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忘却聖女  作者: 守野伊音
六章
111/120

111聖






「アリアドナ、あなたにしては投げやりなやり口ですね」


 積み重なる男の肉塊。見つからない鍵。

 焦れている、アリアドナ。

 私の動揺を誘いたければ、もっと陰惨な手口などいくらでも思いついただろうに。

 また一つ、男の肉塊が降る。形だけが積み重なり、収めるはずの中身を見つけられない空っぽの器達。


「聞きなさい、アリアドナ。あなたがその肉体へ収めるべき魂を見つけられない理由を、私は知っています」


 アリアドナの髪が私に纏わり付く。周囲と隔絶された視界は、檻の中を思い出させた。

 しかし私の身体を這い回る様子は、拘束しようとしているのか縋っているのか、分からない。

 遙か昔に死んだ人間を探し、星の中を彷徨った痕跡が、そこかしこに残っている。

 これだけ大それた事件を起こしておきながら、アリアドナの望みはただ一つ。

 かつて愛し愛された男に会いたい。

 ただ、それだけが叶わず、ここまで来た女。


「わたくしに情けでもかけようというの? それとも何か企んでいるの? それとも――……お前の男を見せびらかしに来たのでしょうか」


 ねめつけるような視線が、エーレを撫でる。


「ハデルイは、本当に余計な真似ばかり。けれど……ああ、どうだっていいわ。何だって変わりはしない。お前の中の鍵を得れば、わたくしは神となる。全てはその後、何の制約もないままあの人を探し続ければいいのだから」


 何十年。何百年 かかっても構わないのだろう。現にこの舞台を整えるまでに、アリアドナはそれだけの時間をかけている。


「いいえ、不可能です」


 私とて死者の蘇生を試みたことはない。けれど、分かる。

 この目で見れば、分かるのだ。


 アリアドナの目を覗き込む。その目は白みがかっている。愛する人を探す為、星の中を血眼になって探し続けたのだろう。

 星を見つめすぎて白に染まり始めたその瞳は、今にも凍えてしまいそうな温度に満ちている。


「人は、声から忘れていくのですよ」


 命が凍り付く宙のような冷たさが、アリアドナの瞳に咲いた。


「…………軽んじられたものですね。わたくしが、あの人の声を忘れると?」

「それもあるでしょう。ですが、私が対象としたのはあなたではありません」


 ごとりと転がり落ちた肉塊へ視線を向けた私の首に、アリアドナの指が食い込んだ。私の胸に挿していた腕が引き抜かれ、私の首を掴んでいる。

 いつ引き抜いたかすら分からなかった。

 私の首に爪を食い込ませているアリアドナの腕を、エーレが掴んでいた。そのエーレの腕を私が掴んでいる。

 嫌な三竦みだなと思ったが、嫌じゃない三竦みとは何だろうと疑問が浮かぶ。

 難しい話は後で考えようと、私に触れそうなほど顔面を近づけたアリアドナの口から覗く牙を見て、思った。

 意外と犬歯が大きい。これは生前からそうなのか、それとも今この時、この形状となってしまったのか。


「お前如きがあの人を侮辱するなど、許されようはずもない。万死に値するその愚行、どう購うつもりだ」


 私の首に爪をねじ込むその口元からは、噛み殺しきれない怒りが発生させた唸り声が、瘴気と共に漏れ出している。


「侮辱でも、まして意趣返しでもありません。アリアドナ、これは、人の持つ限界の話です」


 アリアドナがそのまま私の首を締め上げにかかっていれば、喋ることもままならなかっただろう。

 だが、どちらかといえば指で串刺しにしようとしているおかげで、締め上げられるよりは会話の妨げにならない。


「数年、十数年。そのくらいならば、問題はなかったでしょう。情と記憶で成り立つ範囲です。けれど、生ある人間同士とて、数十年も経てば互いの声を忘れ始める。それは人への侮辱でしょうか? いいえ、いいえ、アリアドナ。それは、人の限界です。そして、命が命であるために必要な忘却です」


