35聖
「っはぁ――……」
詰まった息を無理矢理吐き出し、髪をぐしゃぐしゃにかき回す。うっかり火傷に触ってしまい、反射で跳ねてしまった。気持ち悪い感触がした。これ、もう聖融布使わないほうがいいんじゃなかろうか。いい加減勿体ない。
「……申し訳ありません。ありがとうございます。気をつけます」
今度は重く、されど短く息を吐き、しっかり顔を上げる。助かった。
それなりにぎりぎりの精神状態だとは思っていたけれど、自分で思っているより限界なのかもしれない。怒りが瞬間的に沸騰し、制御しづらい。
何より、怒りを通り越して憎悪はまずい。私の血に聖女の力が混ざっているのなら尚のこと。いくら当代聖女の力が癒やしと浄化であっても、憎悪のもと振りまけばどうなるか分かったものではない。
反省しながらエーレを見て、ぎょっと後ずさる。
「そっちはそっちで凄い怒ってますけど!?」
「当たり前だ」
「どうしてですか!?」
ただでさえ底冷えするような炎を抱いた瞳が、すぅっと光を吸い込んだ。
「俺の目の前で、よりにもよって当代聖女が火によって害された。屈辱と呼ぶも生温い」
「ああ、エーレの得意技火ですからね」
自分が得意としているものが神殿内で害を為せば許し難いのも頷ける。神官としての自分に誇りを持っていれば尚のこと。気位が高い人なので、かなり根に持つだろう。
「次は防げそうですか?」
「防ぐ」
落ち着いてきたとはいえ、まだ先程の憎悪に近しい熱が内に残っている以上、下手に動かないほうがいい。
私物を探しに行くのは諦め、床に腰を下ろす。最近しょっちゅうエーレの上着を床につけているけれど、大目に見てくれるだろうと甘えることにした。何せ、これを脱げば素っ裸だ。流石に脱いで返せとは言われないだろう。
エーレは座らず、私を見下ろしている。
「マリヴェル、怪我は」
「顔以外は特に。後は小突かれた程度です。脱げと言われて自分で脱いだのでこの程度で済みました。下手に抵抗して骨を折られたら厄介ですし」
「……分かった。後でカグマに突き出す」
「聖融布くれたら自分で処置できます。……ああ、でも最近顔ばっかり怪我してるからいっそ使わないほうが勿体なくないですね。またくらいそうですし」
「馬鹿を言うな」
人に怒りを主軸に行動するなと言っておきながら、エーレの瞳から怒りが消えない。私のように噴出させたわけではないけれど、未だ落ち着く様子を見せないので相当根深い怒りだ。気持ちは分かるが、この後他の面子と合流した際、この怒りが見えたままなのは宜しくない。
どうしようかなと思いつつ、必要事項を優先する。話していれば気が解れるだろう。怒りの方向が変わるかもしれないし。……こっちに向いたらどうしよう。どうしようもないな、諦めよう。
「先代聖女、どう思います?」
「見間違い、勘違い、姿形の模倣。で、あってほしいと思うがな」
「そもそも先代聖女が敵だとして、理由がないように思いますしね。一応、墓所の確認を」
「分かった」
この件は先程の指示だけで、後はひとまず頭の片隅において保留だろう。私に当代聖女としての認知が残っていれば、指示を出して調査してもらうところだが今はそれも難しい。ならばいま崩せる疑問からいこう。
「エーレ、ちょっと聞きたいのですけど、狙った場所に火を起こす場合熟練度はどの程度必要ですか? 誰でも出来ますか?」
私は神力全般を扱えないので、その辺りがいまいち分からない。いまいちどころかさっぱり分からないともいう。
エーレは底冷えする目で私を見下ろしている。
「……その的は、お前の顔という前提で合っているか」
「まあ、端的に言えばそうなります。どうでしょう。もちろん術者のいる場所も重要ですが……そもそも、的は目に見えていなければならないものですか? それとも、思い浮かべるだけで攻撃は可能でしょうか」
