110聖
アリアドナは、私達が王都から消えた後、完全に王都を掌握した。
内部の人間は逃さず備蓄とし、されど対処不要とするため外部の人間は受け入れず。何一つ己の行動を妨げる存在のいない場所を作り上げた。
数百年の時を経て、ようやく手に入れた星の中。
そんな場所で、神となるべく最後の鍵が手に入っていないにも関わらず、待ちきれず取りかかってしまうほどに希った全ての始まり。
愛した人に会いたい。
その一心で、数百年の時を経てここまで辿り着いた女がアリアドナだ。
神を喰らい、人であることを放棄し、数えきれぬ命を潰えさせ。そうしてここまで到達した女を、愚かと断じることは出来ない。
私とて、エーレが蘇る可能性を見つけたのならば、縋ってしまった可能性を否定できない。
私にとって、いつだってエーレが全てではなかった。
大切な人は沢山いる。世界を与えてくれた人も、共に地獄へ落ちていける人も、私という個の決定権を持っている御方も、別にいた。
こうして連ねれば、私の薄情さが際立つ。私には大切な存在が多すぎる。
あなただけ。
私はそう言えない。
あなただけの為に生きるとは、口が裂けても言えないのだ。
それどころか、私のために人としての生き方を捨てさせてしまった。
けれど、それでも、エーレを蘇らせる方法があると知れば、犯す禁忌を躊躇うことが出来たのか。とてもではないが、自信などなかった。
アリアドナにとって、彼は全てだった。
アリアドナの命としての尊厳を尊重する唯一だった。
そんな彼を失った。
それもたまさかに起こった事件ではなく、故意の、きっと悪意ですらなかった謀によって。
命の禁忌を犯し、全てを巻き込み贄として、それでも止まらなかったアリアドナを、私はきっと責められない。
エーレを全てに出来なかった私でさえ、堕ちたのだ。そんな私が、どんな権利を盾にアリアドナを責めるというのだろう。
愛した人を取り戻さんと願い、愛した人を奪った相手へ復讐せんと行動した彼女を責めるつもりはない。私は責める権利など持ち得ない。
責めはしない。けれどそれは、彼女の願いを阻まない理由にはならない。
そうして、その過程で他者を犠牲にしたその行為を、仕様がないと認可する理由にもなり得ないのだ。
私の手は、隣に立つエーレの右手を掴んでいる。掴んだ手が熱い。
エーレは今、アリアドナを迎撃しないよう必死に耐えてくれている。私も、エーレを殺した相手にこの距離を許した現実に、胸が凍り付きそうだ。
憎しみだけでは動けない。
恋しさだけでは呪えない。
愛しさだけでは失えない。
私達は神殿のものなれば。私達の背にいる人々を理由に思い止まれる。
それが、それだけが。
アリアドナと私の違いだった。
「あなたの願いは、仮令私を破壊し、鍵を取り出してなお叶いはしない。それは神であっても実現不可能な禁忌です。死者の蘇生は罷り成らない。精々、用意した器に魂を押し込め、崩壊しきるまでの間、愛でる程度が限度でしょう」
アリアドナは鍵の回収を待ちきれず、愛した男の蘇生を試みたのだろう。その結果が、この肉塊の山だ。
これは魂を失った遺体ではない。始まりから中身のない空っぽの肉が積み重なっているだけだ。
「それすらも、あなたが愛した男の形をしているか怪しい。死者の蘇生が禁忌であるのは、不可能だからです。死者は過去です。そして今を生きている以上、神ですら過去には触れない。過去の改竄は許されない。故に、死者の蘇生は不可能です」
中身が伴っていなくとも分かる優しい顔立ちをした男の肉塊は、今この時も増殖し続けている。
肉塊は音もなく白から湧きだし、降り注ぐ。
王都を制圧した後、アリアドナが試行した数だけ男の肉塊が現われる。一体いつまで続くのか。
アリアドナの願いが叶わなかった証左が、延々と積み重なっていく。
何十、何百、何千。
この短期間に、一体どれだけの回数を重ねたのか。肉塊の数は、そのままアリアドナの願いの数だった。
肉塊を見つめる。肉塊の原材料は、どうやら人ではないようで、密やかに胸を撫で下ろす。
これだけの肉塊を作り出す原材料に人を使っていては、王都中の人間を組み合わせても足りなくなるのはすぐだろう。
それでも、材料が人ではなくても、禁忌に触れ続けていることに変わりはない。
アリアドナの呼気から漏れ出した瘴気は、視界でも認識できるほどだ。
実体を以てこの身に纏わり付いている。そう錯覚するほどに、怨嗟に塗れた呼気は重く粘つき、凄まじい穢れより生み出されていた。
ただ呼吸するだけでこの瘴気。あの身体の中がどうなっているか、考えなくても分かった。
「神の力を得て逆上せあがったか。人形風情がよく囀ること」