 数十年必要としなかった記憶を抱えていられるほど、人はなだらかに生きられない。人の生は、慌ただしいのだ。


 未だ溢れ続ける大量の肉塊。作った器に収めようとした男の魂は、アリアドナに応えない。

 その理由は、アリアドナが作り続ける器が、その身にそぐわないからではない。

 アリアドナの声に、気づけないからだ。


「肉体から離れた魂が、個を維持できる確率は酷く低い。そんな状態で、数十年どころか百年を超えてもまだ遠い…………アリアドナ、本当はもう、分かっているのではないですか。人の身に、その歳月は長すぎますよ」


 澄んだ音と、何かが潰れるような音が同時に響いた。

 瑠璃硝子に罅が入ったような音と、雪を踏み潰したような。

 何かが終わった、そんな音。


 私は黙って、アリアドナの顔に入った罅と、自身の首が砕ける音を聞いていた。








「マリヴェル!」

「問題ありません」


 アリアドナから漏れ出した神力と、私から漏れ出した神力が私の首でぶつかり合った結果、私の首元の材質がおかしなことになっている。

 音で判断するしかないが、縦に裂けやすい霜柱のような素材になっていそうだ。

 そこだけは少し困るが、損傷自体は問題ない。折れたりちぎれたりしていなければ修復可能だ。


「アリアドナ、私は星の中であなたの過去を見ました。あなたが愛した人の顔も知りました…………アリアドナ、落ち着いて聞きなさい。私が見た彼の姿と、この場に積み重なっている器には、どれも差違があります」


 私の首に掛かった力が強くなる。しかし、その指は震えていた。


「…………彼の声と姿を己が内に留めきれなかったのは、あなたも同じです」


 だから、焦っていたのだろう。まだ完全なる神に至れていない状態でも、何かをせずにはいられなかったほど。

 自らの記憶が思い出の詳細を留めきれず、自身の内から感情以外が散り始めていたことを自覚していたから、焦ったのだ。

 己が身を、維持できなかったほど。


「…………アリアドナ、あなた、気がついていますか?」

「黙れ、人形」

「アリアドナ」


 私の前にはアリアドナがいる。私の首を掴んだアリアドナの顔は、はっきり見える。


「あなたの姿も、私が見た過去と差違が出ています」


 私の前にいる女は、見知らぬ顔をしていた。





 女の顔は、私が知っている誰のものでもなかった。酷く見慣れたエイネ・ロイアーのものでも、元となったはずのアリアドナですらない。髪の色も声音も。

何もかもが、混ざっている。

 この空間に入ったときからそうだった。アリアドナは、気づいていなかったようだが。

 私の言葉受けたアリアドナは、私の首から弾かれたように離した手で、自らの顔を覆った。


 過去に形作ってきた歴代聖女の身体が混ざり、己を保てていないだけではない。先程見た意外と大きな犬歯は……人の形すら、保ち方を忘れ始めているのかもしれない。

 指が引き抜かれた拍子に飛び散った血が、白い水面に波紋を残す。私の赤が混ざった箇所だけ淡い色と成り、その場が固定された。

 揺れなくなった水面を見ながら首を押さえていると、次なる手が私の首を激しく掴む。


「見せろ!」

「平気ですってば。ちょっと血が出ているだけです。平気平気」

「お前は今後二度と平気という言葉を口にするな」

「平気を封じられるとなかなかに過ごしづらいのでは?」


 凄まじい勢いで睨まれて、思わず口を噤む。エーレは引っ張った袖口を私の首に当てたまま、上着を脱ごうとしていた。そのまま私の首に巻き付けて固定するつもりなのだろう。

 私はエーレの手に自らの掌を重ね、それを止めた。


「確かにこれは通常の負傷とは異なるものですが、場所も場所ですからすぐに治ります。ほら、修復が始まっているでしょう?」


 私からは見えないが、手で触れている箇所から穴が塞がっていく感触 が伝わってくる。

 これは地上とは違う星の内で、神力同士が重なり合った結果だ。音が重なって、窓硝子が割れたようなものである。

 そして星の内は、神々にとってはその身に近しい場所だ。この場にいるだけで、多少なりとも治癒の効果もある。

 だから、私は大丈夫だ。


「流石にこの身の存続に関わる負傷になりそうだったら、私も暴れますし、死に物狂いで抵抗します。私にはあなたとルウィの命が紐付けられているのですから当然です。それに私は……あなたに私を失わせたくはありません」

