11聖
エーレは少し青ざめた顔で、無意味に揺らした手で髪を耳にかけた。
「力のことは俺のほうで調べる。マリヴェル、お前は思い悩みすぎるな。神官長が仰っていたが、お前は悩むのがど下手だそうだ」
「悩み方に下手も上手もありますか!?」
「ひとまず、今晩ここに泊まれ」
私の言葉をしれっと無視したエーレは、懐から一枚の紙を取り出した。高い紙だと手触りで分かる。厚くてつるつるしていて、きっとまっ白なのだろう。大きさは名刺ほどだ。
薄暗い中では書かれた内容が見づらく、差し込んでくる月明かりを求めて若干彷徨い、ようやく読めた。紙の正体は、名刺といえば名刺だった。王都でも指折り高級宿、クリシュタのものだ。
「え、嫌ですよ」
「ここなら常時治癒師がいる」
「そりゃこれだけの高級宿ならそうでしょうけどね」
泊まるのは当然貴族ばかり、それも上位の貴族だけだ。何せ、王族御用達ですらある。男爵位程度では到底手が出せない高級宿。こんな場所、頼まれたって近寄りたくない。
「そういう宿はどうにも居心地が悪くて。それに空いていないでしょう」
上位の貴族だって半年待ちと言われている宿だったはずだ。そんな宿がこの騒ぎで空いているとは思えない。中途半端に高い宿は空きやすく、天井まで突き詰めた高級宿は部屋が満ちる。何故なのか理屈は知らないが、そういうものだ。
ぺっぺっと指を振ると、寒々しい無表情が返ってきた。冗談を挟まない本気に、これもまた面倒事であったと察する。
「最初からここに泊まらせてもよかったが、お前の言と意思を尊重して放逐した」
「放逐」
「放牧した結果がこれか、マリヴェル」
「放牧」
広々とした王都でのびのび育った活きのいい聖女です。
「このざまで、まさか現状維持できると思っていないだろうな」
「このざま。でも明日は朝から神殿ですよ? もうどこで寝ても変わらないじゃないですか。なんなら遅刻しないように神殿正門前で寝てもいいくらいで」
「いくらお前が粗雑で無様で無惨で不憫になるほどついていなくても、何故か不思議と当代聖女だ。安全な場所で寝泊まりさせる義務が俺にはある」
「精神的に抉るのはもっとやめません?」
それに神殿正門前は安全な範囲だと思うのだ。
しかし、これは何を言っても引かないなと判断し、しぶしぶ了承する。どうせ部屋は空いていないだろう。お坊ちゃまは断られたことがないのかもしれない。
このお坊ちゃまほどの家柄になると、宿のほうから泊まりにきてねのお伺いがたてられると聞く。
一応顔だけ出して、駄目でしたーで他の宿を探せばいい。
そう決めて、大人しくポケットに名刺を入れた私を、何故か冷え冷えとした瞳が見ていた。
「顔だけ出して宿を変えればいいと思っているだろう」
「人の脳内を掻っ捌く神力って神官になる必須条件なんですか?」
「日常生活においてろくでもないことしかしなかった当代聖女へのろくでもない信頼の証だ。クリシュタは予備として常に何部屋か空けてある。聖女候補であればそこが使用される。どちらにせよ、この紙切れがあれば最上階が開放される」
「うわ、お坊ちゃま~」
「その通りだが?」
神殿に来た頃は口数少ない大人しい子だったと聞くが、一体どうしてこんなに打たれ強くなったのだ。神殿はそんなにも過酷な場所だったのだろうか。打たれ強くなりすぎて王城で渡り合えるまでになってしまったではないか。
昔の大人しく可愛かったエーレを返してほしい。私はそれほど親しくなかったのでその恩恵をほとんど受けていないが。
「りょーかいしましたぁ」
「後で泊まったか確認するからな」
さらりと言われた言葉にぎょっとなる。
「ちょ、ちょっと待ってください! いくらお坊ちゃまでも、あんな宿の顧客名簿見られるはずが……え? 見られるんですか? やだ、貴族怖い……」
宿の信頼問題に関わるのではないだろうか。そんな事実知りたくなかった。
心持ち距離を取ってみたら、呆れた目が私を向いた。
「クリシュタは当家が管理している宿だ。顧客名簿が見られないはずがないだろう」
