長を見上げながら身体の位置を変えたカグマがいた場所に、神官長が膝をつく。
神官長が膝をつく度、この美しい人の服が汚れてしまうと、居たたまれない気持ちになったのを覚えている。何だったら今もなっている。
「私は君に、報告の必要性を教えなかったのだろうか。それとも、君一人を矢面に立たせ、我々は後方で傷を負わぬよう見物していたのか。ならば私は、自らの評価を未熟ではなく神官長としての資格を有さない無能と断じ、罰を受けるべきだ」
「申し訳ありません違います事実ではありませんそんな事実は微塵も存在しませんごめんなさいすみません申し訳ございません!」
私は全力で身体を動かした。うまく身体が動かなかったので、地上へ這い出た死にかけのミミズみたいになったが、これは心からの土下座である。
瀕死の海老と死にかけのミミズ。私達、お似合いの夫婦ですね、エーレ。
しかし今は、そんなことどうでもいいのだ。
のたくたと、今の私の全力でのたうち回りながら、さっき見たことを報告する。その過程に辿り着く前の前、始まりのたぶんいけるだろうと思ったことを言った段階からエーレの炎が飛んできて、結果的にマリヴェルという自意識は全然揺れなかったけれど、それらを維持するための肉というか臓器が揺れちゃったようですねと言ったらエーレの炎が飛んできて、とりあえず後でもう一回気をつけて潜り直しますと言ったら、神官長の大きな手が私の頭を鷲掴みにした。
驚いた。
だが、驚いたのは私だけではなかった。神官達も皆驚いていた。
だが、誰より驚いていたのは神官長自身だ。
神官長は、私よりずっときょとんとした顔で、大きな瞬きをした。
神官長の手は大きく指も長いから、片手であろうが私の頭を掴んでしまえる。その大きな手から、じわりと温かな体温が染み渡っていく。皮膚は勿論、骨にまで届くと思える程に、神官長の手はいつだって温かい。
「……すまない。君の許可なくみだりに触れるべきではなかった」
大きな温もりが離れていった途端、その手が頭に触れる前よりずっとずっと寒くなった。これはいつも不思議だった現象だ。温かな存在が私に触れていたのに、それがなくなってしまったら、まるで氷が乗せられていたのかと思うほど寒くなってしまうのだ。
「い、え、それは、別に……別に、いつも通り脳天粉砕拳を繰り出していただいても」
「私は君に、暴、力、を……?」
「違いますすみません申し訳ございませんエーレぇ!」
「暴力というのであれば、腕を折り腹に穴を開け足を千切れさせかけ眼球を潰しかけ半身を焼くという結果が極一部の負傷である事実を全く申し訳ないと思っていない聖女の行動が、我々神官への暴力であり虐待です」
「え? お前聖女の権限使って神官長に何しやがった?」
「僕くそ忙しいんだがな、お前の診療録を読み終わらない限りは絶対に眠るわけにはいかないと確信した」
確かに私は報告を怠った。損害としての結果が出るのであれば恐らく私だけで留まる範囲だと思っていたので、報告が必要な行為だと判断していなかったとはいえ、それは事実だ。
だが、神に紐付いた記録を探った結果出てきた、人とは思えない女が先代聖女と同じ言葉を吐いた事実より優先される事象とは思わなかった。
記録であるはずなのに私の呼吸が停止するような攻撃を仕掛けてきた事実も、尋常ではない明確な狂いだ。現在から過去に手を加え、歴史をねじ曲げる行為ほどに悍ましい事象である。
それなのに、エーレが全方位に放火して回った結果、完全に優先対象から外れている気がするのだ。誰も彼もがそれどころではないと言わんばかりである。
「エーレ! 何かあったらすぐ神官長に言いつけるの止めません!?」
ついでに私もそれどころではない。
思っていたよりずっと情けない声が出た私からの抗議を受けたエーレは、そんな私を鼻で笑う。
「俺は末っ子だ。上に言いつけるなんざお手の物だ」
