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忘却聖女  作者: 守野伊音
六章
113/120

113聖






 私は、エーレの手を借りて立ち上がる。そして、位置を変えたアリアドナの前まで歩いていく。

 その間に、アリアドナはなんとか上体を起こしたようだ。震える腕で、倒れ込みそうになる身体を支えている。

 身体は起こせないようだが、その髪が明確な意思を持って蠢いている。

 先端が黒に染まったアリアドナの髪が、黒を滴り落としながら私を欲し、エーレの結界に焼かれていく。

 しかしそんなこと、アリアドナは意にも介さない。己の眼球から瘴気が質量を以て溢れ出している現状すら、意に介していないのだから当然なのかもしれない。


「神にさえなれば……。神にさえなれば、神にさえ、なれれば。全てが、うまくいくの。わたくしが必ずそうしましょう。大丈夫、平気よ。わたくしなら、わたくし、ならば、必ず神の力を己が物とし、あの人を見つけてみせます」

「アリアドナ。神は万能なる奇跡の発生装置ではありません。……万能でないことを、その死を以て証明してくださいました。それを誰より知っているのはあなたでしょう」


 神が死者を蘇らせる力を持つのであれば、ハデルイ神が最後の一体になるはずがなかった。

 神々がこの地から失われた現状を見れば、可不可は考えるまでもない。


「ハデルイ神が、あなたに殺された神々を蘇らせなかったのは何故だと思いますか。あのままでは、どういう形にせよ人のためにならない。そう、あの御方であれば判断なさったでしょう。けれどあの方は、どの神も蘇らせはしなかった。出来なかったからです。ハデルイ神にさえ出来なかったことが、人の身で可能とは到底思えません。まして、術者だけではなく対象者までもが人なのです。人の魂は、神より余程小さく変質しやすい、柔らかなものです。成功率が神より上がるとはとてもではないが思えません」

「……わたくしを人と呼び、人の枠組に留めようとしても無駄ですよ。お前こそ、神となるには矮小が過ぎますね。神の強大な御力は、お前では宝の持ち腐れとなるは必定。ゆえに、わたくしが世界のために引き継ぎましょう」


 アリアドナは、まるでエイネ・ロイアーのように微笑んだ。

 眼球から瘴気を溢れ出させ、先ほどまで絶望に俯き、崩壊寸前の身体の終わりを待っていた人とは思えない、柔らかな雰囲気を纏っている。

 ずっと、こうやって来たのだろう。

 身の内がどういう状態であろうと、どれだけの感情を抱いていようと、柔らかで穏やかな女で在り続ける。

 アリアドナがベルナディアを器と定めた理由が、よく分かった。

 激しさを抱きながらもおくびにも出さず、穏やかで在り続けられる強さを持つことがどれほど困難か。彼女は身を以て知っているのだ。


「マリヴェル、許可を」

「迎撃のみ許可します」

「マリヴェル!」


 エーレの怒鳴り声に反応し、結界から火花が散った。常に怒りと炎を身の内に宿しここまでやってきた人が、よく耐えてくれている。


「いい加減にしろ。様子見はもう充分だろう。それとも本当に、哀れみからこの女を逃がすつもりか」

「違います」

「ならば何故だ。静観している理由は、俺を納得させるに値する説得力があるんだろな」


 未だ穢れを垂れ流すアリアドナにより、世界は黒の領土を増やし始めている。

 エーレが結界を張っている私達の周囲と、アーティ達が眠る場所のみ黒の侵食を防げているが、それ以外の地は黒が漂ってしまった。

 世界の半分を黒に染め上げているのは、アリアドナから溢れ出す穢れだ。


「…………もう、保たないからですよ」


 一番の理由はそれではないけれど、それも理由の一つだから嘘じゃない。

 かろうじて上半身を支えていたアリアドナの腕が力を失い、その身体が黒へと落ちた。

 酷く粘着質な液体はアリアドナの身体に絡まり、その自由を奪っていく。それでもアリアドナは微笑んだまま、私の鍵を求めている。


「わたくしは神になりましょう。わたくしが神になりましょう。神に、ならなければ。神にならなければ神になって神であれば――……神が、いなければ………………忌むべきは人間共でありながら、どうして罰を受けないのでしょう。……この世全ての害悪を凝縮した歴史しか紡げない人間共が、あの程度の絶望で許されるものかっ!」