「え!?」
思わずここ一番の大声を出してしまった。
「紙切れは兄上から押しつけられたが、一応役立ったな。……マリヴェルお前、本当に気づいていなかったのか。名前が似ているだろう。クリシュタの名は、当時の当主が家名をもじって三秒で決めたんだ」
「い、言われてみれば……当時の当主様適当じゃありません?」
「そういう方だったらしい」
お坊ちゃまお坊ちゃまと思っていたが、これほどまでにお坊ちゃまだとは。
リシュタークは土地や山、それも鉱山銀山を大量に持っていると聞いていたが、まさか王都一の高級宿も持っていたとは。
「はぁー、お坊ちゃまだったんですねぇ」
「その上で出てくる感想がそれか」
呆れ顔から一転、何故か慈愛に満ちた顔が私を見ている。しかし、曲がりなりにも長い付き合いの私には分かる。これは慈愛に見えるが、そこに慈しみも、まして愛など籠められていない。ここにあるのは、こいつ馬鹿だな、ちょっとくらい優しくしてやろうという同情と哀れみと貴族の余裕である。
そして、今晩の宿が決定した事実を示す。
逃れられない事実を悟り、がっくり項垂れる。それでもエーレが推すのだから面倒事はないと信じよう。
「分かりましたよ……どうもありがとうございます」
ふてくされながら礼を伝えれば、まだ微妙に哀れみが残る顔で頷かれた。こっちのほうが妙に傷つくのだが何故だろう。
肌に張りつくようにぴったり巻かれている包帯と肌の境目を撫でながら、溜息を吐く。
「ところでエーレ、あなたが出てきたのは神官達の神力が揺らいでいるからですか?」
前置きもなしに切り出した問いに、エーレはすっと表情を落とした。消えた表情は、まるで王城を歩いているかのようだ。思考を読ませず、心を掴ませず、職務だけを果たす王城の神官。
「……聖女の安全が優先なのは本当だ」
「やだ、好きになっちゃう!」
「神力が揺れるという異常事態が起こっている。特に一般的な神力保有者ではなく、強い神力を持った人間が揺れやすいようだ。現在王都に人が集中している。酷い混乱が起こるのは避けたい。よって神官の不調を知られぬよう不調が出ていない高位の神官が代理を務め、場を治めている。幸い神力が強い人間は神官になっている場合が多く、また他の人間も神力の不調を感じればすぐ神殿へ相談に訪れているため囲いやすく、今のところ大きな混乱は起こっていない」
「私に惚れられるのそんなに嫌?」
懇切丁寧な説明をどうもありがとうございます傷ついた。
世間では神殿のために身も心も捧げた、人の心を持たぬ冷徹人間とまで言われる神官達。しかし一皮剥けば、腕まくりをしながら私を追いかけてくる神官達。膝までまくり、飛び蹴り喰らわせて逃亡を阻止する神官達。
何故だ。何故そのままの冷静な君でいてくれないのだ。何故世に思われているような冷徹部分を聖女へ向けてくるのだ。
「そりゃ私だって私に惚れられたらこの世の地獄かって思いますけどね」
「そこまでは言っていない」
「やだ、好き!」
「俺が一人息子だった場合、ここが末代となる覚悟を決めるだけだ」
「地獄扱いより酷くないですか?」
どっちもどっちと判断すべきか、こっちのほうが酷いと判断すべきか。
「あと、所長が普通に情報手に入れていましたが」
「…………………………あの方は例外とする」
腕を組み、私も背中を壁に預けた。
「あえて敵と言いますが、敵の狙いは私だと思いますか?」
気が付けばエーレも同じ体勢になっている。
「マリヴェル、心当たりは?」
「ありすぎて……」
「確かにな……」
まっ白な聖女服ですっころんで洗濯の手間を増やし、時間が迫っているのにいつまでも朝食をお代りし続け、見張り番が交代寸前に部屋をもぬけの殻にする。
うむ。恨まれて当然の所業である。
そのたび、山より高い神官服洗いの手伝いを、私のおやつ全部山分けを、夜勤当番の差し入れをと個々で罰が下ったが、やはりそれでは足りぬ罪の重さであったか。
エーレは、ふんっと鼻を鳴らした。
「だがお前個人への恨みなど、神官長直伝の技を使えばその場で晴らせる程度だ」
