101聖
『―――て』
声が聞こえる。
『――して』
涙を砕いたかのような、悲痛な女の声がする。
『どうして』
己が泣いていることすら気付いていない、悲しい女の声がする。
『どうして』
女の声がする。
『どうして』
アリアドナの声が、する。
深い呼吸を一つ。たったそれだけの間で、私達は王都に立っていた。
左右に立つエーレとルウィを確認する。顔色も正常で、身体的負担が表出しやすいエーレがまっすぐ立てている様子を見るに、疲労もなさそうだ。
大丈夫だとは思っていても、安堵はする。
何せ初めてのことなのだ。
私はというと、若干身体が重い。神の御業を扱う術を得たとて、扱えるとは限らない。
まあ、そういうことである。
鍛錬不足もあるが、純粋に私の容量不足だ。神力が皆無の状態が長かった私では、神力を扱いきれない。神力が身体に馴染みきらないのだ。
神の器としてきちんと機能した場合は、その神の御力で調整されるはずだった。しかし神を下ろさぬまま、その権能だけを許可された身ともなれば、そうそううまく扱えるはずがない。
そういう風には作られていないのだ。
ある程度は、いずれ時間が解決するはずである。それでも、かつてこの地におわした神々のようになれることは決してないだろう。
しかし神の器である私がこの状態だというのに、徒人の身であったアリアドナは、時間をかけたとはいえ十二神の力を取り込んだ。一体どうなっているのだ。
最早、尊敬の念すら抱いてしまう。
何度か掌を開閉した後、私は無意識に後回しにしていた周囲へと視線を向けた。
そこに、私達が知っている王都は存在しない。
私達の故郷は、見るも無惨に変わり果てていた。
神殿と王城に止まらず、霊峰をも飲み込んだ大樹が空の全てを覆い、完全に日の光を断っている。
空を覆いきった大樹により、王都は夜に染め上げられたままだ。
大樹は私達が王都より落ち延びた頃に比べ、格段に大きくなっていた。今は成長が止まっているのか、他所に意識が向いているのかは分からないが、どうやら動きを止めているようだ。
地面を隆起させ、地上にその身の半分を露出している根に掌を重ねる。そういえば、まともに触れたのはこれが初めてかもしれない。
私が大樹の根を認識する時は、いつだって激しく動き回っている最中だったため、触るどころではなかったのだ。
ひたりと掌を当てたまま、意識を集中する。未だ慣れない神力を慎重に扱い、大樹へ私の意識を通した。
根を通り、大樹に流れる大まかな神力を探り把握していく。
探り、探し、探り、探し、探し探し探し探し探し探し探し探し探し探し探し探し探し探し探し探し探し探し探し探し。
何も、見つけられず。
結果として、大樹が恐ろしいほどの沈黙を保っている事実だけを把握した。
「………………北の地を襲った根も、止まってる?」
あの地へと根が伸びていることは確かだ。
だが、その根にはアリアドナの意思が通っていない。どれだけ根を伸ばそうと、大樹は生物ではなく、命でもない。
どれだけ激しい動きを可能としていようと、アリアドナの意思がなければただの植物と変わらなかった。
ざらりとした、けれどふかりと柔らかい表皮。まるで生木だ。
こうしていると、本物の木となんら変わらないように思えてしまう。本物の木は短期間で王都を飲み込んだりはしないし、世界を白に染め上げたりは、しないけれど。
大樹の根に通していた意識を、自分の中に戻した私は、改めて周囲を見渡した。
白。白。白。
王都は、見渡す限り白に染まっている。
現在の時間帯は昼のはずなのに、空は真っ暗だった。それでも明かりを必要としないのは、大樹自体が薄らと白い光を発しているからだ。王都中に張り巡らされた枝葉まで白く光っている。
見ようによっては幻想的で美しい景色といえた。
これが、そう思える軌跡を得た結果ならどれだけよかっただろう。
けれどこれは、王都とそこにいた命を一人の意思により飲み込んだ大樹だ。いくら美しい光景を作り出そうと、世界より排除しなければならない人工的な災厄でしかない。
そして、世界を白く染め上げているのは、光る大樹だけではなかった。
私達の動きに合わせ、白い何かがふわふわと舞い上がる。花とも綿毛とも違う不思議なそれは、王都中に、建物を縫い地面をうねられた枝葉の上にも、薄く降り積もっている。
今なお、降り積もり続けている。
