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忘却聖女  作者: 守野伊音
四章
68/120

68聖








 エーレから視線を外して初めて、自分の惨状が見えた。肌が、肉が、まるで硝子片のようだ。宝石にも見えるけれど、そんな高価な物に例えるのもどうかと思うので硝子片でいいだろう。そもそも、形を整えるか同じように砕くかすれば、私には宝石も硝子片も見分けがつかない。

 散らばっている硝子片が星のように瞬いていて、そんな場合じゃないのに綺麗だなと思った。エーレの瞳に入らないといいけれどと、それだけが心配だ。


「人の子」


 重い溜息が、私の口から響く。


「あれには困ったものだと思っていたが、お前も相当だ……否、お前達か」


 私の手が持ち上がり、私の胸に触れる。その度、光る破片が落ちていく。


「これの認識が変わっておらなんだゆえ油断した。少し目を離しただけで、これに人を教えたか。たかだか十年やそこらで……だからこそ人の子は面白いのだが、これに関しては困りものよ」


 溜息は重いのに、そこに苛立ちはない。


「これをあまり人に近づけるな。言うたであろう。結末は変わらぬと。創った我と関わればある程度は戻るであろうが、人は崩壊を恐れるゆえ面倒だ。普段は人の世に紛れ込ませている代償ではあるがな」

「……マリヴェルは、人間だ」

「人ではない。神である我が創った人形だ。お前達も、薄々は気付いていたであろう」

「か、み……」

「そうだ、人の子よ。我は、お前達が神と呼ぶひとつだ」


 やれやれと私が竦めた肩が割れる。痛みはない。エーレのほうがよほど、血を流したかのような顔をする。


「これは人ではない。人となってはならぬ物だ。あれを殺すため、我が用意した器よ」

「……あれ、とは、何だ」

「お前達が聖女と呼ぶ存在だ」


 割れた感覚も届かないけれど、音だけは聞こえた。


「最早この地に神はいない。我も既に残滓となって久しい。だがあれは人には殺せぬ。ゆえに我らが殺さねば、人の子らには止められぬ。それゆえ新たな神が生まれた。だが、この地に立つべく生まれた神は、この地と在った概念を必要とする。しかしそれではあれに見つかる。揺れる幼神(おさながみ)ではあれには敵わぬ。ゆえに、これを創った。これは幼神をこの地に確立させる器である。あれに見つからぬよう、人の世に紛れ込ませるため器を覆った表皮。それが、お前達が十三代聖女と呼ぶ物だ」


 私が覗き込んだエーレの瞳に花が映り込んでいる。私に咲いた花をくっきりと映したまま、エーレは微動だにしない。


「これは、神が収まり神として確立されればふるい落とされ廃棄される存在。覚えておらずとも、知っている。ゆえにこれが己の価値を信じることなどあり得ない。守られるべきはこの地に生きる命であり、それらを守るために創られた物ではない。人の子よ、これはあくまで物だ。ただ動くだけの、物なのだ」


 そうだ。神官長が人として生かしてくれたから、皆が私を人として扱ってくれたから、私はそうなった。あなた達の愛が、私に人を知らしめた。人になってはならない物が、人に紛れ込んでしまったのに、あなた達は正しい愛を与えてくれた。

 正しいのも、愛おしいのも、尊ばれるべきはあなた達だ。あなた達だけなのだ。

 つらつらと、歌うように、私が語る。私が覚えていなかったことを、けれどどこかで知っていたことをエーレに教えていく。


「間に合わせで創られた人形が、廃棄の狭間で夢を見た。これはただ、それだけのことだ」


 聞き分けの悪い子どもを諭すように。どうしようもないことを、理解によりほんの僅かでも納得させてくれようとした、神官長のような優しさで。

 神様は綺麗に笑ったはずなのに、エーレの顔は酷く歪む。


「だったら……だったらマリヴェルは何のために生まれてきたんだっ……!」

「何を泣く? 人の子よ、何を嘆く? 命として生まれもしていない人型から、一体何が失われるというのだ」


 神でも人でもないのに、人の形で生まれてきた。


「私には最初から、明日なんてなかったんです。私という皮をふるい落とし、神はこの地へ降臨する」


 使い捨てられる為に、創られた。


「それがあなた達の明日となるのです」


 だからエーレ、どうか私を諦めてください。

 神様が、私の顔を使って私の言葉を代弁する。私の意思を伝えてあげようという優しさではない。エーレを納得させてあげたい優しさだからだ。優しさは物ではなく命へ向けられるべきなのだから、そうしてくれてありがたかった。

 それなのに、エーレは泣くのだ。


「…………どうして誰も、俺の聖女を救ってくれないんだ」


 はたりと、エーレの頬から雫が零れ落ちる。


「どうして」


 まるでここに絶望があるかのように。


「お前の死を嘆く人間が、俺しかいないんだ」


 そう、泣くのだ。


「嘆く権利を奪われ、そうしてお前を失う神官長達の絶望を、お前が理解できない理由だけ知って何になるっ! どうしてっ……どうして、嘆くことすら許されないあの人達の痛みを、俺しか知らないんだ……」


