108聖
木の根は見慣れた場所の全てにあった。
無事な場所などどこにもない。建物を縫い、飲み込み、床を砕き、天井を貫き。
建物に木の根が絡みついているというよりは、建物が木の根に添えられている。
そんな状態だ。
ここは廃墟ではない。使用される期間が限定的な儀式の場でもない。
つい先日まで稼働していた神殿だ。
大勢の人間が働き、大勢の人間が訪れる場所。そして、大勢の人間が暮らす生活の場。
本や衣服、食器や箒。生活に根付いた道具があちらこちらに散らばり、土と埃をかぶっている。中には苔むした物もある。
王都中に降り注ぐ白が、ここには積もっていない。だがその分余計に、大樹に呑まれた物の様子がよく見えた。
苔の様子から見るに、誰一人としてこの場を歩かなかったのだろう。足跡は勿論、何一つとして動かされた形跡がない。様々な物が虫に食われた形跡すらないのは、命がこの場に立ち入っていない証明だ。
人気がなく、植物ですらアリアドナが生やした大樹と、それらから発生した苔だけが稼働する神殿内を、エーレと二人で歩く。
あんなにも水と森の香りが立ち上っていた神殿内は、何の匂いもしていない。香も、本も、インクも、何一つとして香らない。
苔が生えているのに水の気配がない。こんなにも苔むしているというのに、全てが乾燥している。
水の都として栄えたアデウス王都が、水路どころか命の血肉に至るまでの水を失う日が来るなど、誰が想像しただろう。
生まれ育った家が、こんなにも無残に損なわれる日が来るなど、考えたこともなかった。
私より先に皆がいなくなる日が来るなんて。
そんな今日、知りたくなかった。
ここにはアリアドナだけがある。
空も地も、命の一片に至るまで、根こそぎアリアドナに塗り替えられている。
大樹の根は、私とエーレが神殿の敷地内に足を踏み入れてから、どうにも騒がしい。
発光が激しくなったかと思えば突然収束し、再び光り始める。強い光の激しい点滅があったかと思えば、淡い光が緩慢な速度で点滅する。
そのどれもに法則性はない。けれど、揺らいでいる。定まっていない光は、そのままアリアドナの不安定さを現わしていた。
踏み出した足の下で、ぱきんと澄んだ音が鳴る。
しゃがみ込み、苔を取り除いた下から現われたのは、砕けたペンだった。
文字とは、人が人に伝える為にある。
そう教えてくれた神官長の言葉を思い出す。瞳の優しさも、笑みも、その体温も。
人が人に伝える為にある人が作りし知を、私に授けたくれた人。
砕けたペンをなぞり、目蓋を閉ざす。
立ち上がり、見上げるほどに大きな大樹の根へと触れる。
私が触れた場所から白い光が波紋のように発生し、全体へと広がっていく。
いくら歩いても、最後に神官長達と別れた場所までの道はないようだ。
ある程度歩いていれば、アリアドナが私を呼ぶと思っていた。けれど騒がしいのは大樹の根ばかり。アリアドナは一向に姿を現わさない。
「エーレ、お願いがあります」
「何だ」
これを言えば、エーレはきっと怒るだろう確信がある。
私はエーレを怒らせてばかりだけれど、一番の問題は、怒らせると分かっていて行動を改める気がないところなのかもしれない。
「私が合図するまで、手出し無用でお願いします」
「断る」
「検討時間が皆無」
そう言うとは思ったけれど、私の髪を欲した白装束よりも早かった気がする。
いつもはこのまま引っぱたかれるだろうが、状況が状況で、場所が場所だ。
時と場合と状況を力尽くで無視してきた人であり、それらを私に教えてくれた内の一人であるエーレは、案の定不機嫌な顔で私を睨んだ。
「理由」
とてもではないが、神殿で神官が聖女へ向ける顔ではない。けれど結局、エーレとしてマリヴェルの意見を聞こうとしてくれるのだ。
「アリアドナと、話しがしたいんです」
誤魔化す必要もなく、素直に告げる。
エーレは舌打ちした。神官が聖女へ向ける顔どころか、配偶者に向けていい顔なのかも分からなくなってきた。
その辺りの機微が私にはよく分からないが、エーレはどんな顔をしていてもエーレなので問題ないことは分かる。
「マリヴェル、お前まさか、アリアドナに同情してるんじゃないだろな」