 アリアドナが拳を振り下ろした先から、世界が激しく揺れた。私達が立つ白が保たれていた天にも黒が走り、罅割れる。

 顔を上げ、ゆらりと頭を揺らすアリアドナの髪が激しく靡く。眼球から穢れを垂れ流し、地を溶かし空を割るその様は、祟りそのものだ。

 けれど私は、彼女の異様な姿よりも、その言葉が焼き付く。

 あの程度。あの程度か。

 数百年に渡り、アデウスの民から神を奪い、祈りの先を穢し、死した女達を弄び。

 それを、ただ人間という区分だけ一致した人々に向けたことが、あの程度。



「復讐を咎めるつもりはありません。私にそんな権利はない。けれど、アリアドナ。復讐にかまける時間があったのなら、一秒でも早くと、そう思えなかったのはあなたの落ち度です。たった一つの願いさえ失ってしまうこの世の中で、復讐へと気を散らしてしまったあなたが責める対象は、あなた自身ではありませんか」

「あの人を、何の罪もなかったあの人を殺した人間共に、何の罰も下されないなど許せるものか!」


 アリアドナから溢れ出した黒は、世界をその色に染め抜くだけでは飽き足らないらしい。先ほどから執拗に、私達のいる結界を覆おうとしている。


「エーレ、迎撃のみですよ」

「……分かっている」


 私が呼びかけるまでもなく、とうに戦闘態勢に入っていたエーレから、舌打ちと同時に凄まじい熱が溢れ出す。

 世界ごと揺らした衝撃と共に、私達を飲み込もうとした黒とエーレの炎が真っ向からぶつかり合った。

 炎自体が膜となり、エーレを中心として膨れ上がっていく。その外部表面にべったりと張り付いた黒は、触れた箇所から炎によって焼き尽くされる。

 しかし、およそ人の形をした器から溢れているとは思えない質量で生み出される黒は止めどなく、飽くなき執念を以て私達を飲み込もうとしていた。

 焼かれても次から次へと現われるその光景は、北で見た大樹の根によく似ている。

 大樹もアリアドナが生み出したものならば、結局は穢れの具現化だ。

 あれはその力を通す道であり、大樹が存在する地をアリアドナの領域とする役割がある。ゆえにああいう形で現われてはいるが、結局元は同じだ。

 穢れが物量を伴って押し寄せてくるなど、誰が想定しただろう。きっとハデルイ神でさえ思いもしなかったはずだ。


 エーレの炎と穢れが交互に蠢きあう。炎の浄化を受けた箇所は光を放ち、光を穢れが飲み込み、穢れが光に焼き尽くされる。

 傍目には光が点滅しているように見えるが、実際は光と穢れが飲み込み合っているだけだ。

 穢れはどろりと粘着質でいながら、海のような質量で溢れ出している。

 生き物が生息できない海。滅びだけが確約された黒。

 過去より命を繋いできた太古のゆりかごである海とは違い、過去より命を滅ぼさんと凝縮した死を連れてきたこの黒は、未来の棺桶とでも呼ぶのだろうか。

 けれど、棺桶とは死を収めるためのもの。死を蔓延させ、それでも満足せず何百年も繋がってきたこれは、名付けてはいけない穢れなのかもしれない。


「……鬱陶しい」


 絶え間なく穢れを焼き続けていた炎が、エーレの舌打ちと連動し、あちこちで弾け始めた。エーレの髪と私の髪が、熱に煽られる。

 エーレを中心に、熱は収縮し膨れ上がっていく。なんだか脈動のようだとのんきに思っていたのも束の間、交互に膨れ上がっていたはずの熱が収縮し続けていることに気がつき、慌ててエーレの腕を掴む。