「襲われたりとか色々あったこと、お兄さん達に言いつけたりしなかったじゃないですか!」
「徹底的に燃やした上で、法に照らし合わせて念入りに処分したからだ」
「確かに全部自分で対処してましたね……」
末っ子とはかくも強いものなのか。最強の特権を手にして生まれてきた、選ばれた存在とすら思える。だが、全世界の末の子として生まれた人々は、エーレに抗議する資格を有する気もするのだ。
「……エーレは様々な困難を一人で対処できる素晴らしい胆力を持っているのですから、私なんて厄介な存在を所持なんてせず、気楽な生を送るべきではありませんか? たとえば、ほら、婚姻解散とか」
せっかくなので、この流れならいけるのではと、ちょっとした話題として滑り込ませてみた。
「どこをどうすればこの流れでその話題を持ち出せると判断したかは知らないが、一つ言っておくぞ、マリヴェル。俺はお前のものだが、お前が俺のものだったことは一度もないぞ」
「確かに……エーレが私のものという認識については厳密な話し合いが必要だとは思いますが、私は人の不運や不幸の捨て場としてハデルイ神が創ったので、公衆のゴミ箱みたいなものですもんね……」
「待ちなさい、二人とも。話の最中に割り込む非礼を詫びる。すまない。だが、聖女。全ての命は等しく平等に死を迎える以上、その生もまた平等であり、権利もまた同様だ。肉体と精神を健やかに保つ権利を君は有し、それを阻む権利を持ち得るものは存在しない。それはどれだけ時代の価値観が変わろうと、犯されてはならない道理だ。命に対し所持という言葉を使用したくはないが、君の言葉を借りたほうが分かりやすいというのであればあえて使おう。君の肉体、精神、その生全て、所持する権利を有するのは君だけだ。たとえ君が他者へ明け渡すよう願おうと叶わない。他者によって決定づけられることなど尚更、言語道断だ」
「僕はいま、エーレそして診療録からの情報に、一瞬でも気を抜けば腹立たしい事態が起こると書かれていた意味を深く実感しているぞ」
「おい待て聖女。暴力と虐待行為の詳細を僕はまだ聞いてないんだけど?」
どうしよう。混迷してきた。
そして誰一人としてこの混迷を収拾する様子がない。唯一収拾可能な神官長がこちら側にいるので、もうどうしようもない。
途方に暮れかけた私の前で、はっとなったヴァレトリが目にもとまらぬ早さで神官長の耳を塞いだ。ついで私とエーレも気がついたが、一歩遅かった。
「積もる話は身体動かしながらしたほうがいいと思うぜっ!」
「うっっっるせぇえええええええええええ!」
ヴァレトリ渾身の感想が響き渡ったが、特に大声を出したつもりのないサヴァスの余韻のほうが大きかった。
と、神官長以外で唯一無事だったカグマによって後から聞いた。暴れる患者を抑え慣れているカグマの鼓膜は強い。ついでに反射も腕力も強い。
それ以外の面子は皆、ヴァレトリ含め全員鼓膜に重症を負っていたので、聞きようがなかったのである。
時間がないのは確かであり、ここでとやかくしていてもどうしようもないのもまた事実だ。
私達は粛々と登山を再開した。
登山の形態はさっきと変わっていない。変わっているのは、カグマの視線が私から外れないことと、エーレの手が私の首を鷲掴みにしていることくらいだ。
流石エーレだ。脈の測り方が斬新である。
首をへし折りにかかっていると言われたほうが納得できる表情をしているが、きっとこの測り方に必要な標準手順なのだろう。
斬新な脈の測り方はともかく、とりあえず登山を開始しながら、先程私が見た記録とそれに伴い起こった現象についての議論は始まっている。
だが、過去の記録を文書や歴史物以外で読み取るという行為が初めてなので、それを確証とした異常の検証は困難を極めた。
当たり前だ。誰だって不可能な調査範囲を知らない調査方法で出した結果で判断しなければならなくなったら、困る。