 エーレ一人が、泣くものだから。

 神様は困り果てた顔となった。


「邪魔立てするならば叱るが、愚図られると我は少々弱るのだ。我ら十二神の中、我は誰より人の子贔屓なのだから」


 先代聖女の目的とか、いま神がいない理由とか、説明していない箇所は数多ある。けれど神は人とは違うので、言われなければそれが人にとって必要であると失念してしまう。そしていま、神に唯一問いかけができる立場にある人は、もういっぱいいっぱいだった。


「さて、どうしたものか。用意が整い次第我らが出る予定ではあったが……これは困ったぞ。人の子よ、これが欲しいのか? どう使いたい? 人の子は光り物を好む傾向にあるな。ならば飾りたいか? ならば破片をあげよう。ほら、どこが欲しい? お前が欲しい部位を砕いてあげよう。瞳か? 腕か? 足か?」


 項垂れたまま動かないエーレに、神は首を傾げる。


「駄目か? ふむ、他には……そうさなぁ……そういえば肉には欲があったな。これを使うか? ならば一夜授けよう。好きに使えばよい。確かに、いつの世も人の子は欲を満たすを好むものよ」


 瞬き一つの間に服が失われ、ひび割れた身体が元に戻っていく。足を擽る感触で、髪が伸びたのが分かった。自分の意思では動かせない視線が向いた箇所を見る限り、結構細部まで割れていたようだ。


「このまま使うか? それともお前の好む形に作り替えようか。器を作ったのは初めてでな、人の子が好ましく思う形など考えてはおらなんだ。どのような形がよいのだ? 好きな形に整えてやろう。増やすか? 削るか? 伸ばすか? 縮めるか? 核はお前達がマリヴェルと呼ぶこれをそのまま使うか? しかしこれは少々喧しいな。静かで従順な核を望むならば少し砕き、核に変容を」

「……やめてくれ」


 両手で顔を覆い、項垂れるその背は酷く小さく見えた。春の新緑のような色を持ちながら烈火の如き怒りを抱ける人が、怒ることも炎を起こすこともできず、冬に閉ざされる。


「もう、やめてくれ」


 どうしよう。どうしたらエーレは笑ってくれるのだろう。


「……俺達に必要なのは、マリヴェルだ。神官長が名付け、俺と神殿で育ち、俺達と日々を過ごしたマリヴェルが、身体も精神もマリヴェルのまま、そうして続く明日が欲しいだけなんだ」


 どうしたら、私を諦めた世界で幸せになってくれるのだろう。

 分からない。分からないのだ。私を創った神様でさえ分からないことが、私に分かるはずもない。

 忘れたほうが、いいのだろう。私という存在を忘れてしまえば、嘆きも失われる。

 そう考えたのは神様も同じだったのだろう。だがすぐに困った顔をする。


「弱ったものよ。忘却が未来永劫続けばよいが、消失でない以上いずれは開放される記憶として残すわけにもいかぬし、お前に傷をつけず魂を弄れるほどの力は、我にはもう残っておらん。お前はただでさえ時を止めていた期間があるのだ。へたに弄れば取り返しのつかん傷になりかねん……ゆえに、お前は小さいなぁ。精神の遮断に身体が追従し、同じ年月を生きた人の子より格段に肉体が成長しておらぬ。……お前は少々、力が強すぎるのだ。世が世であれば、人の子は神の子としてお前を祀っておったかもしれぬな」


 神様は深く溜息をついた。


「人の子よ。我はお前達の営みを好いておる。その為に必要な手段としてこれを創った。ゆえにこれは諦めておくれ。これは必要な物だからな、くれてはやれぬのだ」


 エーレは首を振る。


「そう駄々を捏ねるでない」


 エーレは首を振る。


「人の子には、もっとよい物をやろうな。何が欲しい? 菓子か? 金か? 国か? 何でも叶えてやろう。これ以外ならば、我に残った力で、お前の望むもの全てを叶えてやる。不幸を寄せ付けぬ生涯は? 全てお前の望むがまま満たされる生は? 老いず美しいまま過ごす時は? 途切れることない財宝は? 誰もがお前に傅く未来は? 望むもの全てが手に入る安寧は?」


 首を振る。エーレは首を振り続ける。もう顔を上げることすらできないのに、ずっと振り続ける。


「我を困らせるでない。欲しいものをやろう。だから、泣きやんでおくれ。何が欲しい?」

「――マリヴェル」


 泣き枯れた声で、それだけはきっぱり答えるものだから。

 神様は困り切ったまま、頭を掻いた。


「うーむ、弱ったぞ。どうする。いましばし、人の子らにお前の器を貸し与えるか?」

『いいよ』


 次いで聞こえた軽やかで澄み切った幼子の声は、幼子とは思えぬほどはっきりと言葉を紡いだ。


『われは……われ、おれ、わたし、ぼく……ぼくはまだすこし、ねむっているから。ハデルイも、すこし、やすむといいかしら』

「……そうするか。あれの望む物をこれから回収せぬ限り、あれもまだ動けぬであろう。ならば、今しばらく人の子らの好きにさせよう。元は人の災厄。人の子らだけで立ち向かうもまた摂理であろう。それにしては、あれは少々化け物が過ぎるが」