「エーレ!」


 一歩前に出たエーレを呼んだけれど、エーレは振り向かなかった。

 私の制止が間に合わなかったのか、それともあえて聞かなかったのか。

 熱は、弾けた。






 これまで我慢していた分がここぞとばかりに爆発するとどうなるか。その答えが目の前にある。

 気がつけば、黒も白もないまま全てが吹き飛び、炎がえぐり取っていった痕跡だけが残った世界が広がっていた。

 元々世界の色だった白はそのままだが、あれだけ世界を飲み込もうと溢れ出していた黒は、今やエーレの炎が焦がした痕跡として残るだけだ。

 咄嗟にアリアドナを確認する。

 地に伏せた身体が身じろぎをした様子に、ほっと胸を撫で下ろす。生きていてよかった。

 色々な意味で、だが。

 アリアドナから溢れ出した穢れは、彼女に殺された神々の怨嗟とよく似ていた。それを跡形もなく吹き飛ばしたエーレの背中を見ながら、私は静かに目を伏せた。

 エーレに我慢させた結果が、神々の怨嗟を吹き飛ばすこの火力である。

 昔を思い返してもエーレに我慢してもらえばもらうほど、後々の被害は大きくなったものだ。主に私の被害が大きくなる。

 つまり、エーレにはあまり我慢をさせないほうがいい。改めて、胸にしっかり刻んでおこう。

 そしてうっかり忘れたら、その都度甘んじて受け止めようと心に決めた。





 白い天は罅割れ、地は黒く焼け焦げた。

 そんな星の中心で、アリアドナは倒れ込んでいる。もう立ち上がることは出来ないのだろう。いや、本当はもっと前から足の機能は失われていたのかもしれない。

 ここに来てから一歩も歩いていなかった彼女を思い出して、気がついた。

 白に溶かしていた金の髪は、その部分が黒くなり、焼けちぎれていた。穢れが溢れ出していた眼球に瞳は戻っていたけれど、視力まで残っているかは定かではない。薄く空いた唇からは、同様に薄く残った怨嗟と、掠れた願いが漏れ出すのみだ。

 その身体にはエーレの炎による火傷は見られない。それでも、アリアドナはもう起き上がれそうにはなかった。


「わざわざ可視化などしなくても、この世には死も穢れも蔓延している」


 アリアドナを見下ろし、エーレは自身の服を軽く払った。


「それを聖女へ届かせぬ事こそが神官の使命であると、定めたはお前だろう」


 業腹ものだがなと続けたエーレが一歩ずれる。譲ってもらった場所へ位置を変えた私を見上げたアリアドナの瞳は、真っ白に染まっていた。

 その目は最早、何かを写しはしないだろう。


「……こんな世に、一体何の価値があるというの。強欲で汚らわしい人間共が作り上げた世界など、あの人とは比べものにならないでしょう」

「その点に関しては、あなたと私の意見が一致するとは思えません。一致させる必要もないでしょう。あなたにとっては愛する人を失った世界であり、私にとっては愛する人が生きる世界です。私達の認識が噛み合うはずもありません」


 それは、時代や価値観の違いより余程深い断絶だ。


「今この時、これだけの人間が同じ時代を生きているというのに、誰にとっても同じ世界ではありません。誰かにとっては幸福の絶頂で、誰かにとっては絶望の深淵に落ちている最中でしょう。あなたと私が同じ世界を見られぬように、誰であろうと同じ時代に違う世界を生きています。なればこそ、これは正しさを基準に置いた戦いではありません。あなたにとっての正しさと、私にとっての正しさがぶつかり合い、どちらを過ちとして正すか、どちらを悪として裁くか。そういう、生存競争の類いです」