「そうでは、ありませんが……正直、力尽くで討伐していいのか、悩ましい相手だとは思っています」
エーレは溜息を吐きながら片手を浮かせたが、大樹に触れたままの私に触れていいか迷ったのだろう。結局どこにも触れずその手を戻した。
だから大樹に触れていない手で、私から握る。
いつだって温かいエーレの手は、今日も変わらない。この場で唯一変わらないものに触れた気がした。
「マリヴェル、分かっているんだろうな。あの女の身に起きた事とあの女が起こした事は、全くの別物だ」
「分かっています。私は、彼女を許したいが為に話をしようとしているわけではありませんから」
「だったら、いい。お前の判断に従おう」
「ありがとうございます」
不満はあるが飲み込もうと、はっきり書いた顔が近づいてくる。
いつものようにそれを受け取ろうとして、ふと思いついて私から突っ込んでみた。ちょっとぶつかったけれど、エーレの驚いた顔を見られたので概ね満足である。
そうこうしている間も、大樹に反応はない。私の力を通したにも関わらず、アリアドナからの動きはなかった。
静かだ。命の気配がないだけで、世界とはこれほどまでに深い静けさを纏うのか。
ああ、アリアドナ。
あなたはあれからずっと、この静けさの中にいたのか。
ならば、仕様がない。
あなたはきっともう、どうしようもないのだろう。
「アリアドナ」
こんなに近くにいるのに、私を見失ったのだろうか。
それとも、私を追うことを忘れてしまったのか。
「アリアドナ」
それなら、私から訪ねていこう。
どういった形であれ、アリアドナとは必ず決着をつけねばならないのだ。
「アリアドナ」
あなたと私は共存できない。
この国に聖女は二人発生しない。
あなたが決めた掟なれば、あなたが守るは世の道理。
この国は、あなたが定めた掟で常識が形作られた。それを守り続けた民を殺し、生を砕き、何の価値もないものとして扱ったあなたを、私はどういう立ち位置の私としても、許すわけにはいかない。
あなたにとって、聖女という立場は何の意味もないものだったのかもしれない。望むがまま力を振るい、望む結果を得る足場を固めていたに過ぎないのだろう。
それでも人々は、あなたの虚言が創り出した神を愛し、聖女を慕った。
その道程が私を創り、ここまで繋いだ。
十三代聖女を創り出したのは、アリアドナ、あなたに他ならない。
だから、だからもう。
「終わりにしましょう、アリアドナ」
エーレの手が残された私の手と絡む。温かな炎も、人が生み出した知の一つだ。
人が生きる為に得た知恵。人が安全に冬を越す為に必要とした英知。
人は、人たらんと重ねた知の中で人となる。それらを後世へと繋げた歴史の中で、人たり得る。
私は、人を人たらしめてきた歴史が形作った人と一緒に、星の中へと溶けた。
命の気配がない、白の世界。最早見慣れた世界だ。
けれどここは、少し様子が違う。
幾度も幾度も、白を重ねて塗り潰し、それでも足りぬと白が降る。
そんな白の世界に、金色 がぽつんと座り込んでいた。
私とエーレは、その金色へと向けて歩き出す。歩を進める度、白がたわみ、波紋が広がっていく。
足下は水面のように見えるが、私達の足は濡れていない。けれど振動に合わせて波紋は広がり、波のようなたわみが遙か遠くまで流れていく様はどう見ても水面だ。
そんな中、長い金色の髪を白に溶かしながら座り込んでいる女は、俯いていて顔が見えない。
白い水面へ浸した両手が、髪の隙間からかろうじて見えるだけだ。
声がする。
「どこ」
声がする。
「どこにいるの」
女の声が。
「あなた、どこにいるの」
声が。
「あいたいの」
アリアドナの、声がする。
「会いたいの、逢いたいの、あいたいのあいたいのあいたいのあいたいのあいたいのあいたいのあいたいのあいたいのあいたいのあいたいのあいたいのあいたいのあいたいのあいたいのあいたいのあいたいのあいたの、に」
あなた、どこにいるの。
「どうしてこたえてくれないの…………どうして――…………」
止めどなく続いていた言葉の後に落ちた言葉を最後に、アリアドナはぴたりと言葉を止めた。