何せ、前例どころかありとあらゆる基準が存在しないのだ。
検証は慎重にせねばならず、確信を持って結論づけることも難しい。だからといって保留するわけにもいかない。この事態、最早どこを取っても私達が常に最前線であり、前例となる。
帯同している神官の一部は、歩きながらも必死に私達の会話を書き留めている。その為の人員だ。その中にひっそりと交ざっている王城側の人員も同様に。
私達は今を、この事態を、後世に残さなければならない。大々的に発表できるか否かの判断はまた別に議論される。
だが、記さねばならない。残さねばならない。残し、遺してでも。
過去は変えられない。そして今はやがて過去となる。未来永劫変わることのない過去が失われる術はただ一つ。無関心による忘却だ。
獣とは違うと自負があるのなら、人は過去を喪失してはならない。いずれ過去となる己達が後世にできることなど、記し残し、前例で在り続けることだけだ。
記す術は、人が人に伝える為にある。文字とは、言葉とは、その為にあるのだから。
私達にとって、アデウスにとって、そして恐らく世界にとって、これは初めての事件となるだろう。私達は前例だ。願わくば、唯一の前例で在り続けたいものだが。
その為に、記録を残すのだ。
事件も事故も。故意であろうが過失であろうが関係ない。起こった事実をあるがままに書き残す。それは人が己と獣を線引き、世界の支配者然として振る舞う義務であり、代償だ。
人類に忘却は許されない。前世は善悪を選ばず残し、後世はそれを継いでいかねばならない。
人類は生み出すことに長けた生き物だ。人類は破壊に長けた生き物だ。人は獣より早くは走れず、空を飛べず、自らの住処となる材料をその身から生み出せず、水の中では暮らせない。
だが、脳の進化を選んだが故に知恵を得た。
故に、人は賢くあらねばならない。人は理性的であらねばならない。人は他を慮れる余裕を持った己であらねばならない。
人は、正しくあろうとする努力を怠ってはならない。
全ての命を尊び、守り、慈しむ。その義務を怠るのであれば、神は人より知恵と繁殖力を取り上げ、地の底へと埋めてしまうだろう。
命への尊重なき命は、命としての権限を剥奪される。自ら滅亡の一路を辿るだけならばいいのだが、他の命を根こそぎ巻き添えにしてしまうからだ。
人が現在の命を尊重するのは当たり前だ。だが、後世の命へも同等の尊重を向けることもまた、当然の義務であり責務だ。
これより先に前例を押し付けない為、私達が前例で在り続ける為に、何があろうと記録だけは失わせてはならない。
文字を焼く。記録を消失させる。それは人という種族にとって、神殺しと同列に数えなければならないほど許されざりし大罪だ。
それらは過去と未来を焼くと同義であると、人は忘れてはならないのだ。
「過去の記録であるはずの女が私を認識していた理由は、まあ幾つか推測しようと思えばできるんですよね。神が関わっている故に、どう足掻いても推測止まりで確信には至れないのが痛いですが」
「確信には至れぬ事象を、都合だけで確定してしまうことほど危ういことはない。寧ろ今は、確信に至れぬと認識できている状態を大切にすべきだ。君の意見を聞きたい」
神官長のゆっくりとした重い声は、いつだって安心する。この声がかつて絵本を読んでくれたのだと、くまさんとうさぎさんのダンスを語ってくれたのだと思うと、くすぐったい。
しかし今はそのくすぐったさに浸っていられない。この人の為人が、その有り様のまま当たり前に過ごせる世界を守るためにできることは何でもやらなければ。
「今のところ最有力候補としては、あれが過去の記録ではなくまさしく過去である可能性ですね。つまりは私の意識が過去に到達していたいうことになります。それならば、あの女が私を認識してもそこまで不思議ではありません。ちなみに意識だけとはいえ過去に戻れるか否かは今回論争しないものとします」
