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忘却聖女  作者: 守野伊音
三章
37/120

37聖






 否、天地がひっくり返ったのか。

 否、世界が裏返ったのか。

 否、世が塗り潰されたのか。


 否。否。否。


 何も当てはまらない。


 否。否。否。


 全てが当てはまる。



 世界が黒に塗り潰されたのか、世界から光が失われたのか。音が失われ、音が満ち。何も見えない。聞こえない。波紋が広がるように、この世の全てが入れ替わる。


「マリヴェル!」


 ただ一つ、絶叫のように叫ばれた私の名と、掴まれた体温だけが正常だった。

 それ以外はすべて異質と成り果てた世界で、呆然と立ち尽くす。






「マリヴェル、意識は」

「……あります」


 光全てを失ったのか、闇が全てを覆ったのか。真っ黒の視界では上下も分からない。

 私を片手で抱えた人は、どうも体勢が落ち着かないようだ。たたらを踏んでよろめくので、私が胸に回された手を抱え、両足に力を入れて体勢を保つ。むしろ私を支えにして体勢を整えたエーレは、掴んでいるのが胸だとそこでようやく気付いたらしい。手が微妙に彷徨うが、一寸先も見えない世界で互いを離すのは愚の骨頂だと互いに分かっている。無言で落ち着く体勢を探す。

 悩んでいるのが見えずとも分かったので、とりあえず腹に誘導しておいた。そのほうがお互い体勢を整えやすい。胸を掴まれると、身体の構造上腕を動かしづらい。エーレの腕を避けてこっちの腕を動かせば、エーレの顔面に肘打ちを入れてしまう。

 待って、そこは骨だ。骨は痛い。掴むなら腹をお願いします。痛い、それは服と皮膚だ。肉も一緒に掴んでくれないと痛い。何かあっても見失わないよう、力を籠めて掴んでおきたいのは分かる。分かるが、だからこそ皮膚だけ摘まんでも何の意味もないと思うのだ。

 むしろ私が抱き寄せたほうがいい気がしてきた。しかし今はそんなことで揉めている場合ではなさそうだ。


 軽く足を動かし、地面の感触を確かめる。ざらりとした固い感触は、何度確かめても先程の会議室ではない。私とあの男達を聖女の私室へ飛ばしたものと同じ術で、全く異なる場所へ飛ばされたのだろうか。ならば私とエーレの位置を把握していたということになる。それは、とてもまずい。私とエーレの繋がりが知られてしまえば、唯一私が持つ優位性が失われる。




 自分の身体すら見えない暗闇の中、次の一手を急ぎ考えている思考が、音を拾った。風の音にも、呻き声にも聞こえる奇妙な音だ。音が奇妙に聞こえるのは、距離感が掴めないからもあるのだろう。すぐ耳元で聞こえるようにも、遙か遠くから響いてくるようにも聞こえる。


「……聞こえるか」

「はい」


 本物のすぐ耳元から囁かれた言葉は、吐息で肌をなぞる。だから奇妙な音はすぐ傍にあるわけではない。頭では分かるのに、体感が否定する。

 明かりをつけるべきか否か、決断に踏み切れない。明かりをつければ私達は視界を得る。だが、敵がいた場合真っ先に位置を知らせることとなる。エーレも判断しきれないのだろう。火を得意とするエーレが明かりを灯さないでいる。

 しかし、私達の躊躇は次の瞬間跳ね飛ばされた。妙に湾曲して聞こえた呻き声が、絶叫へと変質したのだ。喉が張り裂けたのではと疑うほどの轟きが響き渡る。

 それはきっと反射だったのだろう。背を預けている胸が息を呑むと同時に、数え切れない炎が円形に現出した。闇に慣れた目では、光に対応できない。痛みを覚え細めた視界の中、細かな炎が作り出した円柱が目にもとまらぬ速度で広がっていく。

