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忘却聖女  作者: 守野伊音
六章
109/120

109聖








「…………本当に、よく鳴る自鳴琴だこと。お前は不良品ね。ひとりでに鳴り始める自鳴琴など、気味悪がられて捨てられるが世の道理。ああ、それとも、火によって清められるほうがお好みかしら」


 ゆるりと流された視線が、エーレを見る。

 胸の奥が嫌な音で軋む。

 エーレを殺した女がエーレを見た。その事実による、名状しがたい軋み。

 憎悪とも嫌悪感とも違う。

 これは、生き物が本能的に持つ死への恐怖に近い感情なのかもしれない。

 こんなものを抱えたまま、神やアリアドナと対峙していたエーレとルウィが信じられなかった。

 大声で泣き叫び、逃げたしてしまいたい。それほどに、耐え難い軋みだ。

 それなのにエーレは、今この時でさえ自らを殺した女の視線を前にして、何の動揺もなく私の隣に立っている。

 恐怖心をどこかに落としてきてしまったのだろうか。今すぐ拾ってきてほしい。

 恐怖とは、自らを脅かす存在を前にして身を守るため、命が本能に備えた防具だというのに、どうして装備していないのだ。

 死への恐怖は、全ての生き物が抱くべき義務だと、エーレは知らないのだろうか。


「自鳴琴、お前の廃棄方法はどちらがいいのかしら。同じ聖女という名を冠していた誼で選ばせてあげましょうね」

「どちらでも、人の望みがままに」


 けれど、あなたはもう、人ではないのでしょう?

 ふわりと、アリアドナは笑みを深める。

 とろけるような笑みの下、人への憎悪を抱き続けて数百年。未だ神へは至れていないが、最早人にも戻れない。

 それでも……人から逃れられない。

 この世で最も不安定な、魂の成れの果てだ。


「アリアドナ。一つ問いましょう」

「本当に、分を弁えぬ自鳴琴ね。ええ、けれど許しましょう。許しましょうね。無力で矮小、あまりに哀れなお前達が得られる救いなど、そうはありませんからね」


 これだけは、何があろうと聞いておかねばならない。


「トファ家と婚姻を結んだのは何故ですか」





 かつてただ一度だけ、人と婚姻関係を結び、子をなした聖女がいた。

 アーティの生家トファ家は、この女を家系に迎え入れている。けれどマレイン家に比べ、トファ家にアリアドナの痕跡は薄い。薄いどころか、ほとんど無いに等しい。

 だからこそトファ家は陰りなく、アーティは健やかに笑っている。

 十二回聖女を生きた中、アリアドナが人と結びついたのはただその一度だけ。

 その理由を、私は知らねばならなかった。


「答えなさい」


 私の問いが予想外だったのか、アリアドナは珍しくきょとんとした幼い表情を浮かべた。


「トファ家……?」


 それが、全ての答えだった。

 アリアドナは少し考えた後、「ああ」と声を上げた。


「わたくしから生まれた肉体ならば、わたくしの魂に馴染むかしらと試してみたの。次の器を探す手間が省けるかと思ったのだけれど、駄目ね。あんなにも時間をかけたのに、結局は何の意味もなさなかった。器は手間をかけて自ら選ぶしかないと確認しただけだったもの。その点、今の家はいいわ。あの子どもは、然程の手間をかけずともわたくしが馴染むのだから」

「…………そうですか」


 聖女として過ごした数百年間の内、ほんの一瞬でも人を愛した時間があったのならばと思った。

 それならば、まだ。まだ、誰かにとっての救いがあるのではと。

 けれど、アリアドナにとって、人はどこまでも道具に過ぎなかった。

 それはとても寂しく。

 虚しいことだった。

 