 笑う神に、そういうものかしらと幼い神の声が傾げられる。


「時々、お前のような人の子が現れる。神に災厄を委ねればよいものを、自ら望み苦行を背負う奇特な子よ」


 幼い神の姿はない。声だけが聞こえる。神もそうだ。どちらも姿は見えない。違うのは、神は私を使って声を出し、幼い神はどこからともなく声を紡いでいる。


『ハデルイ。ぼくはひとつ、たずねたいことがあるのだけれど、いいかしら』

「これにか? 好きにせよ。お前の器だ」


 かくりと、私の首が折れた。


「人の子よ、事態はしばし、人の子らの手に委ねようぞ。最早手に余ると判断すれば、我を呼べ。それまで、我も少し、眠ろう。あれからずっと、稼働を続けているのでな。我とて、少しは、疲れるのだ――……」


 言葉が途切れるか否か判断がつかない速度で、私の身体が崩れ落ちた。理由はどうあれ、身体を治してもらっていよかった。そうでなければ、今の衝撃で文字通り崩れ落ち、砕け散っていただろう。

 いつの間にか顔を上げていたエーレが広げた両手の中に倒れ込んだ私は、その勢いのままエーレを潰した。長さの戻った髪がエーレを埋める。潰す寸前、一瞬だけ邂逅した瞳から散る雫に、綺麗な人は泣いても綺麗なのだなとなんだか感心した。


『ねえ、ぼくのうつわ』


 はい。そう答えたつもりだったけれど、声が出なかった。しかし返事は届いたらしい。澄んだ声は続く。


『ぼくがうまれるせかいはうつくしいかしら?』


 少しだけ言葉に詰まったのは、声が出にくかったから。それだけだ。それだけでいい。

 ゴミ山も、ゴミとして扱われるのも慣れている。それでも、それら全てをひっくるめても。


「貴方様が生まれるに値する世だと、断言致します」


 温かな命が紡ぎ出す美しい景色を、私は知っているのだ。








 声の気配が完全に消えた瞬間、空気は明らかに変わった。限界まで引っ張られていた布がたわんだように、空気が緩む。息がしやすい。

 ただ、小さく息を吐いたとき、どうも頬に違和感があった。うまく力の入らない手で触ってみると、何やら亀裂がある。どうやらここは割れたままらしい。

 ……え? これどうなってるんだろう。


「エーレ、私の顔どうなってます? あと、胸の花とかいろいろ」


 エーレは答えない。私を抱える腕の力がエーレなのに痛いほどだ。


「エーレぇー? エーレさぁーん」


 エーレは答えないし、動かないし、私もこれ以上動けない。やることがないので、エーレを潰したままじっとする。暇だ。暇だが、エーレが温かいのでまあいいや。


「私、今日が寿命だったんですね。神様が予定を教えてくれていたら、こんなにびっくりしなくてよかったんですよねぇ」


 よく見ると、指もまだ戻りきっていなかった。割れた指の隙間が、光を反射してきらきら光っている。今まで怪我をして流れていた血の色はどこにもなく、透明が作り出す七色が見えていた。肌が戻ってきている場所は切ったら血が流れるのだろうか。それとも破片が転がり出てくるのだろうか。試したら怒られるだろうか。


「すみません、エーレ。私、人じゃなかったみたいです」


 眺めている間に、指の割れは少しずつ閉じていく。こうして見ると、なんだか人みたいだ。


「私、捨てられたんじゃなかったんですね。そもそも私を産み落とした親がいないのであれば、捨てようがありませんし。私は神様が創った人形だから、物で合っていたんです。ずっと、ずっと、私が物だったのは当たり前だったんです。だって私は最初から、命ではなかったんですから」


 割れ損なってしまったけれど、割れてよかった。私が私のまま取り出せた情報は、きっと役に立つ。この人達の明日を守る役に立つ。私に与えられた役割はそれではなかったけれど、私が果たしたい役割だってあっていいではないか。


「……だから、なくしたのは、神官長達が初めてだったんですね」


 私は私でさえ私のものではなかったから、私の物を何も持っていなかったから、何も無くしようがなかったのに。それなのに私はあの日、世界が私を忘れた日、初めて喪失を知った。

 喪失は、私がいていい場所を神官長達が与えてくれていた証左だった。喪失こそが、証明だった。


「エーレ、神様は本来人の納得なんて必要としないので、順序立てて説明なんてしてくれません。結局先代聖女の目的とか、あの人一体なんなのかとか、全然説明してくれなかったので、聞かないと駄目ですよ。聞いたらたぶん答えてくれましたよ。神様は別に統制したくて情報を絞っているわけじゃなくて、語る必要性を感じていないだけなんで」


 私が潰している身体は薄く細い。昔から、年より幼く見られる人だった。成長には個人差があるとはいえ、その過去に尋常ではない期間があれば話は別だ。


「エーレの昏睡についても言っていましたよね。エーレ、寝ていた時間の分は肉体が成長してないんですか? ほら、そういうところもちゃんと聞かないとですよ。他にも気になる箇所いろいろあった気がするんですけど、私いまあんまり頭働いていないんで、エーレにお任せしますね」


 自分の声を、自分の意思で出せるのは結構楽しいことなのだといま気がついた。それが、自分の意思を自分で伝えられないのに、もどかしさを感じることもできなかった現状から解放された開放感なのかは分からないけれど。


「エーレ、駄目ですよ。せっかく放任主義の神様が災厄の対処に乗り出してくれているのに引き受けちゃうなんて。その災厄がどんなのかは知りませんけど、神様が出向く事態なんですよ? 人が相対してはならない相手ってことなんですから」

