114聖
肉を貫く感触はなかった。そうかといって、それ以外の感触があったわけでもない。
ただ落ちた。その表現が最も正しいのではないかと思えるほどに何もなかった。私の手には何の感触も伝わらぬまま、短剣はアリアドナの身体を通り過ぎ、地へと刺さった。
そうして私の目の前で、アリアドナの全ては塵となり、虚空へと消えた。
アリアドナの消滅と共に、世界は静かに修復を始めていた。
穢れとエーレの炎によって黒く染まった箇所が瞬きをするたび遠ざかり、数度の瞬きを経れば、そこには白い世界だけが広がっていた。
「…………人喰らいに神殺し 。大層な肩書きがついてしまいました。中身は私のままなんですけどねぇ」
最後まで、エーレにアリアドナを攻撃させなかった理由がここにある。
あの状態ではまだ神へと至っていなかったが、それでも神未満にかろうじて止まっていただけの存在だ。
そんなアリアドナを殺せば、エーレが神殺しの業を負ってしまう。
それだけは、なんとしても避けたかった。
苦笑しながら掌を何度か開閉する。私から渡った鍵がアリアドナを神へと至らせた。そして彼女を殺した私の中に、彼女の力を伴って帰ってきてしまった。
その前の状態から既に神力を扱い切れていないのに、どうしたものか。
しばらくは、激しく感情を動かさないほうがよさそうだ。漏れ出した神力だけで、世界に多大なる影響を及ぼしてしまいかねない。
黙って座っているだけでも、下手をすると内側から弾けそうな神力が身体中に満ちている。気を抜けば、指先どころか髪の毛一本に至るまで意識が通り、世界を把握してしまう。
数百年かけたとはいえ、こんな力をよく身体に馴染ませたものだ。普通の人間であれば、日常生活を送ることすらままならず、あっという間に情報に呑まれて壊れていただろう。
アリアドナは確かに、この世で一番神となる才を持った命だった。
「マリヴェル……お前、大丈夫なのか」
「え? ああ、ええ、大丈夫です。……本当ですよ? 少し驚きましたけれど、似たようなことは想定していましたので」
数百年もの時間をかけた悲願達成を阻んだ、私という存在。それを、アリアドナが許すとは思えなかった。何らかの形で遺恨を残していくと思っていたので、想定内だ。
私が一人終える形で落ち着くのなら、最高の纏まり方である。
裾をはたきながら立ち上がる私に手を貸したエーレは、まだ何か言いたげだ。
「神喰らいと神殺しが出た国に手出しする神がいるとは思えません。 これでしばらくの間は、ハデルイ神亡き後、本当に空座となった神の座を狙う他の神は現われない。それなら私達は、他の神からの手出しを警戒することなく国の修復だけに注力し、幼き御方がこの世に顕現なさるまでその座を守っていけるでしょう」
アリアドナは私に呪いを残した。同時に、アデウスにとっては新たな神が現われるまでの猶予となる庇護でもあった。
彼女の真意は分からない。こんなことで彼女の罪は購えず、誰一人として救われない。
ここには結果があるだけだ。
アリアドナは死に、新たな事件が生まれることはない。
だからこの先にあるのは、続く結果だけなのである。
白が揺れている気がして視線を上げれば、罅割れた天が修復されていく様子が見えた。それなのに、白の向こうに何かが透けて見えた。
大樹だ。大樹とそれらが貫いた神殿が、白のヴェールの向こう側に見えている。
白が薄まっているのか、世界が近づいているのかは分からない。
どちらにせよ、この空間から去る時間が近づいていることだけは分かった。
私は未だ目覚めないアーティ達の元へと戻り、彼女達を集める。とりあえず、全員近くに集まっておいてもらおう。何かあった際に手が届きやすい。
ちなみに、私がよいせよいせとアーティ達を集めている間、エーレはそれを眺めていた。曰く「俺が眠った婦女子に触れて回るのはまずいだろ」とのことだった。もっともだ。
しかし私は知っている。ここに至るまで、大樹の根を登り、下り、避けて遠回りし、道なき道を、砕けた道を、そうして進んできた。
つまりエーレは、大変に疲れている。
体力が限界を来しているエーレは、無表情の後ろにどんよりとした疲労と怒りを背負っているので分かりやすい。疲れたと、怒りに書いてある。せめて顔に書いてほしい。
最後にポリアナをアーティの横に寝かせ、一息つく。
その間にも、白で霞んで見える常世の世界はだいぶ濃くなっていた。
神殿がはっきりと見える。大樹が破壊した破片が見えるほどに近くなっていた。もうすぐで匂いまで届きそうだ。
香もインクも水の匂いもしない神殿。山も呑まれて水が失われた王都。あそこに見える神殿は、そういうものだけれど。
ぼんやり眺めていると、大樹が崩れ始めていた。アリアドナの身体と 同じだ。アリアドナは黒い塵だったけれど、大樹は白い塵となって崩壊を始めていた。
「…………エーレ」
「何だ」
「私、は…………」