「…………ここに来て、急に正解を叩き出し始めたな、お前」


 素直に驚いた顔をした後に続いたのは、呆れ顔だった。

 エーレの機微は相変わらずよく分からない。それでも、今一度私の首を確認した後、ふんっと鼻を鳴らして手を下ろした様子を見るに、納得してくれたのだろう。


「これから少しずつ、俺に信じさせてみろ」

「あ、はい」

「軽い」


 文句は言いながらも、私の斜め後ろに控えたエーレに感謝する。先ほどまでエーレが触っていた首元を、自分の指でなぞる。

 まだ多少穴が空いている場所もあるけれど、血は止まっているし、修復は続いている。

 これなら次に攻撃を受けたとしても、一撃で折れることはなさそうだ。

 そもそも今の私は、首が取れたくらいで壊れるのだろうか。余裕が出来たら色々と把握しておきたい。


 私がそんなことを考えている間も、アリアドナはずっと動きを止めていた。両手で顔を覆ったまま、声を発することもない。

 その両足は未だ空中に揺れたまま、地に着くことはなかった。


「アリアドナ」


 ぴくりと、アリアドナの肩が揺れた。

 私の声に反応したのか、己が名に反応したのかは分からないが、私の声は届いている。

 水面に溶け込んだ、アリアドナの髪が揺れていた。

 その髪が、揺れている。 エイネ・ロイアーの色でも、アリアドナ自身の色でもない髪が、揺れる。


「――――――あなた、どうしてこたえてくれないの」


 知らない女の声がする。

 きっと、その顔も再び変わっているのだろう。それでもアリアドナの意識は、かつて失った愛する人へと向き続けていた。



 アリアドナが、そして彼女の愛した人が薄情なのではない。病でもなければ、芯が、努力が足りないわけでもない。

 まして、愛情が足りないことなど有り得ない。

 ならば、何故か。

 何故、アリアドナは愛した男の形を見失い、愛した男は彼女に応えないのか。


「……命の核は、数百年もの間、個を留め続けられる構造をしていないのです」


 アリアドナが愛した人は、未だ星の狭間で彼女を待っているのだろう。アリアドナが星の中に彼を見つけられていないのがその証左だ。

 彼の核がありのまま巡っていれば、アリアドナは必ず気づけただろう。彼女が持つ神の力があれば、その程度は造作もない。

 けれど、アリアドナは彼を見失っている。それは彼の魂が巡らず停滞したまま、その核が変質した事実を示している。


 アリアドナの背後では、今尚凄まじい速度で男の肉塊が増え続けている。男の姿形は、全てに微妙な差違が現われていた。

 必死に記憶を探っているのだろう。幾度となく思い返し磨り減った記憶を、そうと自覚しながら再生し続け、更に摩耗していく。

 失われていく正確性に焦り、焦りが生み出した形が記憶に残り、原型が損なわれていく。

 違うのだ。

 どこか違うのだと。

 焦れば焦るほどに、元の形が分からなくなる。そうして、愛する人を見失った己への失望と怒りから、更なる混乱を呼ぶ。


 きっと、自覚はあったのだ。

 だから、私という鍵を待てずに試行を始め、のめり込んだ。突如癇癪を破裂させたかの如く私を追ったかと思えば、私が王都へ足を踏み入れても気づかぬほど。

泥沼に、はまっていた。

 悲願達成を目前にした試行の度に、自分の形すら分からなくなるほどの絶望を繰り返したアリアドナの心中は、誰にも分からない。


「………………わたくしの何が……何が足りなかったと、お前は言うの」

「足りなかったのではありません。あなたは、神でさえ成せない奇跡を成さんと、充分過ぎるほど全てを整えました。……けれど、時が経ちすぎた…………これは、ただそれだけのことです」