「……うるさい」


 やっとエーレが喋った。けれど顔は上げないし、腕の力は弱まらないし、体勢も変わらない。

 エーレが動けなくなってるだけだったらどうしようと心配していたが、重ければ重いと、邪魔なら邪魔と言う人だから、喋れるのなら大丈夫だろう。


「……お前、どうしてそんなに機嫌がいいんだ」

「え? だって嬉しいじゃないですか」


 私はずっとふわふわしている。頭の中も、身体の感覚も、心も、全部がふわふわふよふよ浮ついて。浮いて、飛んで、ちっとも定まらない。

 だって、安心したのだ。

 ずっと怖かった。神の如き力でアデウスに襲いかかる訳の分からない災厄が、いつか神官長達に辿り着いてしまうのではないかと。今ならまだ私を忘れるくらいしか被害が出ていないけれど、そのうち、彼らが害されてしまうのではと。彼らの心身が損なわれてしまうような恐ろしいことが起こらないかと、ずっと恐ろしかった。

 けれど、神様が引き受けてくれると言ったのだ。今は一度人の手に降ろしてしまったけれど、手に余ると願えば動いてくれると言った。

 ほっとした。安堵した。もう心配すべきことは何もない。

 そう言えば、エーレの腕の力は弱まった。どうやらエーレもほっとしたらしい。

 事態が目まぐるしく変わり、今だって訳の分からない空間にいるのだ。エーレもうまく思考を回せていなかったのだろう。だが、もう大丈夫だと分かったはずだ。

 力が弱まったおかげで動きやすい。動きやすいといっても、この狭い空間だ。転がるくらいしかすることがない。そしてエーレの上で転がるとエーレがクッキー生地みたいになるだけなので、大人しくしておく。足だけでもばたつかせてみようと思ったが、左足が動かない。ついでに他にもいろいろ動かない。

 どっちにしろ動けなかった。どうやら見た目は戻っても機能はそのままらしいが、まあ別にいいだろう。

 なんだかうきうきしてきた。

 作られた意味である役目は果たせるし、私の大切な人達は何も失わなくていいし、誰も傷つかない。

 なんだかみらいがわくわくしてきた。なんだかすてきなことがまっていそうだ。きっとすばらしいあしたがまっている。

 いいことづくしだ。ぜんぶすべていっさいがっさいなにもかも、すばらしいことだらけで。


「神様にお願いして後のことを任せれば、全部解決するはずです。それこそ、エーレ達が知らぬ間に、知らないところで全部終わってます。だから、もう何も怖いものはないのですよ、エーレ」


 エーレの両手が私の背中から滑り、身体の横にぱたりと落ちる。安心したら眠たくなりますよね。分かる。


「何も失わなくていいし、誰も傷つかないでこの事態に収拾がつくんですよ。浮かれる以外何すればいいんですか。まあ、神様が排除対象に入れている存在はその限りではありませんが。他に気をつけるところは……そうですね……事態が解決しても多分神様は説明とかしてくれませんし、いつの間にか終わってるはずですから、全容が気になるなら私がいる内に私を使って情報を取り出してください。早く使わないと崩壊しちゃうと思うんで、神様に渡す前にうまく使ってくださいね!」


 私の身体がゆっくりと浮き、沈んでいく。エーレが深く呼吸をしたからだ。溜息というよりは深呼吸だ。ゆっくり持ち上がったエーレの腕を、なんとはなしに眺める。その手は再びエーレの顔を覆った。


「誰も傷つかない、か」

「ほっとしました」

「俺は最近ずっと、致命傷と呼べる規模の傷を負い続けているわけだが」

「……え?」

「俺についた傷の大半は当代聖女がつけているだけで」


 不可解なことを言い出したエーレに首を傾げると同時に、世界が揺れた。あり得ない事態に、身体が強張る。さっきまでのふわふわした気持ちも同様に。

 だって、ここが揺れるはずがない。ここが世界の影響受けるはずがない。

 だから驚いたのだが、すぐに違うと分かった。揺れているのは私達だけで、自発的に揺れているのはエーレだけだ。

 エーレは笑っていた。顔を両手で覆っているから表情は見えないが、確かに笑っている。上に乗っている私が揺れるほどの威力で笑っている上に、ついには声を上げて笑い始めるものだから、いろいろと心配になってきた。


「エ、エーレ? 大丈夫ですか?」


 頭でも打っただろうか。

 それとも。

 あの、黒い空間を思い出したんだろうか。

 ひゅっと呼吸が空回りした。あの空間で聞いたエーレの絶叫など、二度と聞きたくない。

 胸だけでなく、手足の先まで瞬時に凍り付いた私の下で、エーレの笑いはぴたりと止まった。


「大丈夫なわけあるか」

「え」


 ゆらりと動いたエーレの手が、私の頭を鷲掴みにした。そのままエーレの瞳が近づいてくる。泣き枯れた赤みを残したそこに揺れる感情の炎は、随分物騒な色を宿していた。


「ふざけるなよ」

「え」

「まだ理解できていない箇所も、信じ切れない場所も多々あるが、それでもお前が俺達の願いを簡単に取りこぼしていく理由は分かった。神官長の言葉をあれだけ丁寧に抱え込むお前が、その一点に関してはまるで開いた指で水を掬い取るようにしか抱えられないのは何故か。それは、よく、分かった」