 炎が通り過ぎた場所から光が広がり、あっという間に暗闇が押しのけられる。小さいながらもたくさんの炎は空間に持続し、本来ならば昼間のような明るさを灯せる術だ。それなのに闇が消えきらない。エーレも、僅かながら眉を寄せていた。

 炎は広がり続ける。どこまでも止めどなく。果てのない場所を、どこまでも。




「……ここは」


 とても広い空間だった。石を重ねて作られた地面が延々と続き、先が見えない。炎はどこまでも広がり続けているのに、辿り着く先がないのか最早爪の先程小さくなった闇は、遙か遠くなってもなお確かに存在を続けている。

 神殿も王城も、霊山さえも飲み込める巨大な空間が広がっていた。


 ここは、何だ。地下か。だが、天井を未だ見つけられない。これほどに深い場所に、恐ろしいほど巨大な空間を作り出せるものなのか。地面の石畳はどう見ても自然が作り上げた偶然の産物ではない。人の手が入ったとしか思えない。だが、こんな場所にこれほどに巨大な空間を、人の技術で作り出せるのだろうか。

 場所の把握も必要だが、今は声の主を探さなければ。生き物の把握が最優先だ。安否確認が必要な味方はもちろん、敵であれば尚のこと。

 視線を巡らせ、恐ろしい広さの中にぽつんと蹲る影を見つけた。目を凝らし、ぎょっとする。


 男達が蹲っている。顔は見えないが、服装で分かる。サヴァスが追っていたはずの、そして聖女の私室で落としてきた、侵入者の男達だった。

 エーレが焼いた死体はないのか、それとも闇に紛れているのか判断をつけられない。死体の有無に意識を割く余裕はなかった。

 耳が壊れそうな絶叫は男達から上がっていた。両手で顔面を覆ったまま、喉が裏返りそうな大声で叫んでいる。他者の絶叫はやたらとこちらの意識を急き立てる。絶叫の意味を探そうと思考が逸るのに、妙に空回りしてうまく動かない。

 何かが、おかしい。おかしいのは当たり前だ。こんな、見当もつかない場所に突如連れてこられるなんておかしいに決まっている。

 だがそれだけじゃない。何もかもがおかしいのに、懐かしさを感じる私が一番おかしいのだ。


 心臓が壊れそうなほど大声を上げて叫んでいる。まるであの男達の絶叫のような悲鳴を上げているのが私の心臓ではないと気付いた瞬間、世界が崩れ落ちそうなほどの怖気が走った。

 弾かれたように振り向いた先に、絶望を見る。


「エーレぇっ!」


 心臓を鳴らしているのは私だけではない。私より激しく引き攣る心音は、私を抱く身体から伝わっていた。


「あ」


 小さな、呼吸のなり損ないのような声がエーレから零れ落ちた。



「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」



 いま、何よりも聞きたくなかった声が絶叫する。

 自らの頭を抱え込み、限界まで開かれた瞳はどこも見ていない。恐怖だけが瞳を覆い、意識を塗り潰す。

 蹈鞴を踏む腕を放すまいと強く掴み、男達を見る。安否を確認したかったわけではない。ただ、先に絶叫を上げた存在の行く末を見て、エーレを守る術を見つけたかっただけだ。


 顔を覆い、頭を抱え、男達はのたうち回っていた。喉の奥、臓腑の底まで見えそうな絶叫が響き渡る。あれは怒りでも驚きでもない。恐怖だ。あまりに大きすぎて絶望が生まれるほどの恐怖が蔓延している。

 突如、男の絶叫がぴたりと止んだ。のたうち回っていた男の一人が跳ね起きる。両手を開き、虚空を見つめる瞳から赤い雫が溢れ出す。もう一人の男も絶叫を止めると同時に倒れ込む。赤を撒き散らしながら地面に倒れ伏した瞳は虚空を見つめ、何の意思も発さない。そのまま伏せられた瞼の下に生が残っているのか、それすらも分からないまま次々倒れ伏した男達はぴくりとも動かなくなった。


