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忘却聖女  作者: 守野伊音
六章
112/120

112聖




 その瞬間、全ての反動が牙を剥き、アリアドナの身に襲いかかったはずだ。

 だが、ようやく恋しい男と会う術を得たアリアドナは、気がつかなかったのだろう。

 気づいたところでどうにもならなかったのかもしれないが、それでもどうにか耐え抜こうとした痕跡がどこにもないのだ。

 己の所業も有り様も、顧みることなくここまで走り続けた女は、結局自身の崩壊に気づかずここまで至った。

 揺れていたアリアドナの身体は、いつの間にか水面に落ちていた。私達がこの空間に現われた時同様に水面に座り込み、両の手をつけている。

 しかしあの時とは違い、その瞳は虚空を見つめていた。


「…………十二」


 ぽつりと、うわごとのようにアリアドナが口を開く。


「十二の神を、喰らったの。その力がここにあるのに…………それなのに、どうして…………たった一人のあの人さえ、救えないの」


 これまで、私達を前にして圧倒的で在り続けた女。この世で最も神に近しい形をした女の姿は、もうどこにもない。

 私達の前にいるのは、摩耗し消えかけた、一人の女に過ぎなかった。


「…………お前の鍵を手に入れれば」


 ぐるりと回った瞳の動きに合わせ、アリアドナの首が傾く。人の骨格が持つ可動域では許されぬ動きだ。

 アリアドナの身体は、その意思一つで保たせ、動かしている。そうでなければ、最早指一つ動かせないほどに、その身はどうしようもなくなっている。


「次へと巡らず変質し続ける魂が、星の狭間に埋もれてしまった。それは砂浜から一粒の砂を探すようなものです。神の御業を使ったとて、まずは対象を正しく把握できていなければ…………互いに互いを呼んでいなければ、難しいでしょう」


 全ての元凶を倒すぞと、意気込みながら王都へ戻ったつもりはない。あの村でアリアドナの過去を見たときから、少しだけ、こうなると思っていた。

 アリアドナの目的が、愛した人の蘇生か、愛した人を殺した人間達への復讐か。もしくはその両方であった場合、比重はどちらが重いのか。

 冷水に浮かびながら、考えた。アリアドナの言動を思い出しながら、考え続けた。

 北の地での手出しを受け、自分の考えに少し自信がなくなったけれど、王都へ戻って確信した。

 あまりに静かな光景に、私はアリアドナの終わりを知ったのだ。

 私達が何もせずとも、いずれアリアドナは終わっただろう。悲願達成までの長い歳月に比べれば、あまりに呆気ない自滅によって。

 しかしそれは、今日明日の話ではなかっただろう。

 いずれ終わる。そんな緩慢ないつかは、到底待てなかったけれど。

 だから、彼女が終わると分かっていても、私は今日ここへ到達しただろう。

 私の前には、全てを懸けた夢が揺らいだ絶望に座り込む、一人の女がいる。

彼女は私の自壊を望み、その為に策略を続け、数多の死を無残に弄んだ。

 そんな彼女の自滅を、どういう思いで見つめればいいのか。


 一人の女の願いが砕けようとしている。

 一人の大罪人が滅びようとしている。


 罪深き大罪人を前にして。

 その生全てを虐げられた女を前にして。

 かつてのハデルイ神は、なんと言ったのだろう。

 あの優しい神はきっと、アリアドナさえ救おうとしたはずだ。そうして、最早手はなしと判断を下した後も、あえて傷つけるような真似はしなかっただろう。

 アリアドナは人を憎んだ。神が愛した人であることを放棄した。


「あの人に、会いたい」


 されど、その根幹は人だ。


 会いたい会いたい会いたい。

 愛した人にもう一度。

 仮令この身が滅びても。


 許せない。

 愛した人を殺した奴らを、殺し尽くしたい。

 仮令この身が滅びても。


 一つの身しか持たぬ存在で在りながら、譲れない二つの願いを抱く。愛も憎悪も諦め切れず、その身を燃やしてひた走る。

 結局の所、彼女はどこまでも人だった。

 人でしか、なかったのだ。

 愛と憎悪を燃料にその身と他者を燃やす存在など、人間でしか有り得ないのだから。

 その身体は、最早残滓。抜け殻とすら表現できない、正真正銘の表皮だ。皮としての機能しか残っていない。

 ……故に、私には彼女の魂をとどめることはできない。


「もうこの世のどこにもいないあの人に、会いたいの」


 悲痛な嘆きを呟いた後、アリアドナの表情はがらりと一変する。


「どうして…………あの獣共に殺されたあの人がこの世から弾かれて、他の人間が。たただのうのうと生きていき、他へ不平不満を撒き散らすばかりで自身は何の犠牲も払わない人間共が、どうして…………まだ、まだ足りない。あの人が受けた苦痛の一欠片でさえ、まだ人間共に返せていないのにっ」