 ぎりぎりと、頭に力が籠もっていく。瞬間的な威力ではなく、持続的な力でこの威力を発揮できるとは。エーレとは思えない威力だ。


「分かった、が、微々たる物しか残らずとも微々たる物は残るのだと、神殿が十年以上にわたり積み重ねてきた物を、こんな一瞬で台無しにされて大丈夫だと思うか?」


 ここぞという予算をもぎ取るぞというときと同じ顔をしているのは気のせいだろうか。


「言いたいことは多々、山ほど、溜まっている俺の書類以上にあるが」

「そんなに」

「とりあえず、俺とお前は友人関係であるため、お前が死ねば俺も死ぬ」

「は?」


 そんな結論に至る話ではなかったはずなのだ。むしろ、その結論を覆すに値する話で纏まったはずだ。


「友人関係であろうがなかろうが、エーレが怪我するなら私が死にますが、私の破壊とエーレが連動する必要はないどころか許されてはならない。あなた達が損なわれないために私がいるのだと、そういう結論に落ち着きましたよね?」

「俺は何一つとして納得も承諾も了解もしていない上に、検討すらしていない案件だな」

「……どうして?」


 だって、そうあるべきなのに。そうあるべく私が創られ、そうあるべく私がいて、そうあるべく神が動いている。その結果が皆の幸いだというのに、一体何が気にかかっているのだろう。


「マリヴェル」

「はい」

「お前が怪我をしてはならない理由は?」

「神様が使うまで壊れてはいけないからですよ?」


 当たり前のことを聞かれて、私は首を傾げた。おかしなことを聞く。けれどエーレはちっとも笑っていない。


「マリヴェル」


 ゆっくりと、エーレが私を呼ぶ。その唇の動きは神官長によく似ていた。


「怪我をしないでおくれ」


 神官長とよく似た声音で、話し方で。


「カミサマガツカウマデコワレテハイケナイカラデスヨ」

「君が、怪我をしてはいけない理由が、分かるかね」

「かみさまがつかうまでこわれてはいけないからですよ」

「マリヴェル」


 神官長と同じことを。


「怪我をしないでおくれ」

「――しんかんちょうのせきになるから」

「マリヴェル」


 いつか、神官長が私に言った言葉を。


「わたしがせいじょであるいじょう、わたしのふしょうはしん殿の責となり、ひいては神官長の責となる。だから」

「マリヴェル」


 神官長が、いつも。


「私は、君が聖女でなくとも、君を案じ、君の幸いを願う」


 私に与えてくれた言葉を。


「君の幸いを、祈っている」


 微笑みと一緒に与えてくれた、温もりを。




 はたりとすべり落ちたものが何だったのか。

 人の形をした廃棄物が、気付いてはいけなかったのに。







 あっと思ったときには、すでに遅かった。

 視界が滲む間もなく、雨が降る。咄嗟に片手で顔を押さえたけれど、次から次へと雨が降るからどうしようもない。呆然と俯くしか、術がない。そして、俯いてしまえばもう止める術などなくなる。


「ざまあみろ」


 私の雨を受けながら、ふんっと鼻を鳴らすエーレは、かなり酷い人である。

 なんてことをするのだ。なんてものを、思い出させるのだ。

 なんてものを、忘れていたと、思い出させるのだ。


「お前が何度その思考に戻ったとしても、俺達にだって積み重ねてきたものがある。お前が受け取れないならばと、塗りたくるように、何度も何度も執拗に重ねてきたんだ。ふざけるな。ふざけるな、ふざけるなよ。これからの時間に比べればたかだか十年やそこらであろうと、俺達はたとえ神にだって軽んじられるような時間を過ごしてきた覚えはないぞ!」


 私の根幹を、覚えているのに忘れてしまうのだと、ぞっとした。忘れていなければ、神様の務めを果たすための人型になれないのだと恐怖した。

 けれど何より恐ろしいのは、覚えていなければと思う私自身で。

 覚えていたいと願う、私で。


 酷い人だ。本当に、なんて酷い人なのだ。覚えていれば壊れるのが少し、躊躇われる。それなのに、どうしたって忘れたくはない、あの日々がくれた柔らかな感覚を、夢を、私が抱いている同等の価値で与え直してくる。こんな鬼のような優しさを持っている人は、そうそういない。

 だって、苦しい。

 首を絞められるより、叩きつけられた身体を踏みつけられるより、石を投げつけられるより、酒瓶で頭をたたき割れるより。痛い。

 人の子が、親に手を引かれ歩いていく後ろ姿も、眠る子を抱きながら家路につく姿も、別につらくはなかった。だってそれらは全部、私とは関係のないものだった。私の物ではない物が手に入らずとも、それは喪失ではない。

 それなのに、苦しい。今はただ、悲しい。寂しい。

 恋しい。

 あの人達が私を呼ぶ声が、あの人が、私を見て目を細めて笑う。その感情を与えられる瞬間が、壊れそうなほど恋しくて。


 本来ならば、誰も気付かぬ内に終わるはずだったのだ。アデウス全土が忘却に陥ったことすら誰も知らぬまま、神様が事態を解決するとき、誰にも知られぬまま終わるはずだった廃棄物が私だ。