 毒ではない。毒ならば混乱が先に出る。だが男達が発していたのは、エーレが発しているのは、純然たる恐怖だけだ。

 男達の声が病み、止み、闇と化す。光を通していた炎が急速に消えていく。術者であるエーレが術を保てていないのだ。

 絶叫が消えない。男達の声が潰え、残る恐怖はこの声だけだ。


「エーレ! エーレっ!」


 頽れた身体を支えきれず、私も膝をつく。頭を抱え、世界を閉ざし、されど恐怖から逃れられない絶叫が止まらない。恐慌が狂乱を呼び、虚無と化す。道理だ。摂理だ。


「エーレ!」


 だが、その真理を迎え入れるわけにはいかない。それだけだ。





 釦を引き千切り、借り物の服を開く。ついで顔を覆う両手を力尽くで引き剥がし、両頬を私の手で覆う。そのまま渾身の力で顔を上げさせる。勢いで一瞬途切れた悲鳴が再び始まる前に、がつんと音が鳴り響く勢いで額をぶつけ、叫ぶ。


「私を見なさい!」


 大きく見開かれた瞳に私が映っている。それを認識できているか分からないが、できないのならさせるまでだ。


「私は誰ですか!」


 悲鳴を紡ごうと震える喉が、引き攣った。口がゆっくりと閉ざされ、薄く開いたままとなる。


「あなたは私を忘れないと誓った! ならばあなたはっ……あなた、だけは。この問いに、答えを提示し続けなければならない。そう、言ったでしょう? 私に、そう、言いました。だから、エーレ」


 わたしはだれ。


 重ね、問う。彼が私を認識するまで、問い続ける。

 はくりと、薄く開いた唇が動く。呼吸が、悲鳴を叫ぶ以外の音として紡がれる。


「マリ、ヴェル」

「はい」

「当代、聖女」

「はい」


 視線は揺れる。恐慌と狂乱は消え去っていない。だが、私が問う限り、彼は答えなければならない。

 そう約束したじゃない。私と約束、したじゃない。


「俺の、聖女」

「……その通りです、エーレ・リシュターク特級神官」


 額に唇を落とし、小さく笑う。そのまま素肌に頭を抱え込む。


「私の声だけを聞きなさい。私の鼓動だけを感じなさい。私の温度だけがあなたの世界です。他は全て捨て置きなさい」

「――御意」


 狂わせたりしない。この人は、正気で帰す。私ならそれができる。

 ただ一人、私だけが。






 そう決意して、疑問が浮かぶ。何故そう思ったのだろう。


 私が聖女だから? 


 そうだ。私の血には聖女の力が滲んでいる。皮膚一枚の下に流れる血液は、直接触れずとも癒やしと浄化として多少の効力は発揮するだろう。だが、その程度の力が男達を瞬く間に発狂させたこの場に通用するのか。


 分からない。ここはどこだ。分からない。知っている。ここは何だ。分からない。知っている。男達が、エーレが浮かべた恐慌はなんだ。分からない。知っている。

 私はどうして平気なの。

 私は何を忘れている?

 私は知っていた。何かを、全てを、知っていたのに。


 分からない。

 知っている。


 だって私は……。





 ああ、そうだ。

 そうだった。




 ここは生ある人間がいるべき場所ではない。いてはならない。生があろうがなかろうが、人が辿り着いていい場所ではない。


「……マリヴェル?」


 ここは世界。世界の果てであり終焉。生者は決して辿り着くなかれ。


「マリ、ヴェル」


 人間は決して踏み入るなかれ。

 この禁破ればたちまち――の怒りに触れるだろう。


「マリヴェル!」


 けれど、それらの禁忌は私に通用しない。


 だって私は、――――――から。


 ゆっくりと下ろした目蓋を開けば、真白い世界が広がっていた。









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