それにより、敵の居所に差が出る。的が目に見えていなければならないのなら、あの部屋にいた人間が犯人だ。それなら話は早い。だが、ここまで常識外な術を使ってきた犯人がそんな簡単に尻尾を掴ませるとは思えなかった。
「俺は出来る」
「でしょうね」
「だが同じ火の遣い手である五級神官のファルには不可能だ。ファルは、火を起こすことは可能だが操作は出来ない。その場に、おもに自身の掌の上になるが、そこに現出させるだけだ。四級神官ザグシは炎を起こすことが可能だが、操作はできない。これは基本的な動作となる。三級神官ボートルは、起こした炎を移動させることは可能だが、狙った場所に現出させることは出来ない。二級神官キリッシュはある程度は狙った場所に炎を現出させることが可能であり尚且つ移動も可能だが、精度は俺より落ちる。狙った場所と言っても、的はそれなりに大きくなければ難しい。お前の顔だけを狙ってとなると威力の調整も相まり、一級神官でも数は絞られるだろうな」
五大要素の火型、中でも炎は一番難しいと聞く。弱すぎれば掻き消え、強すぎれば制御ができず自らの神力以上の威力でごっそり持っていかれるらしいのだ。水は神力が尽きれば勝手に止まるが、炎は燃えれば燃えるだけ術者の神力をお構いなしに持っていかれれば、術者の命に関わる。だから、炎を出す際は本能が勝手に力を出し渋ってしまうらしい。
その本能をねじ伏せた上で強引に出した炎を、尚且つ制御しなければならない。炎を扱える術者は、かなり少ないのだ。
「一級神官でそれですか。じゃあやっぱり……待ってください、エーレあなた、いま何級神官ですか?」
エーレも一級のはずだ。それなのに、まるで自分は一級神官ではないかのような声音だった。
私の疑問に、エーレは虚無と呆れと致し方なさがない交ぜとなった奇妙な表情を浮かべた。虚無と感情を混ぜ込むとは、器用な表情を作り出すなぁと感心する。
「一級以上、特級未満だ」
「そんな不思議な階級ありましたっけ!?」
特級は神官の最高位だ。当然そうそう到達できる位ではないが、エーレならば史上最年少でそのくらいについても不思議ではない。だが、特級と一級の境はない……はずだ。私が知らないわけではないと思う。
それに、特級の位は文字通り特別だ。ただの昇位とは訳が違う。次期神官長候補であり、国家を跨いだ移動に国が介入するほどだ。
だから特級への昇位手続きは繁雑を極める。それ以外の昇位は二級から一級への昇位でも神官長までの許可で構わない。だが、特級となると聖女の許可が必要と……………………。
嫌な予感がしてきた。
「……あの、私が忘れられた辺りで行っていた出張についての詳細をお伺いしても宜しいでしょうか」
居住まいを正しながら問う。腕組みをしたエーレは、嘲笑とも諦念とも呆れとも取れぬ表情で私を見下ろしている。その時、なんとなく気付いた。これ、本人もどんな感情を抱けばいいのか分からないのだ。
「特級昇位の最終試練だ」
「うわ可哀想」
思わず口から本音が滑り出た。
「試練を終え、後は当代聖女の承認のみとなり神殿へ帰還すれば当代聖女が消失していた」
「うわ哀れ」
「ゴミ山で黴が生えたパンを巡って殴り飛ばされていたお前ほどの哀れみはない」
「え? そうですか?」
何はともあれ可哀想だ。エーレほどの神官が、それも普段は王城に詰めている神官が一ヶ月も神殿も王城も空ける出張って何だろうと思っていた。思ってはいたが、こんな悲しい事情だとは思っていなかった。本来なら史上最年少特級昇位で華々しい帰還となっていただろうに、なんて悲しいのだろう。ちなみに現在の記録保持者は神兵隊一番隊隊長、当時二十四歳だ。
「あ、そうだ。一番隊、今どこにいますか? できれば三班だけでも呼び戻してほしいのですが可能ですか?」
可哀想になぁとの気持ちを込めて見つめる私を、複雑な表情を解除し紛う方なく蔑みの目で見ていた顔から今度こそ表情が抜けた。反射に見えたが、意識的に行われた反射に思え、引っかかる。
