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忘却聖女  作者: 守野伊音
三章
42/120

42聖





 ねっとりと重たい風が舞い上がり、私達の服と髪を持ち上げる。質量を感じるほど重たい風だ。空はどす黒く、雲が抱えた水を地上へ落とすまで、もう幾ばくの時間も残されていないとすぐに分かる。


 まだ昼が過ぎたばかりの時間だというのに、まるで夜に差し掛かったような世界の中、私は自分にできる精一杯の笑顔と柔らかな声で、固い表情で私を見つめる人へ手を差し出した。


「さあ、エーレ。行きましょう」


 少し離れた場所にいるエーレは、こんなどす黒い世界の中でも、一人だけ光を浴びているかのような色をしている。髪も瞳も、まるで日向の光と温度を抱えているかのようだ。それなのに、表情だけがこの空に似合いの影を纏っている。


「……無理だ」

「大丈夫。私がいますよ」


 私はにこりと微笑む。


「他に道はありません。さあ、こちらへ」


 一歩も動かず、手だけを差し出す。しかしエーレは動かない。その場から一歩も動かないのだ。進みもせず、戻りもせず。重たい風に煽られながら立ち尽くす姿は、まるで迷子の子どものよう。


「どう考えても屋根の上しか道がないのはおかしいだろう!」

「むしろここ以外に道があったらアデウス国まずくないですか!?」

「当たり前だ! 王族居住区域だぞ!」

「本当ですよ!」


 でもなかった。これはただのエーレだ。間違いない。



 どうやら本気で怒っているらしい。火花が漏れ出ている。神力が高い人間は感情の増幅で神力が漏れ出す場合もあるが、基本的に神官は神力を制御出る人間ばかりだ。特に高い位にいる神官なら尚更だ。しかしそれがあって尚溢れ出す、赤と青の火花。

 とりあえず怒っていることにしておこう。長い付き合いの誼である。

 距離が合っても飛んでくる火花を受けながら、視線を足元に移す。てくてくと歩いているのは警備の騎士だ。恐らく私とエーレよりずっと背が高い人間は、人差し指の爪ほどの大きさほどにしか見えない。

 当たり前だ。だって私とエーレは王城の屋根の上を移動しているのだ。



 王子の寝室が待ち合わせ場所である以上、私達はそこへ行かなければならない。だが、当代聖女としての認知があるならまだしも、何もない状態ではエーレだけでも難しい。

 エーレならば、王子の許可があり立場としても問題ないわけだが、現状王子と仲良しな状態を知られたくはないのだ。戦略としても、エーレに立ってしまったであろう悲しい誤解としても。

 だからこそ、王子の許可はあれど非公式な訪れならば、道は非文明的なものしかないのである。




 視線を戻せば、エーレは覚悟を決めるどころか一歩下がっていた。私とエーレは違う屋根の上にいるので、そのまま立っていても手は届かない。つまり、跨ぐには距離がありすぎて、諦めるには近すぎるこの距離を飛べと言っているのにエーレが止まったままなのだ。


「さすがにここで地上を通れば速効で警備に見つかります。屋根裏も無理です。私も王子がいない状況で王族居住区域に侵入するのはあまりやりませんし、他に安全な道は知りません」


 見つからないという意味で立場的には安全な道なのだ。命の危機という意味で物理的には全く安全じゃないが。

 ぐっと呻いたエーレに差し出したままの手が疲れてきたので、一旦戻す。それはそれで絶望した顔をするので、もう一度差し出した。


「大丈夫です。絶対あなたの手を掴みますから。私を信じてください」

「お前は自分が信を得られるような言動をしてきたと思っているのか」

「いやぁ、皆無ですね」


 エーレの額に青筋が走った。ついでに火花が増えた。そこにあるのは怒りと恐怖。この高さだ。流石に茶化すつもりはない。そもそも人の恐怖を笑う趣味もないのだ。


「大丈夫です。さすがにこんな場所でふざけたりしませんから」

「そういう意味じゃない。お前より俺のほうが体重は重いだろう」

「まあ、エーレのほうが身長ありますからね」

「身長が同じだったら体重も同じかのような言い方をするな」

「え?」

「え?」


 本心から出た疑問の声が続いた後、沈黙が落ちた。

 正直、本人の理想と希望はともかくエーレは肉がつきにくく骨格も華奢なので、身長が同じだった場合、体重はほとんど変わらないかエーレのほうが軽い可能性がある。だが、それを口に出すと悲しみの雨が降るはずだ。エーレの心と、彼の鉄拳による私が流す雨は、悲しいが別に切なくはない、この世で最も無意味な雨となるだろう。