エーレはすぐに応えてくれたのに、呼んだ私のほうが言葉に詰まった。何度か答えようとして失敗する私に、エーレは怒らない。
こういう時は怒らないのだ。昔から、いつだって。
「……神官長達を、探します」
黙って私が喋り出すまで待ってくれているエーレに、結局小さな声しか渡せなかったのに、やっぱりエーレは怒らなかった。
「当然だ」
「……結果を知るのが怖いって言ったら、怒りますか?」
「怒ると思っていることに対し、一発引っぱたこうとは思っている」
「叩かないでくださいよぉ」
へらりと笑って返したはずの私の声は、酷く情けない音だった。
やがて白は解け、私達は瓦礫が降り積もる神殿に立っていた。壁や天井に空いた大穴は、大樹の根が貫いていった痕跡だ。
すぐ傍で眠っているアーティ達は、まだ目覚めそうにない。地べたに直接寝かせてしまっているが、布団どころか身体の下に敷く布すらすぐには調達できないので、申し訳ないがしばらくそのまま眠っていてほしい。
視線を上げれば、巨大な大樹が少しずつ白い塵となり王都に振り注いでいた。塵と混ざって、元々降り注いでいた白い綿毛のような物体も落ちてくるので、まるで吹雪で遭難しているかのようだ。
どこに行けばいいのか分からない。どこに進めば助かるかも分からない。
けれど探さなければ。分からなくても、分かるまで。
お父さん達を、見つけなければ。
もしかしてを抱いていられる内は、苦しくも幸いなのだ。もしかしてが通用しなくなった瞬間、容赦なく叩きつけられる絶望に対する、逃げ道も希望も失われる。
隣を見れば、エーレがいる。私はいま、心から一人ではなくてよかったと思っている。
この絶望に巻き込んだ事実を喜ぶ自分の浅ましさに吐き気がするのに、それ以上に、エーレがいてくれてよかったと安堵していた。
「エーレは、私に何かしてほしいことないんですか?」
「突然なんだ」
「人間の関係は、対等でないと維持が困難となり、どこかで必ず瓦解すると、長い歴史が証明しています。そして私とエーレでは、どうあってもエーレの負担と被害が桁違いとなります。ですのでせめて、私がエーレの望む形や行動を取ることで、対等は難しくてもなんとか妥協可能な水準くらいは保てないかな、と」
エーレの望みを私が考えて実行するより、エーレに考えてもらったほうがいいはずだ。私が考えて行動すると、ろくでもない結果になると胸を張って言えるくらいには、私は自分を信用している。
「何がいいですか? 何でもしますよ。掃除洗濯賞金稼ぎ、えーと後は」
「お前が生きていればいい」
「夜伽目覚まし時計、え?」
「それはしてもらう」
「どれですか? 賞金稼ぎ?」
いま王都には、ちょくちょく賊が転がり込んでいる。そのうちの誰かに賞金がかかっていると手っ取り早くていいなと、算段をつけている頭を引っぱたかれた。
「お前が生きていればいい。俺といるなら尚いい。以上だ」
それはつまり。
「……今と変わらないのでは?」
引っぱたかれた頭を擦りながら首を傾げると、エーレの目が据わった。
「この現状維持がどれだけぎりぎりだったか一から説明してやろうか」
どうにも不穏な雰囲気を漂わせているエーレの言葉を、甲高い音が遮った。静まりかえった神殿に響き渡ったのは、割れた窓が砕け落ちる音だった。
気がつけば、大樹も随分欠けていた。
しかし本体の塵は霧散し風に流れていっても、降り積もった白い綿毛のような物は残っている。水路が枯れきった原状回復のためにも、大量の雨でも降って洗い流してほしいところだ。
私がうまく力を扱えていれば、降雨くらいは可能だっただろう。だが未だ未熟なこの身では、天候を左右するほどの力は扱えない。
私は無力だ。結局、どこまでいっても私は無力でしかない。
それでも、私が私でしか有り得ない以上、私のまま進んでいくしかないのだ。私のまま出来ることを増やしていくことでしか、望む未来は訪れない。
風が吹いた。風が吹けば鳥も虫も飛べる。その辺りが循環すれば、植物も種を増やしていける。
探そう。
虫が帰り、鳥が帰り、獣が帰り、きっと人も帰ってくるこの場所で。
あの人達を探そう。
そうでなければ進めない。絶望が怖くて希望を抱けないままでは、どうしようもなく停滞するだけなのだ。
どこから探そう。人の気配がどこにもなくて、どこに足を向ければいいのか分からない。けれど進まなければ何も成せないのだ。成しても成せるとは限らない。けれど成さねば成らぬのはただの事実である。
あの人達の死を見る覚悟はどこにもないけれど。絶対に生きていると無邪気に駆け出せるには人の気配がどこにもないけれど。
突如、頭の後ろがちりちりと焼けるように泡立った。
体中の血が逆流しているかのような、昂揚とも凍り付いたとも言える奇妙な感覚が、私の身体を支配している。
身体が動かない。酷く震えて、息も出来ない。
私が見つめる先に、腕が見えた。崩れた瓦礫の横から垂れ下がる腕だ。
誰の腕?