「神は私に、囀りがための機能を下さいましたので。けれどアリアドナ、あなたは己が身以上の願いを欲し、他者を害しました。願いも祈りも抱くのは当然でしょう。けれど、それを他者に強いてはいけなかった。己が望みの為、他者に犠牲を強いてはならない。それは、あなたが民へ求めてきた倫理観であり戒律の一つでしょう」
「己が望みのため、他者に犠牲を強いたのは、人間が先でしょう?」
「だから同じことをしてもいいと? …………その理論自体に物申したい箇所は多々ありますが、それはあなたの愛する人を殺した人々の猿真似となりませんか?」
そこは大丈夫なのだろうか。
対象が属している種族ごと憎むほど許せない相手と、同じ行動をしている自分は許せるのだろうか。
しかも自身の行動を真似されても腸が煮えくりかえると思うのだが、自身が後発となってその行動を起こした場合、憎んだ相手の模倣となりかねない行動に対し、腸はどう対応するのだろう。
純粋に浮かんだ疑問だったのだが、ふと気配を感じて視線だけを隣へ向ければ、エーレがこの場にそぐわない表情を浮かべていた。
「……え? 何ですか?」
「人のことは止めておきながら、自分は盛大に煽るなと思っただけだ」
煽ったつもりはない。
けれど、酷くご満悦なエーレがまるで悪人のように笑っている様子を見るに、それに近しい行為をしてしまったのだろう。
視線を戻した先で、アリアドナは私の顔を覗き込んだままにこりと微笑む。
「流石、ハデルイ神が創りしがらくた。生みの親によく似て美しいこと」
アリアドナの髪が大きく翻る。風もないこの場所で未だ両足は地につかぬまま、彼女は揺れ続けている。
その髪は確かに白へ溶け込んでいるが、身体を支えているようには見えない。
「いずれの神も本当に美しかった。まるで夜空を溶かし、形にしたかのよう。人の形をしていたのならば、きっと目が潰れるほど容姿端麗な姿だったのでしょうね」
これまで、人の姿をした神は存在しなかった。器が整わず、未だお休みいただいている幼き神のみが、人の形を以てお生まれになろうとしている。
アリアドナはうっとりと夢見るような表情を浮かべている。しかしその瞳は、新月の夜闇を写し取ったかのように真っ黒だ。
「あれらは、美しいだけの無意味な観賞用。何を救うでもなく、ただただ敬われるを当然とし、下界を見物し、時に管理する。ただそれだけでありながら、自らは善を為したと思いたい、偽善者ども。ああ、まるで人のようね。人の近くに漂いすぎて、染まってしまったのかしら」
「己を救わなかった他者の善を、偽善と罵るのはおやめください。神であれ人であれ、他者はあなたの為に存在するわけではありません。他者の善があなたにとっての最善ではなかった。ただそれだけで他者を無意味と定義するは、それこそが人の傲慢でしょう」
こうして言葉を交わしている間にも、アリアドナの背後には男の肉塊が積み重なっていく。
本当に、どれほど再会を希ったのか。今なお、願っているのか。
「人形。わたくしを人と同等に扱うなど、不敬が過ぎますよ。……ああ、けれど許しましょう」
それまで身体の横に垂れ下がっていたアリアドナの腕がゆらりと持ち上がり、私の胸へと触れる。
私の制止がなければ、エーレは燃え上がっていただろう。掴んだエーレの腕は、既に炎に近しい温度を宿していた。
アリアドナの手は、ゆっくりと私の胸へ埋まっていく。不思議と痛みはなく、流血も見られない。
痛みはともかく流血に関しては、私の肉体に流血する機能が残っているか否かが不明のため、アリアドナの所為なの自分の所為なのかが分からない。
後で検証しておかなければ。
「処分されるがらくたを責めたところで、詮無きことですからね」
後でがあればの話だが。
アリアドナの指が、私の肉の中に潜り込んでいく。肉に突き刺さっているはずなのに、まるで水面に手を差し入れるかのように沈んでいき、肉がかき分けられる感触すらない。
痛みは勿論、違和感すらないまま、ついにアリアドナの掌全てが私の胸へと埋まった。
アリアドナの腕が、私の胸から生えている。
私を殺傷するつもりなら、そのまま貫通させれば済んだことだ。だが、あくまで用があるのは私の身の内に存在する鍵である。
私は腕を通じてアリアドナと繋がった自分の胸を、不思議な気持ちで見つめた。痛みを伴わない損壊が、一番不思議なのだ。
そういえば、私は廃棄が正しき処理である人形としてこの世に創り出されたのに、ハデルイ神はどうして私に痛覚を備えたのだろう。
痛みは身体の損壊に気がつくための合図なので、全損を防ぐための対策だろうか。
そんなことを考えている間も、アリアドナの手は私の中で蠢いている。