 トファ家は、人が人たり得る理由と礼節を知る清廉な家門だ。アリアドナの魂が馴染まなかった結果は、僥倖としか言い様がない。

 だからこそ、マレイン家の悲運が際立ってしまう。

 これは、トファ家が優れている、マレイン家が劣っているなどという問題ではない。災害に見舞われた被害者に、優劣など存在しない。

 マレイン家は、悪徳に染まった醜悪な家系だったからアリアドナに呑まれたのではない。

 災厄の手の届くところにいてしまった。

 その上で、偶然で成り立つ適合により命運が別れてしまったに過ぎないのだ。

 アリアドナに目をつけられてしまった悲運に、一家門、一人間が立ち向かえるはずがない。

 アリアドナという存在は、アデウスの民にとって心の支えであるエイネ・ロイアーも含め、アデウスに存在してはいけない存在だ。

 最早国という範疇にも収まらない。

 アデウスの聖女は、命にとっての害悪と成り果てた。長きに渡り、アデウスの聖女が災厄を撒き散らしてきた。

 アデウスの災いを振り払うは聖女の務め。

 アリアドナが人心掌握のため紡いだ戯言であったとしても、人はそれを信じ、そうして形作られてきたのがこの国だ。

 私は、アリアドナが定めた戒律の通り、アリアドナの道を阻む。最早アデウスに神はいない。ならば次点である聖女が出る。


 つまり、聖女には聖女をぶつける。

 それが道理だ。


「ところでアリアドナ、あなたの願いが叶う算段はつきましたか?」


 ぴくりと、アリアドナの眉が動く。


「私が王都に入っても気づかぬほど集中していたようですが、見つかりましたか?」


 ゆるりと持ち上げられた口角は穏やかな笑みを湛えていたのに、その瞳はどろりとした粘着質な激情を湛えている。


「聞こえませんでしたか? ならば今一度問いましょう」


 金の髪がゆらりと漂う。


「あなたが愛した男は、見つかりましたか?」


 彼女はもう、笑みを湛えてはいなかった。








 表情を形作る顔面の動き自体は、無に近い。けれど瞳だけは、いまにも破裂しそうな激情を湛えたまま、私を睨んでいる。

 私はいま初めて、彼女からの明確な殺意を受けた。

 これまでは私の中の鍵を取り出したいがための、作業的な殺意しか向けられてこなかったのだと改めて実感する。

 今までのあれは、殺意というよりは処分方法を検討しているだけに過ぎなかったのだろう。


「エーレ」


 アリアドナの殺気に、エーレが反応している。

 私の制止に、隣の熱が掻き消えた。不満そうな気配を醸し出してはいるものの、一応は聞き入れてくれるつもりらしい。

 よかった。力尽くの勝負は最終手段だ。


「アリアドナ。星の中で、あなたの過去を見ました」


 人の業と欲に満ちた、負の歴史が凝縮したかのような光景だった。

 アリアドナの選択は決して許されるものではないが、一概に彼女だけの罪とは言い難い。

 彼女が持つ人への憎悪は、正当だと言わざるを得ないほどに。

 しかしそれは、彼女を害した人間のみへの理解であり、今を生きる後世の人間には何ら関わりなきことだ。


「人形如きが、わたくしに同情を向けるつもりかしら…………どうしましょう」


 鈴のような声が震え、転がるように。


「これほどの屈辱はないわ」


 穏やかだった白の世界を、激しい亀裂が砕いた。

 黒い雷が幾本も走り、世界を割っていく。激しく靡くアリアドナの髪は帆のようであり、獲物を捕らえる蜘蛛の足のようでもあった。


「過去のあなたへ同情など致しません。同情されるべきは、初代から十三代に至るまで、いつの時代もろくな聖女を掲げられなかったアデウス国民ですので」


 その点に関しては、私も加害者の側である。

 アリアドナが怒りを抱いた箇所がどこなのかはどうでもいい。怒りや羞恥を起点に、隙を作り出したいわけではないのだ。

 それでは力任せの殴り合いのような争いが待っているだろう。だが、それではアデウスの損壊がとてつもないことになってしまう。

 よって出来る限り話し合いで解決したいのだから、怒りに我を忘れられては、困る。


「アリアドナ。神となってまで叶えたかったあなたの願いは、死者の再生ですね」


 突如、アリアドナを取り囲むようにして大量の肉塊が現われた。

 白から溢れ出したのか、降り注いだのか。初めからそこにあったのかすら分からない。

 けれど確かに、私達の前にそれは現われた。



 人の形をした肉塊が、山のように積み重なっている。そのどれもが同じ外見をしている。同じ人物を象ったのだろう。

 茶色の髪をした男だ。まだ年若い青年が、虚ろな目でごろりと転がり落ちてくる。絡まるように、他の数体も落ちてきた。

 その様は、かつて塵山から転がり落ちた私とよく似ていた。

 ゆらりとアリアドナが揺れる。ゆらゆらと、水中に揺れる水草のように長い金髪が揺れ、俯くアリアドナの顔を隠していた。

 次の瞬間、視界一杯に金色が広がった。

 瞬き一つの間で、私の目の前にアリアドナがいた。

 アリアドナの身体は、瞬き一つの間に移動した後も、漂うように揺れている。漂うアリアドナは、私に覆い被さり、私の視界にはアリアドナの金色しか見えない。

 触れるほど近くにあるアリアドナの呼気からは、神々の墓場で感じた瘴気が漏れ出ていた。




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― 新着の感想 ―
結婚した聖女!そういやいましたね!ナチュラルに伏線あったのか!⸜( •⌄• )⸝ 死者復活させたかったのね…
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