何せ神が関わっているのだ。全ての常識は通用しないと思ったほうがいい。
故に答えなどないのだが、例え推測であろうと可能性を考えたか否かで、状況は大いに変わる。
間違っている。その前提があれば次へ進めるのだ。
「そうしたほうがいいだろう。しかし今回重要視しなければならない論点は、君がいとも簡単に負傷し、尚且つ生命維持が困難になることだ」
「あーそれはまあ、私もうだいぶ残り滓なんで。稼働していることがわりと奇跡の類いなんですよ。本来ならば既に廃棄されていた部位が、稼働期間を終えたのに惰性で動いているみたいな感じでご理解いただくと分かりやすいかと」
「……君の認識に物申したいことは山ほどあるのだが、それが事実であるのなら、我々はその上で君の無事を確保しなければならない。それが黒を纏う神官の役割だ。……君は」
ほんの僅か間、神官長が悲しげな瞳になった気がした。しかし、私が飛びあがって驚く前に、その瞳は消え去り、残ったのは時に痛々しさすら感じると評される生真面目な形を色濃く纏った、いつもの神官長だった。
「いや、君が聖女である以上、神官の務めを侮ってはならないと、過去の私は君に教えなかったのだろうか。ならば私は、神官長の位を戴くにはあまりに未熟であり、不相応だ。今すぐ聖女へと返上し、二度と神殿に関わらないと誓うべきであろう」
「あ、なた方を、侮っているつもりはありません。それだけは決して」
きっと私が間違っている。間違っているのだ。
それは分かっている。
私はきっといつも、間違えている。
この人達に言葉を飲みこませてしまったとき、いつも、心の片隅でそう叫ぶ自分がいる。
私は何か、在り方を間違えているのだと。
だけど、できないのだ。この人達が望む形には、なれない。なってはならないのだと、そう叫ぶ自分がいるのもまた、事実で。
神官としてのこの人達の在り方を蔑ろにして、優しい、美しい命としてのこの人達を悲嘆の海に沈める言動を私がしているのだと、それだけは分かっていても。
私がそれを認めてしまうと、あなた達は確実に、罪人となってしまうのだ。
あなた達は、そうなっても構わないときっと言うのだろう。現にエーレはそう在りたいと言ってしまった。
けれど私は認めてはならない。認めたく、ない。絶対に、それだけは。
だから分からないままでいい。私という存在は、あなた達を悲しませ、あなた達の決意を蔑ろにする塵屑でいいのだ。私が彼らという命を貶め、罪人へと引き摺り落とした。だから罪の在処は私だ。私にだけ存在する。
神を前にするにはあまりに稚拙な言い訳かもしれない。けれど、命を誰より愛した神であるハデルイ神ならば、愚かな私の稚拙な逃げ道を、きっと汲んでくださるはずだから。
「申し上げた通り、一瞬でも気を抜けばこうなるので、弱った隙に全力で叩きのめす戦法をお勧めします」
「……改めて確認をしたいのだが、エーレ、君が彼女へ向ける感情は愛情で間違いないのだね?」
「腹立たしさと憎らしさが大部分を占めていますが、人間が掲げる定義における幸せを享受していない状態を見ればその何百倍も腹立たしいと思いますし、どうせなら俺の隣で、更に言うならば俺の手によって幸せになっているのであれば溜飲が多少下がります」
「……………………判断に、少し時間をもらおう」
とりあえず、頭上で苦悩を浮かべている神官長と、私の下でだんだん腹立たしさが再燃してきたらしいエーレの間にいると藪蛇が顔を出しそうなので、そろそろ話に戻っていいだろうか。
確証には至らずとも、様々な角度からの話し合いは続く。ついでに登山も続く。
しかし、雄大な霊峰の頂へはまだ少し時間を要する位置で、私達の足は止まった。
霊峰は王都にとってだけではなく、アデウスにとって水の要所だ。とても細く小さな源流から始まり、やがては大きな川となる。その過程で、様々な名所が生まれた。