あれは、誰の掌?
服は汚れ、意匠が見えづらい。見えているのは腕から先だけ。それだけで誰か、分かりたくはなかった。
私の口元を拭った長い指。私の頭を覆った温かく大きな掌。
「あ」
待って。
嫌だ。
待って。
待って待って待って。
あれだけ進む方向も分からなかった足が、無意識に進んでいた。
身体の重心が引き寄せられるように傾いて、それに従って足が進む。勝手に、私の意思など何一つ関係なく。
重心が傾くがままに、一歩、一歩、近づいて。
ぴくりとも動かないその腕が見えている瓦礫に、手をついた。
息が、うまく吸えない。いや、吐けないのだろうか。分からない。身体の機能のどこが不調なのか、何一つとして意識を回せない。
それでも足は止まらない。
私の身体はふらりと進み、瓦礫を乗り越えていた。
「あ」
いた。
皆、いた。
サヴァス、ヴァレトリ、ペール。王子の騎士達。あの時は揃っていなかったはずのココやカグマ、料理長まで。皆いる。
神殿関係者だけでなく、王城の騎士達も含め、あの場で大樹に呑まれた人々が皆、ここにいる。
どうして、皆。皆、どうして。待って。
お父さん。
思考がうまく働かない。
あの日神殿と王城にいた人々が、皆、折り重なって倒れている。
「あ」
神の目を開けない。私の目を通してでしか、世界を見る勇気がない。
神官長の前にへたり込む。
神官長は、瓦礫に寄りかかるように倒れていた。
私が前に座り込んでも、神官長はぴくりとも動かない。神官長の肩に凭れ掛かっているヴァレトリでさえも、何の反応も示さない。他者の気配に誰より敏感なヴァレトリが、何も。
「……神官長」
震える声で、呼ぶ。神官長は応えてくれない。
いつも、いつだって、呼べば振り向いてくれたのに。
『何かね?』
そう言って振り向き、膝を折って目線を合わせてくれた。時に抱き上げて、高い世界を見せてくれた。
『マリヴェル』
笑ってその名を呼んでくれる光景が、いつしか当たり前となった。奇跡を日常としてくれた人が、私を見てくれない。
「神官長」
それでも、いい。笑ってくれなくても、私を見てはくれなくても。
私を嫌いになっても、いい。
私を忘れても、いいから。
よくはないけれど、いいのだ。
生きてさえいてくれるなら、なんだっていい。
「神官長」
それなのにどうして、そのたった一つが。
どうして。
「神官長」
手を、伸ばす。
体も心も震えて力が入らない。腕を持ち上げる単純な動作さえうまくいかず、すぐそこにあるはずの神官長の頬にさえ届かなかった。
気ばかりが急く。焦れて急いて、それなのに触ることを怖じる自分も本当で。
視線は、凍り付いたまま動かせない。
その胸は上下しない。睫は揺れず、唇から吐息は零れない。
「いや……」
開かない目蓋は、眠っているだけ?
「いや」
それとも。
「やだ」
眠っているように、見えるだけ?
「お父さんっ……」
私の手が、冷たく冷え切った頬にひたりと触れた。
「あ」
絶望の、音がした。
柔らかく温かかった肌が、内部から冷え切った固さを。
唇が、心が戦慄く。記憶が思考が身体が、私という存在が戦慄いて、焼き切れる。
視界がちかちかと揺れる。
やだ、やだ、嫌だ
嫌だ
待って 待ってお父さん
待って
助けて
誰か
助けて
お父さん達を 誰か
神様
「――――ハデルイ神?」
不意に、温かな風が頭を撫でた気がした。
その風は、既にこの世を去った優しい神の気配を纏っていて。
命の気配が膨れ上がる。爆発的に命の騒がしさが溢れ出した。
虫が目の前を飛び去り、鳥が甲高く鳴き叫ぶ。
鼠が走り去り、犬が遠く吠えた。
命が、世界に帰還して。
そして。