 この件には関して私は無罪だと思われるが、それだけ彼の悲しみが深いということだ。八つ当りは甘んじて受けよう。


 妙な気まずさと、雨雲とは違うねっとりとした殺意を感じた。こほんと咳払いをして、話を戻す。


「何にせよ、エーレが届かなければ私が必ずその手を掴みます。約束します。でも飛んでくれないと掴みようがありません」


 私は既に一人で飛び越えた先で、身体を乗り出しながら手を差し出し直した。エーレは微妙な顔で半歩進み、改めて下を見た。そして、無とも決意とも取れる顔で私と向き直る。


「無理だ」

「どうして落ちる前提なんですか?」

「どうして落ちない前提なんだ」

「落ちたことがないからですよ。ここでは」

「最後の詳細を述べろ」


 藪蛇だ。


「生きているので良しとしません?」

「詳細」

「生きて」

「詳細」


 こうなると長い。ついでに説明しても長くなるので、強引に話を進めることにした。私達の間を隔てている空間から、五歩後ずさる。怪訝な顔をしたエーレは、すぐにぎょっとした表情へと変えた。


「おい!」

「どいてください!」


 急いで場所を譲ってくれたそこに、助走をつけた私が飛び戻った。勢いを殺しきれず、足と手を使い、エーレより少し離れた場所で止まる。沈黙が落ちた屋根の上、屈んだ体勢のまま私は向きを変えていく。さっき飛んできた方向へ構え直した私の視界の端で、エーレが頬を引き攣らせた。


「手!」

「嫌だ!」

「だったら一緒に落ちますよ! 覚悟を決めてください、特級神官!」


 勢いよく走り出した私から逃げようとしたエーレの手を強く掴み、そのまま渾身の力で屋根の端を踏んだ。


「お前馬鹿だろう!」

「何を今更ぁ!」


 引き攣ったエーレの声と共に踏み切った屋根は、ここ最近の鬱憤を吹き飛ばすほどには楽しかった。

 が、飛越えた先の屋根で足を滑らせた私達は、ごろごろ転がり落ちた。


「お、まえ、ばか、だろ」

「なに、を、いまさ、ら」


 縁のぎりぎりでなんとか止まり、服も手足も髪も全部が絡まったまま息も絶え絶えに心臓を落ち着かせたときは、ここ最近の鬱憤が吹き飛ぶほど怖かったのである。







「急がなくていいので、一歩ずつゆっくり……そうです、その調子です。上手ですねー、いい子ですねー」

「お前……後で覚えてろよ」

「分かりました! 覚えていても応対するかは別ですが!」


 じっとりと恨みがましい声を向けられても、足場が広がるわけではないので頑張って一歩ずつ進んでほしい。



 私が進行方向に背を向けたままエーレの手を握り進んでいるのは、巨大な国旗を吊り下げている鉄棒の上である。

 国の象徴である王城。その中ではためく、遠目からでも分かる巨大で色鮮やかな国旗。

 平民であれば一部屋どころか敷地丸々覆ってしまえるほど大きな国旗は、長年雨風に曝されても朽ちず、鮮やかな色を保っていた。術がかけられているとはいえ、元々の作りがしっかりしているから為せるのだ。

 並の敷布よりも分厚く、ごついという表現がぴったりくる国旗を支える鉄の棒も、それに相応しい強度を保っている。大の男が何十人も集まって運ぶ国旗とそれを支えられる鉄の棒だ。私とエーレが乗ったところでびくともしない。

 つまりは立派な道である。ちょっと手摺りと足場と安全性がなく、渡るのに体幹と筋力と慣れと諦めと命の覚悟がいるだけだ。


 国旗は遠くからでも見える位置に設置されているが、棒の部分は違う。外からは見えない建物の影に重なるよう作られている。ここは管理や点検時以外に人が訪れない為、人目はないに等しい。


 後ろ足で道を確かめ、視線と身体はエーレに向けたまま、ゆっくり下がる。進行方向へ向かっているのだが、背を向けているので私はずっと下がり続けていた。エーレは顔を強張らせたまま、そろそろと足を運んでいる。掴んでいる私の手は骨が軋むほど力が入っていた。

 顔を酷く青ざめさせ、足元ばかり見ているので心配だ。怖いなら下を見ないほうがいいのだが、それはそれで怖いらしいので仕様がない。私が支えていればいい話だ。幸い私は慣れている。流石に誰かを支えてこの道を使ったことは無いけれど、まあ何とかなるだろう。


「……お前は、いつもこんな道を使っていたのか」

「ここが特別危ないんであって、普段はもう少し歩きやすい場所を使っていますよ。この道を知っているのは私と王子だけです」

「まあ、道じゃないしな……」


 尤もである。

 話し始めたことで、意識が多少逸れたのだろう。強張っていたエーレの身体から少し力が抜けたのが分かった。握り潰され折り畳まれていた私の掌が、エーレの掌の中で多少の居場所を得たからだ。それでも潰されているので、私の掌に人権はない。