 不備や手落ちという話ではない。それよりももっと単純でいて明確な理由だ。

 そこに悪意や謀など存在しない。それゆえ残酷で、どうしようもない。

 氷は時と熱で溶ける、夜は朝になれば過ぎ去る。

 これは、そういう類いの話だ。


 顔を上げた女の顔は、またも知らないものだった。瞬きの間にアリアドナの顔が変わる。知らない顔知らない顔知らない顔見慣れた顔知らない顔。

 沢山の知らない顔の合間に、見慣れた顔に似た何かが時折挟まる。その都度、隣に立つエーレから熱が立ち上る。


「アリアドナ……人でも神でもない、形を固定しきれていない魂の状態で、何度も私を模倣するからですよ……」


 アリアドナの顔には、時折私に似た顔と色が混ざり込んでいた。

 幾度も幾度も、私を模した人形を作り上げていたアリアドナは、一度私の情報を自らの中に組み込んだのだろう。

 そうして、意識して私を模した。哀れな女達の遺体を使い、幾度も私を創り出した。

 幾度も幾度も、大量に。

 自らが確固たるものとして固定されていない状態で、他者を模倣すればどうなるか。

 ただでさえ、この数百年の間、違う人間とし幾度も生を繰り返していた身だ。

 その終に自らの身体をそんな風に扱えば、己を見失わないはずがない。己が身の保全に注力していなければ尚更、迎えるべくして迎えた末路だ。

 自分より他者を愛した女は、完全に自身の形を見失っていた。



「――――あなた、どこにいるの。あなた、あいたい。あなた、ねえ、あなた。やっと、やっとあなたにあえるのに。それなのに、あなた、ねえ、あなた。どこに――――――――人形、寄越せ、返せ! お前がわたくしから盗んだそれは、あの人を取り戻す力を得る為のっ――――あなた、あな、た――――――――――人形、お前はもう聖女などではありませんよ。元より作られただけの玩具が、命を模しただけの物。それが飯事のように聖女を名乗っていただけ。けれど、最早それすらも許されない。だってお前は、人を食った化け物ですもの」


 潰れたしゃがれ声から澄んだ張りのある少女の声へと、何の境目もなくころころと声が入れ替わる。喋り方も、顔つきも、体つきさえ。


「お前、自壊していくその身を、人を食って維持したの? 凄いわ。賢いのね、人形。今日からお前は化け物と呼びましょう。人食い、人殺し、なんて汚らわしい聖女かしら」

「アリアドナ」

「探しているの。探しています。あの人を、あなたを探しているの。ねえ、あなた、どこにいるの? ようやく、ようやくあなたを取り戻せる力を手に入れたのに、どうして? 空を探したわ。地を探したわ。宙を、星の中だって探したのに、どうしてあなた、どこにもいないの? 人間は、どこにでもいるのに。空にも地にも、宙にも星にも、どこにだって生者も死者も溢れているのに。どうして? どうしてあなた、あなただけが、どこにもいないの――――――やはり、神に近しいだけでは不可能ならば――――あなた、神に、アリアドナは神になります。だから、だから、あなた、どうか戻ってきてください――――――――お前、お前が最後の障害だ。お前さえ現われなければ、わたくしはとうに神に、お前、人食いが、人食い如きが、わたくしの力を、よくも」

「…………アリアドナ」


 アリアドナの顔は変わり続け、年齢も声も言葉ごとに変わっていく。

 変わらないのは、想いだけ。

 アリアドナの魂は、幾度もの変容と転用を繰り返し、摩耗した。磨り減り、混ざり、朽ちようとしている。

 それを何百年もの間、気力だけで持たせていたに過ぎないのだ。

 そもそも、人が神の力を、それも十二神もの力を身の内に収めるなど、土台無理なことだった。

 不可能に近い奇跡を成し遂げたのは、ひとえにアリアドナの強い意思一つ。

 とてつもない負荷を、不可能を。その意思一つで繋ぎ止め、ねじ伏せてきた。

 それなのに、アリアドナは気を抜いた。

 私の自壊を見た瞬間、彼女は長年の悲願がようやく叶うとの確信を持ってしまったのだ。

 何百年もの間、凄まじい負荷を気力一つで成り立たせてきた彼女が、安堵すればどうなるか。

 張り詰めていた糸が。


 ぶつりと。







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