「どうして、でしょうね。エーレ、私、神官長が、皆が、楽しく生きられるなら、その日々の礎になれるなら、こんなに嬉しいことはないと思うのに」


 空っぽだった物が空っぽになるだけなのに、何がこんなに苦しいのだ。


「先代聖女がお前に絶望を与えようとお前が決して折れてはならないように、俺にだって折れてはならない理由がある。お前のためだけじゃない。俺のためだけでもない。神殿が、神官長達が……お前が、俺達に費やした歳月を、お前に思い出させられるのが俺だけなら、何があろうと俺はお前を苦しめ続けてやる」


 本当に、凄いことを言う。苦しめ続けてやるだなんて、神官が聖女へ向ける言葉や感情ではないだろう。


「……私の願い叶えてやるって言ったのに、全然叶える気がないように見えますよ」


 鼻を啜りながら言ってやれば、鼻を鳴らして笑われた。そこに込められた感情は嘲りが大半に思えたが、気のせいだと思いたい。


「へえ。お前の願いは神官長のいる神殿に帰ることだと俺は思っていたが、違ったのか」

「――そう、ですね」


 ああ、これは嘲りを受けて当然だ。私は、自分の願いすら掬い上げられなければ維持できない、そんな物に成り果てたらしい。

 いつの間にか逸れていた願いの形に、笑いたくなる。

 そうだ。本当は私だって。砕けたいわけでも、消えたいわけでも、なくて。仕様がないとは思っても、そうなりたいわけじゃなくて。それが願いでは、決してなくて。

 帰りたいだけなのに。


「帰る場所がどこにもないの」


 お父さんって、呼びたいだけなのに。


「私のお父さんが、どこにもいないの」


 神様。ねえ、神様。

 私の結末はきっと廃棄だけれど。そうなるために創られて、そうあることで大切な人達が生きていけるのならそれでいいのだけれど。

 それでも、神様、お願いします。願いだけは逸らさないでください。望みだけは、私のままいさせてください。

 この人達が何も失わず明日を迎えられるなら、私は壊れることに不満も恐怖もない。

 けれど、願いの形をそこには固定したくないんです。壊れたいんじゃなくて、壊れてもいいと、思っていたいんです。そう思わせてくれた人達と見た夢を、私が知った形と重さのまま、抱かせてください。

 世界に発生して唯一手にした大切な存在を忘れて浮かび上がるより、絶望の重さで沈みたい。失った事実すらなくして笑うより、失う痛みで目を覚まし続けたい。

 無色透明な幸福に、一体何の意味があるのだろう。

 極彩色の地獄に迷い込んだあの日から、私はずっと幸福だったのだから。


「お前の願いがどれだけ役目とすり替わろうが、俺は執拗に思い出させるぞ」


 この人が、私を記憶している。


「本当にお前の役目がお前の崩壊で完結するとしても、お前の願いがあの日の続きなら、俺は俺の生を懸けてやる」


 その事実は、私にとっては有り難い幸運であり、この人にとってはあり得てはならない不幸だったのだろうと、思った。



「それと、神官長に、現在貴方が開ける術を失った三段目の引き出しには、マリヴェルとの養子縁組に必要な書類一式が入っていると伝えるぞ」


 突然とんでもないことを言い出す。けれどもう、驚愕する力も焦燥する余裕も残っていなくて。どこかぼんやり聞いてしまう。私は少し、とても、酷く、疲れていて。こういう状態は疲れていると呼ぶのだと神官長が教えてくれた。

 でも、ぼんやりしているのに心が鈍くなっているかと問われるとそうではなくて。ずっと、ぐちゃぐちゃぐるぐるない交ぜで。

 濡れた頬くらいは拭うべきかもしれないが、どうせ布がない。肌で肌を擦ったって水分を移動させるだけで役には立てないから放っておこうと思っていると、無造作に伸びてきたエーレの腕が私の顔を雑に拭いた。

 私を忘れている神官長達は、人としての尊重を私に与えてくれる。だが、私の身を案じ、心を向けてはくれない。当代聖女である可能性を排除しきれぬ以上、神殿として最低限の配慮をしてくれる。だが、私の意思を尋ねてはくれない。私の心を、訪ねてはくれない。

 それでよかったのだ。神官長は、私を育ててくれた人としての傷は一切負わなくていい。寂しくても、虚しくても、心が枯れ落ちた木のように崩れていっても、神官長達に傷を与えなくて済むのなら、今はもう、それでよかったのに。

 それなのに、エーレは神官長に傷をつけるという。傷つかずともよかった優しい人の心を焼いて、本来ならばここに傷があったのだとわざわざ知らしめてまで。

 エーレが私を傷にしようとしている。エーレが私を神官長の傷にしようと。

 エーレが。

 怒りなのか悲しみなのか悔しさなのか恋しさなのか。もう自分でも分からない感情でぐちゃぐちゃになった私とは違い、エーレはいつも通りだ。

 いつも通り、私を睨みつける。


「神殿がどれだけお前を愛しても、お前は自分を石ころだと思い続ける。それが卑屈であれば、他者からの同情を買う手段であれば、どれだけよかったかと誰もが思うほど。……頑なとさえ呼べないほど、世界の理と言わんばかりにそう自分を認識し続けるお前を、俺一人で生に繋ぎ止められると思えるほど、俺は己の実力を自惚れていない」