「そもそも、この道は俺が知っていいものなのか……」

「待ち合わせ場所を寝室に決めた時点で王子の許可が出ているものとします。そうでないのなら王子の落ち度ですが、あの人がこの手の失態をやらかすとは思えないので故意です。だから、エーレが気にするところではありませんよ」


 私が話した内容を心の底から面白がっていたが、信じ切ったわけでもないはずだ。そんな中、己の寝室を待ち合わせ場所にし、そこまで道筋についての言及は何もなかった。おそらく、これを決定打にするつもりなのだろう。完全に信じ切り命を預けはしないが、逐一疑いはしない。その判断を下す、最後のきっかけだ。


「……神官として一応聞いておくが、王子の寝室に行ったことがあるんだな?」

「それはまあしょっちゅ……度々……それなり……必要に応じて」

「必要とは?」

「昼寝、いえ作戦会議で」

「脱走用の」

「そう脱走用の――社会見学の打ち合わせです! ……エーレ、実は余裕ありません?」

「関係ないことで意識を散らせたほうがマシかと思ったが、散らせた先は先で最悪だった。そして別に誘導したつもりはない。お前が勝手に暴露しただけだ」


 尤もである。

 エーレの気が解れたのなら何よりだが、何故私は一人で墓穴を掘っているのだ。


「これ以上王城と亀裂が入るより、仲いいほうがマシじゃないですか?」

「神殿と王城の仲が向上するのではなく、お前と王子が異様に親しいだけなら寧ろ悪化だ」

「成程。私が男だったらややこしくならなかったんでしょうかねぇ」

「当代聖女が男になるややこしさを生み出すな」

「どうあってもややこしいんですねぇ。あ、ここです」


 棒の途中で立ち止まる。既に一歩踏み出していたエーレが止まりきれず、私にぶつかった。予想していたので衝撃を受け流しつつ体勢を保ったが、ぶつかったほうが酷く焦った顔になり体勢を崩した。

 慣れない高所で足場は丸みを帯び、狭い。そんな場所で体勢を崩せば立て直せないだろう。ならば、崩れきる前に行動に移したほうがいい。


「大丈夫ですよ」


 大きく広げた両手でエーレの身体を抱え込み、ついでに絡ませた足で下手に動けないよう拘束する。ちょうどいい方向に倒れてくれた。


「身体、丸めてください」

「まっ」


 エーレを抱えたまま、渾身の力で足場を蹴る。私達の足は完全に鉄棒から離れた。斜めに落下しながら、横目で着地点を確認する。向かう先は、壁だ。

 頭を打たないようエーレの頭を胸に抱え直し、私達は壁の向こうに転がり込んだ。






 壁の一角が切り取られたかのようにぽっかり穴を空けている。ここは通路だ。外からは壁にしか見えないが、目の錯覚を利用しているだけで近づいてよく見れば通路が見えてる。

 身体を丸め、ごろんと一回転した動きで勢いは大分収まったものの、二人分の体重は流石に殺しきれなかった。もう一回転ダンゴムシした後は、巻物の具のように転がる。こういうときは、落ちているのでもない限り無理に止まろうとせず転がりきったほうがいい。変に力を入れると筋を痛める。

 動きが止まるまでに、ようやくとも短いとも思える時間が過ぎた。今日はよくエーレと絡まる日だ。しかし想定していたより順調に移動できている。正直、もっと落ちると思っていた。


 さっきは私が上にいたが、今度はエーレが上にいる。エーレが動いてくれないと私も身動きが取れなかった。


「大丈夫ですか?」

「…………………………」

「大丈夫じゃないですね」


 エーレが落ち着くまで待とうと、潰されたまま動きを止める。

 頭の下に柔らかい感触があることに気がつき、小さく笑う。あの状況で、よくこっちの頭まで意識が回ったものだ。私の胸に突っ伏したままぴくりともしないのに、私の頭にはしっかり手を回してくれているのだから、エーレは神官の鑑だ。まあ、神官に聖女の頭を守る任務はないし、そもそも落下する機会はそうないはずである。



 私達が転がっている場所は、扉も蓋もない場所だから吹きさらしに当たる。だが、それほど汚れていないし濡れてもいない。ある意味国旗が蓋になっているのだ。おかげで苔も生えていないし、かび臭くもない。そして静かだ。

 静かだからこそ、音はよく響く。頭上から靴音が聞こえて、私の上にいたエーレが跳ね起きた。重心が代わり、私は潰れた。ついでに外された手から落ちた頭を打ち、跳ね起きたエーレの足にぶつかる。踏んだり蹴ったりだ。いや、踏まれたり蹴られたりだ。


「ぐえっ」

「誰だっ」

「余だけ仲間はずれなの、急速に寂しくなってきたぞ」


 私、エーレ、王子。三人とも言いたいことだけを言った結果、そこに会話はなく独り言大会と成り果てた。かろうじてエーレだけは問いかけだったため、大会出場権は取り消され難を逃れたのである。












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