 アリアドナの眼球から、黒く粘ついた液体が凄まじい速度で溢れ出す。


「お前から鍵を取り戻し、わたくしは完全なる神となる」

「アリアドナ、もうやめなさい」

「わたくしはまだ、神となったことがありません。平気、平気よ。何百年も経ったのよ。今更少し延びたくらいで、変わりはしない…………必ずあの人を見つけ出し、癒やしてみせる。そうしてこの国を、穏やかなあの人が心地よく暮らせる場所へ……誰も、もう二度とあの人を害すものが存在しない国へと変えて、そして、そうして……」


 二つの眼球。数多の命が持つその特徴が、こんなにも穢れに満ちた力に沈むことがあるのか。呆然としてしまうほどに、その光景は穢れの象徴だった。

 アリアドナの眼球から黒い液体が音を立てて溢れ出すと同時に、エーレが膜を張った。それにより、黒の液体は私達を避けて広がっていく。

 けれど、止まらない。白だけが広がっていた世界を、黒が侵食していく。

 膜と接触している黒は、激しい音を発しながら煙を立てた。まるで熱した鉄板に落とされた水のような音を発している。

 この黒は瘴気の塊だ。明らかに身体の質量を超えても、一向に勢いが弱まる気配はない。

 対するエーレの炎は、私を通して使う私の炎。浄化が混ざっているからこそ耐えられているのだ。通常の結界では、とうに破られていただろう。


「人形、鍵を、鍵を寄越しなさい――返せ! それはあの人のための鍵だ!」

あの人と生きるための鍵だ!


 瞳だけではなく、呼気に至るまで瘴気を発生させているアリアドナの髪が、いつの間にか金色へと戻っていた。

 しかし、戻ってもエイネ・ロイアーの色だ。アリアドナが生まれ持った色まで戻れていない。

 それは、彼女がアリアドナとして過ごした時間があまりに短すぎたからかもしれない。


 白と黒の境目で大きく膨れ上がった金色は、まるで雲間から覗く太陽のようだ。

 あれは夜明け? それとも沈みながら夜を呼ぶ光?

 日の巡りを思い出す光景に、ここに来てから過ぎた時間が気になった。

 この場と命が生きる世界とでは、時の流れが違う。このままここで問答していては、年単位の時が経過してしまっていても不思議ではなかった。

 ずっとアリアドナを留められていれば、少なくともこれ以上の災厄がアデウスを襲うことはない。

 それに、アデウスは強い。ルウィも残っている。アリアドナさえ押さえていられれば、あの国はどうとでもやっていけるだろう。

 ただ、戻った際に見知った人達が歴史となった世界に、私が耐えられるかどうかの話だ。



「……アリアドナ。あなたの過去は、不憫に思います。愛する人を取り戻せる可能性は、仮令世界の崩壊を天秤に懸けたとて抗いがたき誘惑でしょう。そんな存在を殺した人間達への復讐もまた、同様に」


 聖女としての私は、彼女の行いを正しいと言うわけにはいかない。けれど間違っていると断じることもできない。

 それでも。


「アリアドナ。アデウスの民があなたに何をしましたか。アデウスは、あなたの祖国があった場所を領土としたに過ぎません。あなたと同じ時代を生きた人間どころか、あなたを虐げた人間の末裔でもなく、あなたの祖国を滅ぼした国ですらない。アデウスの民は、あなたの祖国があった地で暮らす人間というだけではありませんか」


 アリアドナの愛する人を奪った人間も、彼女自身を虐げた人々も、彼女がその手で殺し尽くしている。

 アリアドナが虐げられた理由の一つとなった国は、既に滅ぼされ、その名を奪った国ですら失われた。

 彼女は自らを害し、愛する人を奪った人間を、その国ごと食らいつくした。本来、彼女が憎むべき対象は、とうの昔にこの世から失われている。


「過去の所業は、私が口を挟む領域ではないのでしょう。ですが、今この時代、この国であなたが行った所業は、見過ごすにはあまりに惨い。アリアドナ、現在のアデウスにおいて、あなたは悲しき復讐者などではない。ただの人殺しです」