「……エーレ、あなたもしかして……いえ、エーレではなく神殿ですね。神官長が、聖印を発動しているんですね?」
エーレは無言のまま、聖女への礼を行った。下げられた頭を見ながら嘆息する。
聖印は、神殿が行う秘術だ。誓約をその身に直接刻む。術による入れ墨に近い。完全なる秘匿任務の際に刻まれる術だ。他言無用の事柄を外部へ漏らそうとすれば、場合によっては術がその命を奪う。その上、漏らそうとした事実が同じ聖印を入れている人間へ即座に伝わる。
エーレは礼の姿勢を取ったまま動かない。成程。道理で神殿側の動きを話さないわけだ。
折り曲げた指で口元を押さえ、考える。こうなると極秘裏でも神殿との連携は難しい。現状、私は神殿の面子からは完全なる部外者なのだ。しかし、神殿が聖印を使うほどこの異常を正確に把握していた事実に安堵したのも本当だ。石版の持ち出しが難しくなったとエーレが言っていたのは、恐らくその辺りで聖印が発令されたからだろう。
聖印の発動は神殿のためには喜ばしく、私にとっては唯一の情報源に枷がつけられて宜しくない。だが、まあ、それで神殿側への被害が減少するなら概ね良しとしたところだ。
さて、どうしたものか。
いくら私でも、自分が持ち得る、今は持ち得ただが、戦力くらい把握している。十二に分かれた神兵隊はそれぞれが力ある隊であるが、中でも一、二、三番隊は別格だ。さらに一番隊ともなると神兵の要であり最大戦力となる。
神殿は当代聖女が忘却されている現状の認知は出来ないまでも、異常は把握できている。そんな中で行われる聖女選定の儀に一番隊が出てこない違和感を見過ごせるほど呆けてはいない。聖女候補を出迎えた際も、ここまでの期間も、一番隊の姿を見ていない。聖女候補へ護衛としてついたのも二番隊までだった。ならば一番隊はここにはいないのだろう。どこに出しているのかは分からないが、聖女選定の儀が行われているにもかかわらず一番隊の姿が見えないとなると確実に神官長の指示だ。
「これはあくまで独り言と致しましょう。采配はあなたに任せます。聖印に触れぬよう、回せる範囲で人員を動かしてください」
「御意」
命を懸けるほどの用件ではない。今回の事件を経て、敵の目的に対する予測が少しずれたことは引っかかるが、ならばあまり重要ではないだろう。
姿勢を戻したエーレの顔を見つめる。相変わらず美しいことだ。
「呪具を探してください。恐らくは人形型で、顔に何らかの細工があるでしょう」
整った頬が、ぴくりと動く。何かを言おうとしたエーレを、掌で制する。下手に言葉を発し、命を危険に晒す必要もない。
「おかしいと思ったんですよ。いくら身体が鈍ったからといって、どうにも顔に派手な怪我が集中するんです。今回の炎も、最初は少し顔から離れていたんです。けれどすぐに、吸い寄せられるように私の顔に張りついた。恐らくは近くに炎を現出させ、後は呪いの結果により顔へ流したのでしょう。規格外な術をやらかす相手ではあっても、呪具であればある程度は型にはまるはずです。ならば範囲は神殿を含めて王都以内で済むはずです。しかし相手が相手でもあるので、三班が一番適しているでしょう」
一番隊の三班は、直接的な戦闘よりもその前段階、又は事後処理に適している部隊だ。この部隊がなければ、一番隊は回らない。神殿内にいるなら図書館か研究室か自室を探せば大抵見つかるので探しやすい隊でもある。
「可能ならば三班を回してください。不可能ならば、むしろ手を出さないほうがいいと思います。下手に手を出せば他の面子が呪いをくらう可能性があります。手足ではなく顔なら動きに支障はそれほどありません。失明だけ気をつけますので、三班が無理ならば放置してください」
無理なら無理で構わない。今回の件で、そう思った。
しかしエーレは不満そうだ。段々機嫌が悪くなってきた。何せ眉間に渓谷が現れ始めたからだ。これ以上渓谷が深くなればどこかで秘技が発動してしまうかもしれない。