「罪が重すぎる」
妥当だと言い切った紫がかった青色の瞳が空を見上げる。建物の切れ目から見える夜空は、地上の光りによって星が隠されていた。
「これは当代聖女への攻撃だ」
「私も、そう思います」
「悪い知らせといい知らせがある」
「これ以上悪い知らせって何? 天でも墜ちましたか?」
空を見上げるエーレと向かい合い、私は視線を足元へと落とす。土を一枚隔て、丁寧にならされた地面でさえ靴越しに触れる贅沢。腐臭もしなければ、モノも転がっていない。
まるでこの世の幸いが詰まったかのような足元だ。
「書類だけでなく石版に刻まれた文字でさえ、お前の名が読めなくなっている」
「インクが滲んで? それとも視界が滲んで?」
「白紙に見える」
この世の幸いが詰まった足元を見下ろしながら、大声で笑い出したくなった。
なんとなく手持ち無沙汰になった掌が、気がつけば顔に触れていた。髪ごとすべてを握り潰す。きっちり巻いてもらった包帯が乱れ、ガーゼが落ちていくが構うことはできなかった。爪が傷口を抉り、痛みが滲む。それでも構わない。そのほうがよほどいい。
「やめろ」
静かな声が制止を求めるが、止めようが止めまいがどうでもいい。どうせなくなる傷だ。残ったところで命に別状はない。痛みを、私が覚えるだけだ。
失えと、言うのか。こんな失い方で、すべてをなくしてしまえと。私には当代聖女の資格がないから、だから、こんな失い方をしても仕方がないと。
神官長からもらったこの名でさえ、歴史に残してはなるものかと。そう定めた何物かが、この世に存在する。
「マリヴェル」
決して荒げず、根気よく紡がれていた声が私の名を呼んだ。その名を蔑ろにすることは、どうしたってできない。この名があるからこそ沸き立つ怒り、絶望、憎悪。
この名は、あの人がくれた最初の祈りだ。
怒りを原動力にするべきではない。大切なものがあるのなら、そうすべきではない。怒りを原動力にするが最後、それらすべて焼べなければ終わらなくなる。
だって私はまだ、夢の見方を忘れていない。
深く吸い込んだ息を吐く。
「石版は、平らに戻されましたか?」
神殿で使用される石版は特殊な石と術で作られる。そもそもが、強固な保存であり神に捧げる物として作られるのだ。文字を刻むことですら高位の神官でなくては不可能である。下位の神官では線を引くことすら叶わない。
文字を刻み終えた後は、最早何人たりとも手出しは不可能である。アデウス国を飲みこんだ術を使うほどの相手であっても、私の名前を削り取りたくば尋常ではない代償を支払うことになるだろう。
「触れれば削られた痕跡は分かる。だから、そこに文字はあるはずだ。文字が消されたわけじゃない。俺達が見えなくなっているんだ。お前が神殿に戻ったら石版を持ち出してくる。聖女の目でどう見えるか確認したい。できるなら聖女の力で確認をと思っていたが……」
「分かりました。倒れても安全な場所で使いましょう」
「その前に、誰に使う」
その問いには必要な情報のほとんどが籠められていない。だが、意味は通じた。
ゆっくりと剥がした掌には、べったりと血がついている。こんな状態で高級宿に行っていいものかと苦笑するしかない。
「神官長に」
私の力は対象に触れられなければ意味がない。今度は真っ当に、正当に、真っ正面から出向くのだ。あの人は、正当な手段を持って現れた人物から求められた握手を拒みはしないだろう。
死体を埋めたばかりの、死体と変わらないものの手を躊躇いなく握った人だから。
「……この力が揺らいでいるというのなら急がないと。できるなら、明日使うつもりです」
聖女となったあの日から、呼吸のようにここにあった力を失う日が来るのだろうか。
「回数が限られているなら、やっぱりえらい人から使わないとですしね!」
私はあの日、安堵した。
この力がある限り、ここを出ていかなくていいのだと。ずっと神官長と一緒にいられるのだと、嬉しくて恐ろしくて、叫び出しそうだった。