 私達の正しさは共存できない。

 アリアドナの正しさも理解は出来る。けれど生かしておいてはならない。彼女の正しさを生かせば、私の正しさは殺されるのだ。

 自分の正しさを理由に、他者の正しさを踏みにじり生き残ろうとしている私は、傲慢で悪辣な聖女だ。聖の字は神にお返しすべきだろうが、受け取ってくださる神がおられない。


 上体を起こそうと穢れの中でもがくアリアドナは、まるで溺れているようだ。

 自らから溢れ出した穢れに溺れる。それは、人の世でもよく見る光景だ。


「…………アリアドナ、ウルバイを引き込んだのは何故ですか? あなたなら、ウルバイによる隙を作らずとも、王都制圧は成せたでしょう」


 応えがないなら、それでもよかった。けれどアリアドナは顔を傾け、私を見上げた。


「お前が、いたからですよ。過去に一度も存在しなかったお前のような不穏分子が、よりにもよって今の時代に現われた……わたくしとて、警戒くらいするわ。それに、ウルバイはアデウス同様神無き国。ゆえにあれだけ過酷なのです。よって、御しやすい。アデウスは、御しやすい国の制御下に落としておきたかっただけですよ。この国の王族は、厄介ですから」


 こんな状態でも会話が成り立っている。穢れに溺れ、起き上がることすら叶わない。幾度も錯乱に近い状態へ陥った、

 そんな、今にも潰えそうな状態で、これほど冷静に答えを返すことが出来るのか。

 その精神力をどうか、どうか別の方向に向けてくれていたならと。

 そう思うのは詮無きことだと分かっている。

 それでも、この人が真なる聖女として過ごした世界は、一体どういうものだったのだろうと思ってしまえば、訪れなかった未来が惜しまれる。


「……お前。ねえ、お前」

「何でしょう、アリアドナ」


 アリアドナが見ている場所は、私の顔がある位置よりずれていた。視力を失い聴覚で判断しているのだろうが、それもどこまで正常に機能しているか分からない。


「わたくしは、どうすればよかったのかしら」


 ぽつりと落ちた言葉は酷く聞き取りづらい。少し考え、膝をつく。

 エーレから非難の視線が降りてくる気配があったけれど、今は許しほしい。


「あの人を殺した人間達を恨まず、怒りを抱かず生きていけばよかったの? そんなこと出来ないわ。あの人は私の全てだったのに、それを無残に、何一つ尊重せず塵のように殺したあの男達と、血の繋がりを持つこの身の汚らわしさを許すことなど出来やしない。じゃあ、あの人を諦める?」


 訥々と語るアリアドナの視線が、ぴたりと固まった。


「無理よ」


 アリアドナの視線が、くるりと動く。自らが作りだした肉塊を探しているのだろうか。

 けれど彼女にはもう見えていない。肉塊自体も、彼女から流れ出た穢れが押し流していってしまった。


「ねえ、お前。真実神の聖女であったお前なら、正しさを知っているのではなくて? 嗚呼、嗚呼、それならば聖女様。どうぞ哀れな子羊を、真なる楽園へとお導きくださいませ」


 私に手を伸ばしたアリアドナの掌から、小指と薬指が失われている。その顔も、身体も、徐々に崩壊が始まっていた。

 崩れ落ちた身体は地に落ちることなく、霧散していく。血を流さぬ傷口は、肉すら覗かせず。

 そこに見えるのは黒の虚無だけだ。


「ねえ、聖女様。罪を犯したわたくしには、言葉を交わす価値もないのでしょうか?」

「言葉は伝えるためにあるのです。ゆえに、問うのであれば応えましょう、アリアドナ」


 言葉ならば幾らでも渡してあげられる。されど、それが救いに繋がるとは限らない。

 ただそれだけのことを、少し躊躇っただけだ。


「人の業があなたに絶望を与えたあの日から、数えきれぬ歳月が過ぎました。人の子には長すぎる時間です。………………なればこそ」


 命は、ただ命として在るだけで尊き光である。


「アリアドナ、あなたがいってあげなさい」


 それなのに、終わりを肯定する選択しか用意できない自分が、酷く情けなかった。


「あなたが人として在ったのであれば、百年ほど後、生は終わりを迎えたでしょう。なればこそ、その時こそが再会の機でした。彼の人をこの地へ連れ戻すのではなく…………あなたが、いってあげるべきだったのですよ」