「あの神はお前を今の形へと作り直した際、鍵を奥にしまい込んだのですね。あのまま美しく咲いていたのなら、探す必要などなかったというのに」
「あなたの為に咲いた花ではありませんので」
それをどうしようとハデルイ神の勝手だ。
私の胸に咲いていた宝玉の花は、アリアドナが数百年かけて用意した十二神の力をその身に馴染ませる鍵だった。
あんな形で表に出るとは思いもしなかったが、あれが出現した際の騒動を思い出して、懐かしさに嬉しくなる。
神官長が私の背を擦ってくれた、幸せな思い出が付随した記憶だ。
私がしみじみ懐かしんでいると、隣から唸り声が聞こえた。
「…………マリヴェル」
初めは、それが私の名前だとは気がつかなかった。それほどに、低く獰猛で、今にも相手を噛み殺さんとする殺気に満ちていた。
獣の唸り声のような声で、エーレが私を呼んだ。
今にも飛びかかってしまいそうな己を、必死に制しているのだと一目で分かる。私が止めていなかったら、宙をも焼く炎が膨れ上がっていただろう。
アリアドナは、ちらりとエーレへ視線を向けた。
「人形、お前はわたくしが憎くはないのしかしら」
お前の男を殺した、このわたくしが。
そう告げたアリアドナの声に、身の内の熱が歓喜の声を上げた。
エーレが発生させた炎ではない。この炎は、最初から私が抱いていた熱だ。思う存分憎悪できる発露の理由を得て、歓喜している。
「お前の神殿も、お前を育てた恩人達も、全てが全て、わたくしの手の中にて死に絶えました。愛するあの人を取り戻すためとはいえ、お前には酷いことをしてしまいましたね。お前が愛した人間達の最期を聞きたくはありませんか? わたくしだけが、お前にそれを語れるのです。お前も知りたいでしょう? お前の物が、どうやって死んでいったのか。教えてあげましょう。お前の為に語りましょう。蟻のように為す術なく潰されていったあの者達の死に様を、余すところなく。皆恐怖に泣き叫び、お前を罵りながら」
「――鍵が見つかりませんか?」
歌うように言葉を紡いでいたアリアドナは、ぴたりと動きを止め、口を噤む。
私の中を探るため、動き回っていた掌も動きを止めている。
「あの人達の死で私の動揺を誘ったところで、私の動揺は望めませんよ。何せ私は、最早神の器ではありませんので、感情の発生において禁じられたことなど何もない。今の私は、あなたを呪うも怒るも思うがままなのです」
愛と無関心以外の何かを抱いてはいけない。
その制約は、最早私の中には存在しない。私は元より人ではなく、神に至ることもなかった中途半端な存在だ。
アリアドナは私を人形と呼ぶし、発生は確かに人形だったが、もう人形ですらないのかもしれないと思うこともあるこの身だ。
なんと呼べばいいのかは自分でも分からないが、人でも神でもない私を制限する禁忌は、もうどこにも存在しない。
よって、禁忌だった憎悪を私が発露させたところで、現われるのはただただ人を憎悪した私だけである。そしてそれは、常なる私だ。
アリアドナが何を告げようと、私に影響を及ぼすことはない。何せ私は、ずっと神官長達のことを胸に燻らせたままここまで来た。
あの村で目覚めた瞬間から、ずっと。
ずっと、ずっと、ずっと、ずっと。ずっとずっとずっとずっとずっと。
ずっと。
一度知った憎悪は、この身が純然たる崩壊を以て終了するその時まで、私の中に燻り続けるだろう。
けれどこれは、どうにも出来ないと分かっている。
私が神官長をお父さんと呼んだ以上、私が神官長達を愛した以上。
どれだけ探そうと、神官長達の命がアデウスのどこにも見つけられない以上。
エーレの命が、ここで確かに潰えた以上。
私の中に憎悪は確定され、もう二度と失われることはない。
これより先は、これ以上膨れ上がらないよう押さえつけ、決して表に出ないよう自らを律し、見張り続けるを常とする私でしか有り得ない。
神々でさえ祟りに落ちた感情を、私如きが消火できるとは思っていない。憎悪はこのまま、永久に私を食い破ろうと目論むだろう。
だから、アリアドナが何を言おうと関係などないのだ。憎悪を押さえ込む努力なら、呼吸と同じほど当たり前に行い続けているのだから。
憎悪を消滅させられない未熟な私に出来ることは、それだけだった。
それが、私が神官長に出来る最初で最後の親孝行だ。私などを愛してくれた神官長に恥じない行いを。
一度は堕ちてしまったからこそ、もう二度と。
そう戒めながら、ここまで来た。
神官長達を思えば浮かび上がる、全ての感情を抑え込みながらここにいる。怒りに蓋をし、痛みを無視し、憎しみをねじ伏せ。
それでようやく、私は私としてここにいられるのだ。