「怪我は」
「怪我はするなですね。分かっています。しかし、今回の件で敵の方針に疑問を抱きました。もしかすると、私の考えが間違っていたかもしれません」
渓谷は歪み、怒りより疑問に傾いた。
「さっきも言いましたが、手緩いんです」
「馬鹿な」
嫌悪に満ちた顔で吐き捨てるエーレに苦笑する。そんなに怒らないでとも、怒ってとも言えない私に出来る顔はこれしかない。
「当代聖女の認知が失われた。ここまではいい。私にとって最大の傷がつく。しかしそれ以降の攻撃すべて、私に特化していない」
顔を狙って傷をつける。男に襲わせる。
成程。年頃の娘でなくとも女性ならば特に傷つくだろう。一生を覆うほどの傷となるだろう。大いに悲しみ、深く絶望することだろう。
だが。
「私が、神官長に忘れられた以上の傷をその程度で負うと思いますか?」
「いや」
即座に帰ってきた返答に満足する。神官長への想いを正しく把握している証左であり、私としての言葉が認識される喜びでもあった。
「あれをその程度と認識している事実は心底気にくわないが」
「まあそれはともかく。とにかく、敵のやり口は私向きではなく、年頃の少女向け、あるいは婦女子向けといったところでしょう。言うならば大衆向けの絶望です。私個人への恨みであれば、このやり方は疑問が残ります。ここまでの力を持ち、既にあり得ない領域にまで踏み込んだ事態を引き起こした相手にしては、やり口が手緩く回りくどい」
「……確かに、引っかかるな」
そうなのだ。起こした事件に対し、つめが甘いと見るか手緩いと見るか。何にせよ、事件の規模がやり口に対し噛み合わない。徹底的に私を追い詰めるようでいて、どうにもしっくりこないのだ。
敵は、私に興味がない。その結果だけを欲しているとも見れる。
「これは、復讐ではないのか……?」
「だとすれば、せっかく唯一掴んだ敵の方針も一から考え直しですね」
まったく面倒だ。分かりやすく復讐なら復讐、それ以外の目的があるなら看板掲げて正門からやってきてほしい。
「私を絶望させたいのは確かだと思うんですよ。嫌がらせの範疇を超えていますから。ですが、復讐ではないのに絶望させたいのなら意味が通りません。絶望させたい手法が私向けでないのも道理に合いません」
思考と共に沈黙が落ちる。とにかく敵の目的が分からない限り手の打ちようがない。常に後手を踏み続けるのは、戯れならいいがそんな状況は早々訪れない。それを可愛く思えるのは圧倒的な戦力差でこちらが優位に立っている場合のみだ。
「…………結果が目的か?」
ぽつりと落ちたエーレの言葉は、二人しかいない空間によく響いた。しかし言葉は拾えても意味を掴めない。
復讐を望む人間を絶望させたい。意味は分かる。理解もできる。だが、結果? 絶望の先に何があるのだ。そもそも先などあるのだろうか。絶望とは希望が潰える現象。希望が絶たれた事態に抱く感情。それは後や先といったもので表現されるものなのか。だって、絶望した人間の末路など――……。
「ああ、成程」
すとんと納得した私に、視線だけが答えを促した。
「自害させたいんですよ」
「……何?」
「殺害に主軸が置かれていない。つまり、他殺では駄目な理由がある。けれど絶望させたい。絶望の先は自らによる死でしょう。自害は私が私を殺し、生を投げ捨てる行為です。つまり、私に何かを投げ出させたい。私が持っている何かを、私が死により投げ出すのを待っている。それは強奪では手に入らぬもの。物品とはなり得ぬもの。そして私個人を対象としていないのであれば私としての個が持っているものではないのでしょう。ならば」
私がこの身以外で持ち得る物。そんな物は限られている。
「当代聖女の死から何を回収したいのでしょうね」
さて、神殿の庇護を失ったこの身に如何ほどの価値が残されているのやら。