 それだけは、どれだけ言葉と情を連ねても事実でしかなかった。







 不意に、気配を感じた。

 気配がする。命の、気配だ。


「――マリヴェル?」


 まさか、こんな場所に人がいるはずがない。けれど大樹を通じて紛れ込んでしまった人がいる可能性も、零ではない。

 反射的に顔を上げ、視線を巡らせてしまった。

 けれど、違う。命の気配の在処へ、弾かれたように視線を戻す。


「アリアドナ!」


 深く考えるより先に、私の手はアリアドナの顔面を掴んでいた。そして、アリアドナが大きく口を開ききる前に、私の神力をその身へと叩き込んだ。

 顔の半分が裏返らんばかりに開いた大きな口から、奇妙な音が響き渡る。

 虫の羽音のような、激しい耳鳴りのような。甲高くも震える音に鳥肌が走り、反射的に、空いた手を片耳に当てていた。

 脳を直接揺らす甲高い悲鳴が、私の腕を掴みアリアドナから引き剥がしたエーレによる炎の檻に遮られ、聞こえなくなった。


 私は、アリアドナの悲鳴と、咄嗟に加減なく放出した神力で揺れる脳を持て余す。頭を押さえながら、エーレの胸に背を預けた。

 呼吸も整わず、漏れ出た神力を押さえることも出来ない。それでも、未だ揺れる視界をなんとか巡らせて見た光景に、ぐしゃりと顔を歪めた。


「…………よく、気がついたな」


 エーレの声も、少し震えている。


「そうであればいいと、願っていましたから。ずっと……縋り付くように」


 私達の視線の先には、アリアドナを中心として六人の女性が横たわっている。私とベルナディアを除いた、聖女候補達だ。

 王都が落ちたあの日、大樹に呑まれた彼女達の行方がずっと気になっていた。

 王都の住人達は、その多くが石となった。けれど大樹発生の場である神殿と王城にいた人々は、石にはなっていないと考えていた。

 あの人々は、大樹に呑まれた。大樹は明確な意思を持って、中にいた人々を飲み込んでいったのだ。

 だから私は、王都に到着すると同時に気配を探した。この目を使い、大樹の根を辿り、大樹の中に命の気配はないかと必死に足掻いた。

 誰か生きてはいないかと。

 どこかに、誰か。

 あの人達を、見つけられないかと。

 あの人達がこの世に存在している可能性を、欠片でも、見つけられないかと。

 ずっと。

 探り、探し。

 探り、探し、探し探し探し探し探し探し探し探し探し探し探し探し探し探し探し探し探し探し探し探し。

 何も、見つけられず。


 それなのに、あの日神殿にいたはずのアーティ達がここにいる。いたのだ。





「生きて、いますか?」

「少し待て」


 私を支えている間、エーレは動かない。だから私は、まだふらつく自分を叱咤してエーレから離れた。

 エーレは炎の檻の中で動きを見せないアリアドナへちらりと視線をやった後、その周囲に倒れているポリアナ の前にしゃがみ込んだ。そして、その首筋と手首に指を当てた。


「…………生きてはいるようだ。だが、意識の有無は分からない」

「そうですか」


 ほっと胸を撫で下ろす。この場合の意識の有無とは、覚醒の有無ではない。彼女達が自身としての個を面に出せるか否かの話だ。

 それを確認するためには、彼女達を覚醒させるか、その奥深くに神力を通さなければならない。

 今はまだ、そんな繊細な作業を行う余裕がない。

 私は、彼女達の誰かにその個を移そうとしていたアリアドナへと、視線を戻した。

 同時に炎の檻が激しく燃え上がり、破裂した。咄嗟にしゃがみ込み、傍にいたアーティの上に覆い被さる。

 ついで何かが落下した、激しい音が聞こえてきた。

 危惧していた熱は一切感じず、ぱっと顔を上げる。アーティ達の中心にあった炎の檻が消えていた。

 慌てて視線を巡らせると、少し離れた場所に倒れ込むアリアドナの姿があった。


「エーレ、何を」

「アリアドナの位置が悪かったからずらした」

「えぇ……」


 確かにあのままでは、アーティ達へ及ぶ被害を防ぐことは難しかっただろう。

 戦闘という面でも、未だアリアドナの眼孔から流れ落ちる穢れの影響も懸念される。

 だからその判断自体は助かるのだが、方法が手荒すぎる。まさか炎の檻を爆発させて、その勢いでアリアドナごと吹き飛ばすとは思わないではないか。


 エーレが彼女達の囲う結界を張っている間に、覆い被さりながら抱えていたアーティの頭をそっと下ろす。そして、改めてその顔を見つめる。

 顔にかかった髪を整えたアーティは、穏やかに眠っている。恐ろしいことなど何一つないかのように。

 きりっとしたまっすぐな瞳が閉じていると、随分幼い印象を受ける。すやすやと眠っていた顔が、ふにゃりと崩れた。


「……何か、いい夢を見ていますか?」


 だったら、いいのだ。それなら嬉しい。


「どうかもう少しだけ楽しい夢を見ていてください。そうして目覚めた暁には、今度は皆で楽しい日々を生きましょう」


 その額に唇を落とし、祈る。

 アーティは健やかな寝息でもって、その祈りを受けてくれた。







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