頂上付近にある巨大な湖。そこから連なる場所にある巨大な滝。そうして脈々と流れる過程で様々な美しい景色を作り出している。
先代聖女が仕込んだとされる呪具は、そのどれでもない場所にあった。
一番高い位置にあるわけでも、一番大きいわけでもない。されど標高が低い位置にあるわけでもなければ、大きくはないが小さくもない。現在は本流とされる流れから少し外れてはいるもののいずれ合流する、そんな湖に、それはあった。
「これはまた……三班でなければ湖から引きずり出すことも困難だったでしょうね」
エーレごとそっと地面に下ろされた後、エーレと神官長の手を借りてなんとか直立の体勢へ移行しながらも、思わずそんな感想が漏れた。
「君の言う通りだ。この部隊でなければ即時撤収を命じていた」
私が立って初めて、神官長は私から視線を外し、私と同じものを見た。
湖の中央に浮かぶのは、神殿の要と呼べるヴァレトリ率いる一番隊、その中でも呪いなど特殊な事例を扱う専門家達の手によって湖から引きずり出された呪具だ。
禍々しい。それ以外の言葉が必要ないほどの悍ましさが、そこにはあった。
私の両手で包み込むことはできずとも持つことは可能な大きさの、丸い物体。
どこまでも丸い、完璧な神玉が、悍ましい呪いを垂れ流している。本来ならばあり得てはならない事態だ。だが、あり得てはならない事態が積み重なり続けている現状、最早神殿は驚くことにも疲れ切っている。
それにしたって、呪いの濃度が酷い。かろうじて視界は確保できるものの、既に張られていた結界がなければここにいる人々の肌は爛れ、神殿が襲撃されたときと同じ惨状になっていただろう。
冬が近いこの季節、霊峰は既にかなりの寒さになる。朝晩ともなれば白い息が出る。しかし結界がなければ、ここで出るのは白い息ではなく呪い混じりの吐血だったはずだ。
現にあのとき、神官達は多くがその肌を爛れさせ、視界を失い、臓器に多大なる被害を受けていた。それが今こうしていられるのは、彼らの努力の賜だ。
あのときの経験を元に、神官達は己の結界を調整している。当然、神官長もだ。だからこそ、この場にいる神官達は誰も負傷していない。勿論それは、誰にでも出来る芸当ではない。しなければならないと、彼らの誇りが無理を押し通し、その才と無心の努力を経た結果が、強固なる結界の進化である。
「事前の報告で聞いてはいましたが……私だけではなく皆に視認できるほどのこの呪いが、湖から引きずり出されて初めて放出された事実には感謝するしかありませんね」
「同感だ」
忌々しげな舌打ちはエーレからのものだった。舌打ちで済んでいるのだから、かなり押さえているほうといえた。
アデウス全土に忘却を齎したにしては小さすぎる呪具の形も、これだけの呪いを内包していた呪具から放出された忘却の術を皆が飲んでいた事実も、全てが許し難い。
三班の神官達が、針に通したいとを更に針で貫くような繊細さで以て維持されている高度にある禍々しい神玉を、私達は見つめ続ける。
呪具の形が、古い。……古すぎる。私が記録で見たあの女と先代聖女の間に、何か繋がりがあるのだろうか。
ふっと小さな息を吐く。最近ずっと、重大な疑問を後回しにしなければならない状況が続いている。重大でいて、されど晴れぬ疑問を積み重ね続けなければならない皆の負担が心配だ。
何はともあれ、これを何とかしなければ何もできない。この流れもまた、最近いつもこればかりだと頭を過るけれど。
明日からこの山は、聖女選定の儀の会場となる。そうでなくても、こんなものが沈められている水をアデウスの民に飲ませるわけにはいかない。
湖から引きずり出した呪具は、複数の神官達の神力によって宙に鎮座している。複数の神力によって現状を維持できているとしても、そこには必ず要が存在する。