 廃棄されるために作られた。壊れるために作られた。捨てられるために作られたからここにいる。私はそういう物なのに。

 エーレはいつも、怒るのだ。


「自身の放棄を摂理と定めたお前を繋ぎ止めるのなら、俺一人の命で足りるものか。神殿全てを道連れにしても足りないくらいだが、それでは先代聖女派と同じになる。だから、お前の側近と呼ばれた俺達だけで満足しろ。元より、俺達はそういうものだ。誰が忘れようと俺が覚えている以上、俺は躊躇いなくあいつらを道連れにする。それが、お前の神官であると己に定めた同胞に対する俺の礼儀だ」


 こんな滅茶苦茶な宣言があって堪るものか。


「……私は、誰も、殺されたくないんですよ」


 私が聖女である以上、聖女への攻撃は神殿の総力を以てして相手する。それは当然だ。神殿とはそういうものだ。

 けれど、皆には記憶がないのだ。積み上げてきた思い出どころか、私が聖女である認識すらないのに、当代聖女のために命を懸けろだなんて、あんまりじゃないか。


「記憶を奪われ、得ていた権利を根こそぎ奪われた彼らの無念をお前が理解する必要はない。だが、無念なんだよ、マリヴェル。自身が定めた決意を強制的に奪われ、無とされる。自分の意思ではなく他者の手で奪われた決意は、生を奪われるより屈辱的で、虚しく……残酷なことなんだ。その結果がお前の喪失であるというのなら、こんなに惨い話はない」


 分からない。分からないのだ。

 物に命を懸けさせること以上に惨いことなどあるだろうか。世界で一番価値のない物に生を費やさせること以上に、無意味なことなどあるはずがない。

 それなのに、エーレは今日も温かい。

 いつもは遠慮無く私の頬を引っ張る両手が、私の頬を包む。


「多少は情報を手に入れた結果、どう考えても俺達だけの手には余る。お前が強制的に揺らされるなら尚更だ。その上で、俺は神官長達が持つ当然の権利を遵守する。巻き込んだとお前は言うだろうが、これは彼らの権利だ。せめて選択肢は必要だろう。その先をどうするかは、神官長達が決めるべきだ。……この件に関しては、無傷というのは傷口を抉り出されているが故の無しかあり得ない。傷の在処を自覚できるのは、救いですらある」


 私だって、あの人達の生を蔑ろにしたくはない。それは分かっている。けれど、巻き込んでも巻き込まなくても蔑ろにしたことになるのなら、もうどうしたらいいのか分からない。もうずっと、心を何処に置けばいいのか、感情の在処さえ分からないのに。


「あの人達に全てを話したところで、俺達二人にしか記憶が残っていない事実は変わらない。だが、俺達が二人だけなのと、俺達が二人だけだと周囲が知っているとでは大いに異なる」


 そこまで言い切ったエーレの顔が近づいてくる。


「以上様々な点を踏まえお前に説明した上で、お前の返答如何を気にせず進めることにした」

「――は?」


 エーレはずっと、とんでもないことを言い続けている気がする。


「俺とて神官長には恩義がある。立場としても状態としても厄介事でしかなかった俺を、神殿で匿い、リシュタークを離れる選択肢を与えてくれた。俺はその恩に報いる義務があり、意思があり、願いがある」


 私だって恩を返したい。けれどその恩が、殺されるかもしれない危険を与えることだと言うのか。私はそんな恩返し、知らない。神官長が、たまにヴァレトリが読み聞かせてくれた絵本にだって、そんな恩返しのっていなかった。


「絶対安全だと言い切る気はない。あの人達ほどの実力があろうと、何があるか分からない。だから、もしもがあった場合俺を恨め」

「それも嫌です、よ」

「俺も恨まれたいわけじゃないからその辺りはお前の好きにしろ。そもそもこの件は、お前が当代聖女であることを伝えて以降は、どういう心理で聖女に仕えていたかという神官の心持ちの問題だ。聖女ではなく神官側の管轄となる。お前に報告は上げるが、指示に従う謂れはない」

「そ、うかも、しれません、が」


 それを考えれば、むしろここまで待ってくれたと考えるべきなのだろう。私に決定権がない彼らの権利についての有り様を、私が落ち着くまで待ってくれていたのだ。


「幼子を火傷させるのとでは訳が違う。死地へ向かえと命を出したのならばともかく、それ以外に訪れる死で、恥恨むは自身の力不足だ。嘆くなとは言わないが、それが原因で聖女の口を噤ませては神官の名折れだ。お前は、神官長達を神官の恥曝しにしたいのか」


 私の心が整うまで待っていてくれたら、私の身体が砕けた。完全にエーレの気遣いに砂をかけた上に恩を仇で返している。

 あらゆる意味で申し訳なさを感じながらも、なかなか返事ができないでいたが、どうしても気が散ることがあった。エーレの睫が数えられそうな問題だ。


「……あの、ちょっと離してもらっていいですか? こういう雰囲気のときこんなに近いと、今にも頭突きがきそうではらはらするんです」


 エーレはちょっと意外そうな顔をした。


「よく分かったな。お前が承諾しない場合、頭突きする予定だった」

「そんな気がしたんですよ! エーレが本気でしてきた頭突き、ほんっと痛いんですよ!?」


 エーレはかなり頑固で、その性質が関係しているのかは知らないがかなりの石頭である。頑丈さに定評のある私と頭突きしても相打ちになるほどだ。神官長の拳骨級に痛い。やらかした自覚があるときは甘んじて受けるが、この件に関しては頭突きも用件も納得していない。