雪のようにふわふわと、沢山の白が降ってくる。
視線を上げれば、空を覆う大樹から多量の白が降り注いでいた。この規模で降り注いでいる物が、私達の足首に届くか否かの量しか積もっていない。
降り始めたのはごく最近なのか、それとも何らかの形で消えているのか。
「これは……綿毛に見えるが…………違うのだろな」
「綿毛に見える理由は色々ありそうですが、植物が必要に応じて世界に放っている綿毛とは、用途が異なりそうですね」
私達の動きに煽られた白が、ふわふわと舞う。水気を含まず乾燥したそれが、私達が動くまで止まっていた理由は一つである。
今の王都には、これだけ植物の匂いが充満しているにもかかわらず、風が吹いていないのだ。
そして、どこにも命がいなかった。
口元を覆ったエーレが地面に膝をつき、綿毛もどきをじっと観察する。私もエーレの横にしゃがみ込む。
すとんとしゃがみ込めば、宙に漂う白の量が一気に増えた。
視界いっぱいに広がった白は、視界から進むべき方向も、王都を覆う絶望も隠してしまう。
「馬、鹿野郎!」
とりあえず一つ摘まんで口に含んだら、凄まじい声量で怒られた。
怒鳴りながら飛びかかってきたエーレが私の腕を掴み、口から遠ざける。その過程で口に突っ込んでいた指も抜けた。
その勢いのまま、私の口から白を掻き出そうとしてくるエーレの顔面を掌で押さえ、味わっていたそれを吐き出す。行儀は悪いが、非常事態として許してほしい。
「少し待ってください」
別に飲み込んでもよかったけれど、今のエーレなら確実にお腹を殴って吐き出させにかかるだろう。視界を覆う私の手首をがっしり掴んでいる辺りから、即座に吐き出させるという気概を感じる。
私は、毒を食べたり石を食べたり土を食べたりしていた実績を持ちすぎて、エーレ達は私から何かを吐き出させる術に長け過ぎていた。
よって、必要とあらば躊躇なく実行するだろう。
今だって私の制止がなければ、流れるように吐き出させにかかったはずだ。
エーレの視界を覆っていた手を外しても、その手首を握りしめているエーレの手は外れないし、寧ろ力が強くなっていた。
待ってほしいとの制止令を守っていたエーレは、視線の解放と共に口を開いた。
「マリヴェルお前! まだ口にしていい物と悪い物の区別がつかないのか! 赤子でももう少し真っ当だぞ!」
「今の私は毒でも壊せませんので平気ですったぁ!?」
凄まじい剣幕で怒鳴るエーレに安心してもらおうと、自信満々の笑顔を返した。
その結果、凄まじい剣幕のまま全力ではっ倒された。
引っぱたかれた頭が痛いわ、綿毛もどきが凄まじい量舞い上がるわで、様々な意味で眩暈がする。
「……お前に影響は」
「はっ倒された以外はありません」
はっ倒された事による損傷も軽微だ。物凄く痛かっただけである。
まじまじと私を覗き込んでいたエーレは、私に変化が無いとみると、ふっと安堵の息を吐いた。
息と同時に全身からふっと力が抜けていくので分かりやすい。
心配をかけてしまって申し訳ないとは思うが、必要があればいくらでも繰り返す予定なので、エーレにはできるだけ早く諦めてほしいと思っている。
無理そうならば、私もエーレにばれないよう練習するので、一緒に頑張っていきたいものだ。
ひとまずつつがなく私をはっ倒し直したエーレは、次に温かな風を起こした。その風により、私達の周囲から白が吹き飛ばされていく。
まるで透明な半円型の硝子をかぶっているような状態が、吹き飛ばされていく白によってはっきりと見えた。
はっ倒された頭を擦りながら、その光景を見上げる。そしてすぐに視線を戻す。
未だ怒りが収まりきっていないどころか、何故か新たな怒りを勃発させているエーレをどうにかしなければ。
「毒では壊せない上に、今なら大雑把とはいえ解析が可能ですし、私が食べるのが一番手っ取り早いのでは?」
「それと唇を合わせる俺の身になれ。泥も毒も御免被るぞ」
「しなければいいのでは――――――――しなければいいのでは!?」
「そなたら、ほんとすぐ余を忘れる」
そなたらとルウィは言うが、忘れているのはエーレだけだと思うのだ。エーレの場合、分かっているのに無視している可能性も捨てきれないが。
軽く咳払いして、話を戻す。
「何であれ、人はこれを多量に摂取しないほうがいいとは思います」