湖の円周へぐるりと視線を流し、三班班長の姿を見つけ、彼女の元へ移動してもらう。移動しているのは神官長とエーレであり、周りの皆だけだ。私は自力歩行していないので、移動というより運搬だ。
三班班長ガリナ・ボウギー一級神官は、私達が近づいても、私は勿論神官長に対しても視線を向けない。真剣な顔で呪具を見上げ続けている。その額には薄ら汗が滲んでいる。
少しふくよかな体型をしている三人の子どもの母である彼女は、元来穏やかな女性だ。胆力は凄まじいが、基本的に礼儀正しく、ゆっくりと挨拶を返してくれる、そんな人である。
だが今は、私達の接近に気付いているであろうに、一瞥もくれない。
当たり前だ。呪具を引きずり出している神官達の神力は、彼女が統轄している。少しでも制御を誤れば、そこへ集中する神官達の力がほんの僅かにでも噛み合わなくなれば、あれはすぐさま湖の中へ戻るだろう。
辺り一面に轟音が響いている。この音が嵐でも山鳴りでもなく、呪いが生み出した暴風からだと、実際目にしなければ誰も信じられないだろう。
あれだけの呪いを放出したままの呪具を、アデウス全土に通ずる水源に落とすわけにはいかない。これは単純に毒物を水に混ぜ込むという問題ではないのだ。
それだけならば、水を堰き止めればいい。だが、これは駄目だ。たとえここが水源でなくとも、この山に、アデウスの霊峰であるここに、この悍ましいものを紛れ込ませるわけには絶対に。
神具を呪具に利用する。かつて聖女と呼ばれた女がそれを行える精神など理解したくもないが、その技術も理屈も分からないことが何より歯がゆい。
全てが古すぎる。知識も、記録もない。
見つめてもその謎が解けるはずがないと分かっているのに、じっと見つめてしまう。ともすれば睨みつけそうになる。
これが、この呪いが、私からお父さんを、あの温かな場所を。
私を、この世の幸いから追い出したのだと。
揺らめきかけた思考を、唇を噛みしめ、振り払う。駄目だ。それは抱いてはならない感情だ。
意識を散らし、神官達へと向け直す。
「ガリナ・ボウギー一級神官。私が結界から出ると同時に、あの呪具から自身の神力を切り離すよう班員に伝えてください」
「聖女様っ」
流石に驚いたのか、それまで呪具へ集中していた彼女の意識が散りかけた。すぐに冷静さを取り戻していたのもまた、流石だ。
神官長はひとまず私を自由にさせてくれている。制止すべきか判断できるほど、神官長は私を知らない。
エーレ? 勿論冷ややかな炎を浮かべている。いとも簡単に矛盾するの止めてもらっていいだろうか。
「大丈夫です。切り札はきちんと持っていますので。寧ろ、指示に従わない神官がいたほうが危険です」
「切り札の説明を求めよう」
「おいお前、さっき呼吸停止したの覚えているだろうな。医師の前でふざけんな」
「マリヴェル、お前の切り札は俺だろう」
「満場一致で反対意見が出たようですので、私も賛成いたしかねます聖女様」
「エーレはちょっと黙っててもらっていいですかね」
とりあえずエーレは置いておくとして、神官長には説明すべきだろう。そう思った瞬間、全身が総毛立った。
「総員神力を切り離しなさい!」
叫んだのは、最早反射に近い。そしてその反射に、神官達は従ってくれた。
当代聖女を覚えていない神官達は皆、置き去りの理解をそのままに、ただただ聖女の言に従い、アデウス国民を危機に陥れる可能性を取ってくれた。
それが、どれだけ。どれだけ。私の中に、叫び出したいような感情を生み出したとしても、意識を割くことはできなかった。彼らの信頼の結果を、無惨なものにしてはならないのだから。
叫ぶと同時に浄化の力を発動した。何故か花が散るようになったが、ある種発動が分かりやすくていい。呪いすら視覚化しているのだ。現状を誰の眼でも把握できるのは、集団戦では大きな利点となる。個々人の能力が高く判断に信頼ができる戦況なら、尚のこと。