「ところで、頭突きをして大丈夫か」

「え? ああ……さっきは頭の端まで割れていく感覚がありましたが、同じよう道順を何かが戻っていったように感じたので恐らく大丈夫です。ただ、頬の一部に感覚がない部分があるんですが」

「……ああ、割れているな」

「へぇー」


 やっぱり割れたままらしい。ここの補修ってどうしたらいいのだろう。治療はカグマの専門だが、補修は別だろう。どこかの工房から職人を召喚すべきだろうか。機密を守れる人選が必要となる案件なので、できれば神殿内でどうにかしたいものだ。


「あ、花はどうです」

「かなり、咲いている」

「へぇー。確かに範囲広がってますね。満開ですね。花見でもします?」

「阿呆か」

「あれですよね。月見て一杯、花見て一杯、酒見て一杯ってやつ」

「阿呆なんだよな」


 言ったのはサヴァスです。


「まあ他は感覚がありますし、一部高質化した皮膚みたいな対処で大丈夫かと…………いや、頭突きは嫌ですからね!?」


 慌てて離れようとしたが、いつの間にか背中と腰に回っていた手ががっしり抱え込んでいる。そもそも狭い場所なので離れたところでたかがしれているが、離れられないとなると話が別だ。

 誰だって喉元を掻き切るため首元に刃物が突きつけられていると落ち着かないように、星を散らせるため額に額が突きつけられていると落ち着かないだろう。絶対痛い。


「ちょ、近い! 額が近い! 離してください!」

「断る」

「どうしてですか!」


 エーレは私を抱え込んだまま、溜息を吐いた。


「お前、自分の格好分かっているのか」

「神様が寝間着どっかやっちゃったんで裸ですけど。あ、前は上着をお借りしましたが、今回は結構ですと事前に言っておきますね。エーレも一枚しか着てないんですから、脱いだら風邪引きますよ」

「俺だって、相手がお前であろうと多少は目のやり場に困る。相手がお前であろうと」

「それはどうもすみません。髪でも巻いときましょうか。せっかく伸びてるし。あ、そうだ。エーレ、この髪今度は真っ当に売ってきてもらっていいですか? 一応小金は持っておきたいんで」

「……大馬鹿者!」

「いったぁー!?」


 結局頭突きされた。頭突きした後にちょっと心配そうに覗き込んできたが、割れてはいないので安心してほしい。そして不安がるくらいなら最初から頭突きしないでほしい。ただし、頭突きも拳骨もなく私が止まるとも思わないでほしい。

 神官とは大変な仕事だなぁといつも思っている。



 一通り額を押さえて悶えきった私と再び額を合わせて動かなくなったエーレは、私の額の上で休んでいた。エーレに体重を乗せて休んできた私がいうのもなんだが、人の額の上で休まないでほしい。乗るなら後頭部にしてほしい。額に乗られると、首の角度の問題で結構苦しい。


「そういえば、あれだけ嫌がってたのに私と友達って結論に落ち着かせちゃって大丈夫ですか? 今ならまだ、ぎりぎり友達じゃない可能性も残されてますよ。なんか、エーレの部屋で寝転んで本読んでる記憶出てきましたけど」

「…………背に腹は代えられない。俺はお前の部屋で本を読んでいる記憶が出てきて深く絶望しているところだ」


 成程。ぎりぎり友達関係を免れられた可能性が、最早絶望的になっていた。


「そもそも、どうしてそんなに私と友達になるの嫌だったんですか?」


 私は別にどっちでもいいのだが。今更友達になろうがなるまいが、あまり変わらない気がするのだ。

 そう言えば、エーレは心底嫌そうな顔をした。


「考えてもみろ。仕事ではお前に仕え、その上私生活でもお前と親しく関わっているとなると、俺の日常とそれに伴う感情がお前一色になるだろう」

「うわ……」


 悲しい。


「存分に哀れめ。俺もここまで自身を哀れに思ったのは初めてだ」

「可哀想……」

「はっ倒すぞ」

「哀れめって言ったのに!?」


 このままだと、どの案件でも一騒動起こり頭突きが降りそうな予感がしたので、私は慌ててこの空間を解除した。

 ……あれ? この空間の出入り、自由だったっけ?

 よく、覚えていない。




 ふわりと浮かんだ疑問は、覚醒した先の医務室を見て霧散した。

 なんか、廃墟みたいになっていた。

 私達の周りに張られた神官長の結界に阻まれた破片が、少し離れた場所で砕ける。響く戦闘音の中、私とエーレは視線を合わせ、頷いた。状況は全く理解できないが、これだけは分かった。

 とりあえず、大惨事である。











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― 新着の感想 ―
[良い点]  泣き笑いしながら死力を尽くすような人たちに震えてしまいます。泣きそうな気分なんですけどまだ泣かない! 最後は絶対泣かされる!!!
[一言] この物語は途中て終わっ待てしまうの? こんな惹きつけられて、泣いてここまでたどり着いたのに去年のまま更新ないとか酷すぎる 狼領主も面白かったのにこれまた途中だし… 悲しい作家さんに出会ってし…
[一言] 初めて感想を送らせていただきます。 久しぶりに更新を開いて10いくつ、一気に読みました。ずっと泣いていました。苦しい。 マリヴェルの感情も、エーレの感情も、触れるだけで強くて苦しくて読んでい…
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