「ほお? 毒――ならば、そなたがエーレに癒術をかけぬはずもなし。理由を説明せよ」
「どちらかというと、神力の残滓に近いからです」
私は大樹を見上げた。
「そもそもこれを降らせている大樹が、突如解放された巨大な神力の塊です。一つの力として纏まりきれず、あぶれた神力が形となった物がこれですね。神力の使い手がアリアドナである以上、そこには人への憎悪が籠もっています。そんなものを摂取して、影響が出ないとは思えません。そもそもこれには、アリアドナの意思も混ざり込んでいるように感じます。触れないほうが得策でしょう。どんな影響が出るか分かりませんので」
「おい」
エーレが低い声で唸り、私を見た。その怒りを、広げた両手で制す。
怒り自体は全く制せないのだが、ひとまず動きは止めてくれた。
「あれは人にのみ有効です。人と構造が違う私には意味を成しません。そして私を一回介したことで効力は失われ、エーレにも影響を及ぼしません。濾過と似たような現象と思ってもらえばいいかと。ただやっぱり心配ではあるので、私が何らかを解析しているときはくっつかないようにしてくださ――――――――してくださいね!?」
そうだった。この人意外と口づけが好きなのだった。
これ以上の被害を防ぐべく、顎に添えた掌から伸ばした指で口元を覆う。
「呼吸に混ざり込む大きさでないとはいえ、細かな破片が飛散していても納得する形状が厄介であるな。余もエーレも聖女でなし。触れぬが得策であろうとの聖女の意見、同感だ」
「そうですね。できる限り、エーレの結界から出ないほうが無難です。エーレ、この結界は二つに分けられますか?」
いまは三人固まっているが、このままずっとこうしていられるとは限らない。非常事態ともなれば、確認している暇もないだろう。よっていま聞いておきたいところだ。
「可能だが、一応聞いておく。それは二手に分かれることを想定しての質問か」
「そうですね」
「そうか。三方向に分かれた上で、俺と殿下にしか結界を張るつもりがないわけではないんだな」
「流石エーレですね! 察しがいたたたたたたたたたたた!」
これは以前から思っていたのだが、私とエーレが話をすると、大抵私の頭がへこむか抉れるかかち割られるかなので、誰かを挟んで話したほうがいいのではなかろうか。
そんなことを思っている端から、エーレの結界が二つに割れていく。ルウィが私達から距離を取り始めたのだ。
どこに行くのだろうと視線で追う。
そんな私の手を引き、エーレが顔を合わせる。
「気のせいかと思ったが、マリヴェルお前、思考がかなり煩雑になっていないか?」
「…………やっぱり、そう思います?」
「まあな」
自分でも、自覚はあった。
今までならば、神の器としての自分と聖女としての自分。それらを軸とし、許された部分でだけマリヴェルという個の稼働が許されていた。
けれど、今は違う。
神の器としての私は砕け散り、私に課せられていた制限も共に消失した。これまでは抱くことすら許されなかった感情や思考が、私の中に選択肢の一つとして表れるようになってしまったのだ。
その上、神にしか許されなかった領域への侵入が許された。
世界の上から星の中まで見えるようになってしまったものだから、どうしようもない。
見えるものが増え、向かう思考が増え、許された可動領域が増えた。
正直、持て余している自覚はある。
思考はとっちらかり、慣れぬ感情に振り回され、神より授かった力もうまく扱えていない。
状況の把握が何より大切なはずなのに、必要以上に感情ばかりが思考を占める。それすらもうまくいかず、同じ問答を繰り返すだけで何一つ完結せず解決もしない。
一元化された原則で稼働していた頃は、それより外れようとすれば強制的に制止がかかった。
けれど今はそれがない。
自由にどこまでも思考は流れ、感情は動き、宙に近づける。
私は私でしかないというのに、出来ることだけは増えてしまった。
どこまでだってぐちゃぐちゃとかき混ぜてしまえる思考は、なかなかに恐ろしい。実際、泥沼にはまる思考というものが理解できてしまった。
けれどこれが、人が生まれ持ったその時より持ち得た状態なのだと思うと、感嘆の念を抱くしかない。
皆は、こんな状態を幼子の時分より続け、理性を築いてきた。
可動域が増えた思考一年生の私がその域に達するまで、一体どれだけの時間がかかるのだろう。