突如アリアドナの頭が跳ね上がり、弾かれたように私を見た。
そうして、がぱりと口を開け。
「は、はははははははははははははははは!」
これまで、たおやかに笑う姿を世に残してきた女が浮かべたとは到底思えぬ顔で、笑った。
「堕ちたな、人形! 人喰らいの聖女など前代未聞だぞ!」
神喰らいと人喰らい。
どちらの罪が重いかなど、比べようもない。どちらも購えない罪の重さに溺れ、消えてしまえばいい。
嬉しくて堪らないと声を弾ませるアリアドナは、先ほどまで今にも泣き出しそうな声で愛した人を探していた女とは、まるで別人だった。
その、顔さえも。
ここにいるのは確かにアリアドナだと、変質しきった魂が告げている。それでも、顔つきはアリアドナに似てはいるが全くの別物で。
金色の髪が揺れる。その髪色は、エイネ・ロイアーの物だったはずだ。
「お前が無残に砕け散る様を見られなかったのはとても残念だけれど、ええ、ええ、構いませんとも。お前はあの神から承認を受けた、神に近しき物。わたくしの定め事の規定から外れし物。ゆえに――最早、お前の自壊を待つ必要はありません」
立ち上がったアリアドナの足は、水面についてはいなかった。長い金の髪は白い水面に溶け込んでいるのに、その足は宙に浮いている。
どこか人形のように見えるのは、私の思考が意趣返しを望んだからか。
それとも、人から離れ、神には至らず、どの領域にも属さないアリアドナの身を表現する術が、他になかっただけなのか。
私には分からなかった。
しかしこの思考が一種の意趣返しであったのなら、私は自嘲するしかない。仕返しなど、まるで人のようではないか。
ゆらりゆらりと浮いた両足を揺らしながら、アリアドナは私の前へと到達した、白に溶け込み広がった金の髪も、美しい笑みをたたえた顔も、まるで慈愛に満ちた聖女のようだ。
それなのに、その瞳はどこまでも蔑みに溢れている。そして、だらりと垂れ下がった両の手足が揺れる様は、やはり人形にしか見えなかった。
「十二体もの神を喰らったのです。今更一体増えたところで、何の障りがありましょう。――――十三代聖女、お前を殺し、わたくしは万能の神となるのです」
私達の他にも誰も存在せず、風もないはずのこの空間で、アリアドナの髪はざわざわと揺らめいている。
その身からは有り余るほどの神力がみなぎり、この世全てが彼女に味方する。
神々しいという言葉など必要ない。人の形をした神と呼んで差し支えのない姿だ。
その顔は、私達が知っているエイネ・ロイアーのものとは違う。口調はよく知った女のもの。けれどそれを紡ぎ出す顔は、星の中で見たものと同じであったが違うもの。
初代聖女であり、エイネ・ロイアーであり、アデウスに君臨した聖女全てが混ざった女。
私達の前にいるのは、全ての始まりである女。
アリアドナだった。
「では、あなたは人であることを放棄するのですね」
「高みへの道が開かれているのに、わざわざ矮小な存在に留めておく必要がどこにあるというのかしら」
アリアドナはころころと笑う。そうして見ると、まるで少女のようだ。
けれど彼女の為した残酷は、幼さがもたらしたものではない。彼女は明確なる彼女の意思で以て、アデウスの民を苦しめた。
私の前にいるのは、神を捨てた女。神を喰らった女。
愛した男を失った女。故国に虐げられた女。
神として産声を上げようとしている女。
それら全ての集合体から目を逸らさぬまま、告げる。
「ならばもう、アデウスにあなたは必要ありません」
アリアドナは笑みを失うことはない。失う理由などない彼女は、美しくたおやかな微笑みを浮かべ続けている。彼女には引く理由など存在しないのだろう。
だが、引く理由がないのは私とて同じだ。
「人を解さぬ神に用などない」
ぴくりと、アリアドナの口元が跳ねた。
アデウスには法を介さぬ規律がある。信心という形でアリアドナが徴収した民の心、その奥深くに根付いた最早感性となるほどに馴染んだ規律だ。
その規律を定めた女が、目の前にいる。
「そう言ったのは、あなたでしょう」
自分の発言には責任を持ってもらわなくては、困るのだ。