花が呪いの中を舞い散り、混ざり合う。呪いの色に変色した花もあれば、呪いをかき消して回っている箇所もあった。現状拮抗していると言いたいところだが、若干こちらが劣勢だ。一度この力で呪具を無効化しているからかもしれない。対応が早い。
だが、私に切り札があるのは嘘ではない。
「エイネ・ロイアー! あなたに一つ忠告しておきましょう!」
私の顔面を削るために用意された呪具からでさえ、彼女に繋がったのだ。こんな大規模な呪いを設置している呪具が通じていないわけがない。
だから私は胸を張り、不敵に笑った。
「今の私は、あなたが思っている百倍は脆いですよ!」
「――――は?」
とっておきの切り札を出したのに、エーレ含む神殿側の反応はそれ一択だった。何故だろうと思ったが、とりあえず続ける。
「今すぐこの呪いを解かないと、この余波だけでも私は壊れます! いいのですか!?」
エーレが私を見つけるまで、私は無防備な状態だった。私自身も、スラムで当然すべき自衛以外にまで手が回っていなかった。あの状況で先代聖女派に襲われていたら、私という個はあの段階で終わりだっただろう。
だが、そうはならなかった。そうなっていないから、今こうなっているのだ。
エイネ・ロイアーには、私を壊せない理由がある。私が絶望し、自壊するよう促すことしかできていないのだから、恐らくこの推測は当たっている。
ならばこの状況は、彼女にとって不都合極まりないだろう。
「あなたが私の中から取り出したいものを抱えたまま、ここで壊れても構わないのであればそのままどうぞ。あなたのご判断にお任せしましょう」
一際激しく風が鳴いた。色濃く呪いを纏った風は軋むように鳴いた後。
ぴたりと、止まった。
辺り一面轟いていた轟音が、瞬き一つの間に忽然と消え失せる。突如訪れた静寂と清浄な山の空気は、不気味なほど清々しかった。
後には、目的を見失った私の花だけが舞っている。変色した花は舞いながら消え、残った花は水面に触れるや否や溶けるように消えた。
私の世界全てを裏返したかのような崩壊を齎した呪いの発生源は、その被害には似つかわしいとはとてもいえない呆気なさをもって。
消失した。
「……私の中に何仕舞ってるんですかね?」
確かに私の核は神の器であり、私という個はそれを覆う表皮なのだが、私は別に金庫ではない。ついでに箪笥でもないし、収納棚ですらない。
そもそも神が創作した私という器に、余計なものを入れないでいただきたいのだが、何が入っているのかすら分からないので、当然取り除く方法もさっぱり分からない。
「どうしたものでしょうかねぇ」
「……マリヴェル」
「まあでもひとまず、アデウス全土を覆った呪いの発生源を除去できただけで良しとしましょうか!」
「マリヴェル」
土が見える。山の土は湿っている。こういう土は食べやすい。でも石がかなり混じっているから、取り除かないとなると大変だなと思いながら、地面に中途半端に埋まっている小さく尖った石を見つめる。靴先が視界に入りかけて、もう一つ向こうの石を見ることにした。
そんな私の視界を、温かな手が覆った。土も靴先も何も見えなくなる。
「後は俺がやるから、お前は少し眠っていろ。カグマ、マリヴェルを眠らせてくれ」
「何言っているんですか、エーレ。呪いの残滓探知とか、場合によっては除去作業とか、私いたら便利ですよ。ここまで私運んでもらっただけだったんで、ちょっとは働きますって。そうでなくても忙しいのに。ほら、私が逃亡せず仕事するんですよ。こんな希少なこと逃しちゃ駄目ですって!」
瞬きができない。見開いたままの視界は赤い。光が透かしたエーレの命の色が見える。それだけが。
「……まだ呪いが消えていない神官長達の顔を見るのは、目覚めてからでいい。カグマ、頼む」
「分かった」
笑っている。私はちゃんと笑っている。
それは確かだ。
それなのにエーレは、私の意識が解けるように落ちるその時まで、決してその手を離さなかった。