とりあえず、頭の中を黙らせる訓練から始めたいがその時間がない。
最初から詰んでいる。
「人と同等の思考域を得られたばかりなので、実は結構収まりがつかなくなっている自覚はあります。私という軸がぶれているような、不思議な感覚です。慣れるまでの間、お手柔らかに見守っていただけると嬉しいです」
「ぶれた拍子に、うっかり殿下を愛人に迎え入れなければ何だっていい」
「私の愛人になって、ルウィに特典ありますかね」
そんなことを話している間に、ルウィは大樹の根の上に立っていた。一際大きな根なので、私とエーレはルウィを見上げなければならない。
「マリヴェル」
「はい、ルウィ」
ルウィの周りには、エーレが張った結界がきちんと追従している。
ルウィが立っている木の根は、その大半が地面に埋まっていた。地上に露出している部分は、その形状を見るにほんの僅かだろう。
しかしその程度の露出であろうと、私達の身長より遙かに大きい。
こんな根があちこちにあるのだ。私達は己が知っている王都の地図を、とてつもない規模で修正しなければならないだろう。
天も地もなく、縦横無尽に走った木の根が地面も建物も波打たせ、もう全てが滅茶苦茶だ。私達がいま絶っている場所が、建物跡なのか道だったのか、それすらもだ。
ただでさえ大きな木の根の中でも、こういった一際巨大な根は完全に道を塞いでしまう。
道を塞がれる度、乗り越えるか通行可能な道以外の空間を探さなくてはならないので、神殿に辿り着くまでには、想定以上の時間がかかりそうだ。
ルウィがいるのは進行方向とは違う木の根なので、今回に限り乗り越える必要はないのだが、見晴らしは良さそうだ。
そしておそらくそれが、ルウィをあの場に立たせたのだろう。
木の根を平らになっている部分まで登り、更によじ登れるだけ進めば、ルウィと同じ高さに到達した。建物で言えば、二階半ほどの高さだろうか。
エーレは地上で留守番を選択し、私達と同じ高さには上らないと決めたようだ。木登りが得意ではないエーレにとって、根登りも積極的に行いたい行動ではないらしい。
昔から木登りしたら引っぱたかれたし、落ちたらもっと怒られた。サヴァスには泣かれたし、何故かサヴァスも落ちてきた不思議な思い出も付随している。
大樹から降る雪とも埃とも違う白は、どこにいても降ってくる。
エーレのおかげで直接私達に触れることはないが、ここまで歩いてきた私達によって舞い上がった道程は、すぐに埋もれて見えなくなった。
ここが王都でなければ、帰り道はとうの昔に分からなくなっていただろう。
けれどここは、私達が生まれ育った王都だ。
だから、私達が進む方向こそが帰り道だ。
大樹から降り注ぐ綿毛のようなそれは、長く放っておかれた倉庫の大掃除中に舞う埃のように、ふわふわと世界に漂っている。掃除をしたばかりの場所に降り積もれば、大きな虚無感を感じたものだ。
隣に並んだ私へ視線を向けず、ルウィは大樹を見上げていた。
その瞳は、恐怖も怒りも宿していない。かといって感情を一切含んでいないわけでもない。
静かな横顔を見つめていると、その口が開かれる。けれどやはり、視線が私を向くことはない。
「余もエーレも、生の流れが変容したと申したな」
「ええ」
ルウィの視線が大樹を外れ、静かに周囲を巡る。
「ならばこれが、いつかの余が見る景色か」
「そうかも、しれませんね」
どれだけ栄華を極めようと、名がある存在はいずれ消えゆくが世の道理。
神でさえ道理に従ったのだから、アデウスとて例外ではない。寧ろ国である以上、滅びは必然だ。
悲しい。辛い。苦しい。寂しい。
どんな言葉も相応しくない。
ルウィはどんな慰めも共感も必要としない人だ。
私はルウィを見ず、ルウィも私を見ていない。
私は自分の頭へ適当に突っ込んだ掌を髪の先まで通し、払った。私の髪が引き受けていた白が、世界に放たれる。エーレが幕を張る前に、髪へと絡んでいたのだろう。
空を漂う白が、大樹から降り注ぐ白に混ざって分からなくなる様をただ見送った。
特に意味などない。
意味などなくても視線は世界を映すし、私達は息をしている。
「余は」
「はい」
「アデウスを看取れるのであれば本望よ」
置いていかなくていい。
それがルウィによる愛の形であり、彼にとっての救いなのだと言うのなら、私が言うべき言葉は何もない。