 真白く染まった瞳を、今にも転がり落ちんほどに見開いたアリアドナの顔は、随分と幼く見えた。

 思いもつかなかったと雄弁に語る瞳が、幾度も瞬き。

 ゆるりと、溶けるように解けた。




「――――ああ、それでよかったのね」

「…………アリアドナ」

「ふふ……そんな顔を、なさらないで、聖女様。お前が正しいわ。そうね、それだけで、よかったのに……わたくしったら、どうしてこんなにも遠くへ…………」

「…………」


 祭りに浮かれる子どものように声を弾ませる人の身体は、どんどん黒ずみ、崩れていく。喋る振動さえ耐えきれない状態だ。

 きっと黙っているほうがいいのだろう。けれど、アリアドナの言葉を遮る気にはなれなかった。

 どちらを選択しようと、誤差は数分あるかないか。終焉が既に決まっているのなら、言い残すことがないよう喋り尽くしていけばいい。


「わたくしの生の限界まで彼奴らに復讐し、そうして寿命が尽きればあの人の元へと行く。ただそれだけでよかったのに…………どうしてわたくしは、こんなにも汚らわしいと思っているこの地へ、あの人を呼び戻そうとしてしまったのかしら…………ねえ、聖女様。お前には分かるかしら」

「…………私はあなたではありません。よってこれが正しき解とは限りませんがよろしいでしょうか?」

「勿論よ」

「では申し上げましょう。あくまでこれは私一個人としての感想となりますが――――この世界が美しかったからでは?」


 結局、これにつきるのではないだろうか。


「ああ、そうね」


 拍子抜けした顔で、アリアドナは気のない言葉を返してきた。自分から聞いておきながら、もう興味を失ったようだ。それならそれで構わない。

 私は私の答えを、彼女は彼女の答えを持っている。私達の答えが一致する必要はない。違う正義を持つこと自体は、悪ではないのだから。


「彼の人と過ごした時間があまりに美しくて幸福だったから、もう一度同じ条件を満たそうと思ったのではないのですか? そして、そんな美しい世界に彼の人を帰してあげたいと思ったのであれば、私は共感します」


 驚いた顔を浮かべたアリアドナに、特に共感は求めていない。されど、今にも泣き出しそうに歪められた顔を見ていれば、それ以上の答えは必要なかった。


「聖女様……」

「はい、何でしょうか」

「……どうしてお前は、何も失わないのかしら。わたくしは全てを奪われ、失ったのに。どうしてお前だけ、何も」

「何も失わなかったのは、何も持ってはいなかったからです。けれど今は……あなたを起点とし、多くを失いましたよ」


 正直に事実を告げれば、アリアドナは掠れた音で、けれど確かに声を上げて笑った。

 アリアドナの身体が塵になっていく。一時はこの地で最も神に近しい存在であった女が、塵となっていく。


「――――、……?」


 声が聞き取りづらい。その口元へ耳を寄せようと身を屈めた私の肩を、エーレが押さえる。その手に自らの掌を重ね、首を振る。

 エーレが心配してくれているのは分かっている。けれど今は見逃してほしい。エーレが懸念している事態が起こっても、対処は可能のはずだ。

 不満げな表情を浮かべているエーレの手に軽く二度と触れ、アリアドナの口元へと耳を寄せる。


「鍵を、頂けるかしら?」


 もう何本も残っていないアリアドナの掌が私の胸元を掴み、消滅しかけている存在とは思えぬ力で引きずり倒した。そうして、大きく開かれたアリアドナの口が、私の口に噛みついた。





「貴様っ!」


 エーレの熱を背後に感じ、必死にひねった身体の後ろ手でそれを制す。


「マリヴェル!」


 怒りと苛立ちがない交ぜとなった声で名を呼ばれても、私も引けない。

 エーレの声に戸惑いが混ざっていないのは、流石エーレだと思った。基本的に反射で飛び出す感情は、自らが発し慣れたものが多いのである。

 私の制止を聞いてはくれないかと思ったけれど、熱は収められてはいないものの、無理矢理引き剥がされることはなかった。ほっと胸を撫で下ろす。

 ただし、これだけ我慢をさせているので、後が大変そうだ。エーレの待ては、解除後の収集がつかなくなるのが難点である。

 そうこうしている間にも、アリアドナの神力が私の中を巡る。思いの外優しく、くすぐったい動きだ。

 そして、私の胸倉を掴んでいないほうの手が、私の手に触れた。そのまま私の手を掴むと、自身 の胸元へと誘導する。

 そこにあった固い感触に、唇を合わせたまま、思わずアリアドナの瞳を見る。

 私が見ていることは分からないだろうに、ちょうどアリアドナの瞳が細まる瞬間だった。

 ぐるりと世界が揺れた私の身体から、ふっと力が抜ける。

 急に世界が見えなくなった。星の内まではっきりと見えていた瞳が、突如幕を下ろしたかのように、目の前にある物しか見えなくなっている。

 唇を離したアリアドナは、満足げに微笑んだ。


「ありがとうございます、聖女様」


 うっそりと微笑むその瞳には、美しい花が咲いていた。





 エーレが力尽くで私の腕を引き、アリアドナから引き剥がそうとする。


「エーレ、構いません」

「マリヴェル! お前何を考えてっ!」

「エーレ」


 エーレの激昂も理解できた。けれど私は首を振る。


「何も……何も、問題はありません。言ったはずです。……もう、保たないと」


 私の下で、アリアドナは神々しさを纏い、その身に宙を宿し始めた。いま、新たな神がここに生まれようとしている。

 けれど、その身の崩壊は止まらない。寧ろ、消滅しようとしている身体には負荷が大きすぎるのだろう。崩壊が早まっている。


「アリアドナ、満足しましたか?」

「――いいえ、いいえ、まだよ」


 アリアドナは胸元から取り出したそれを、両の手で私に握らせた。

 それは、神玉を中心に装飾が光る短剣だった。

 貴族が護身用として懐に忍ばせる類いであるその剣を私に握らせたアリアドナは、そのままゆっくりと鞘から引き抜く。

 そして塵となりながら私の手を誘導し、自身の胸元へと設置した。


「ここよ、聖女様。ここを突いてちょうだいな」


 血も穢れも流れない身体の崩壊を気にせず、歌うように告げてくるアリアドナは、随分と機嫌が良さそうだ。


「理由を問いましょう」

「あなたが突いてくれないのなら、わたくしがあなたの胸を突きましょう」

「アリアドナ、答えなさい。私には、このままあなたの消滅を待つ時間があります。言葉遊びをしている余裕がないのは、あなたのほうでは?」

「ハデルイの聖女様は意地悪ね」


 屈託なく、アリアドナは笑う。


「お前に殺してほしいのよ。何百年も懸けたわたくしの全てが叶わず、散ろうとしているのですよ? せめてその終わりは、自滅ではなくお前の手で終わらせてちょうだい」

「……それがあなたの望みですか?」

「ええ、勿論」


 声音も表情も軽やかなのに、私に短剣を握らせるその力だけが強固だ。

 今は私が力を込めてその腕を留めているが、私が力を抜いた瞬間、アリアドナの力によって短剣はその胸を貫くだろう。

 小さく息を吐き、苦笑する。最後まで、禍根を残す努力を怠らない人だ。


「私を神殺しにして、あなたに何の得があるのですか?」


 私の問いに、ゆっくりとアリアドナの口角がつり上がっていく。崩壊を前にして、心底満足げに笑うものだ。

 それを見れば、彼女の人生が幸せだったのだと錯覚してしまいそうになる。


「お前も何かを失いなさい、聖女」


 その目に咲いた花を見た瞬間、腕の力がすとんと抜ける。

 あ、と、思う間もなかった。

 アリアドナの手に導かれるように、私の手に握られた短剣は、彼女の胸へと落ちていく。


「――――……あなた?」


 最後に呟かれたアリアドナの声は、どこかいとけなかった。






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― 新着の感想 ―
アリアドナは最期に会えたのかな…。 何も失っていないと言ったアリアドナを信じて、神官長たちとの再会を願います。 マリヴェルが幸せになれますように。
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